三日坊主な備忘録

三日坊主な備忘録

どうも、ジョンです。
2020年誕生男児と、2022年誕生女児の、2児の母。
子供や夫について考えたこと、自分について考えたことを
つらつらと語ります。

何か伝えるというより、自分の頭を整理するに近い。
題名の通り、毎日書くのはまだ難しい。
そんなブログです。

最近X(旧Twitter)で

「ホームステイ先でひとを助けようとしない子」

「逆に助けようとして突っ込んで怒らせる子」

「『迷惑をかけない』文化の弊害」

のようなポストを見かけた。

 

この『迷惑をかけない』というスタンスは非常に厄介だと

夫と接してて、子供を育てていて、常々思っている。

 

迷惑と助け合いの違いは

私はそこが生じたときの双方の感情なのだと思うが

夫の『迷惑か否か』の判断には【相手】がいない。

【自分の行動】しかない。

相手がその行為でにっこり笑っているか、むすっと怒っているか

それが全く関係してこないのだ。

相手が喜んでいたとしても悲しんでいたとしても

「僕がこの行動が迷惑な行動だ」なのだ。

 

ではなぜそのようなことが起こるのか。

これは私の想像なのだが

夫は『相手の反応が自分の想定と違うこと』が怖い。

自分と違うということは自分の否定になりうる。

だから「僕のこの行動は迷惑である(迷惑でない)」と

自分の行動だけ見て迷惑か否かを判断している。

相手を見なければ、想像上の相手しかいない。

想像上の相手はいつだって理想通りだ。

 

そうして、『迷惑をかけてはいけない』の究極形態の

『相手の表情や行動を見ようとしない』が

生じてくるのかなと思う。

考えてみれば、それこそが【迷惑な行動】というか

【失礼な行動】だと思うのだが。

 

だから私が

「夫が働く時間に、私は子供のお迎えをしている。」

と言うことを言おうものなら

感謝するどころか、恐怖で狂いだす。

なぜなら夫にとって『自分のことを人にやってもらう』ことは

【迷惑な行為】に違いないから。

そして夫の理想は

【他人に迷惑をかけない優秀な人間】だから。

私がそれを笑顔で言おうと、怒って言おうとなんだろうと

夫にとっては固定で【迷惑な行為】なのだ。

そして私は固定で『怒っている』。

 

『自分のことを人にやってもらう』が

固定で【迷惑な行為】になってしまう夫は

とにかく【モノ】と【人】をつなげない。

誰がこの洗濯物を畳んだのか

誰がこのご飯を作ったのか

誰がこれを使う予定なのか

誰が用意したものなのか

それらがとても希薄になっているように見える。

 

繋げたら最後

『自分がものを使う行為は誰かの行為の上に成り立っている』

すなわち

【自分の行動は迷惑な行為】

になってしまうから。

たとえそれが自分が好きでやっていたことだとしても

その瞬間に、それが【忌むべき行為】になってしまう。

好きでスマホゲームをやっていたとしても

『その時間に私が子供の世話をしている』ことに気付けば

途端にスマホゲームをすることが【忌むべき行為】になる。

体を休ませることも、仕事も同様である。

 

夫は今

「何も楽しいと思えない」

とよく言う。

その原因はここにあると思う。

 

よくX等で見かける「人んちの冷蔵庫勝手に開ける問題」も

ここに起因してくるのだと思う。

 

彼らは、【モノ】と【人】をつなげないのだと思う。

人んちにある冷蔵庫は【あの人の冷蔵庫】ではなく

【冷蔵庫】でしかない。

【冷蔵庫】は開けて使うもの、【食べ物】は食べるものだから

何の悪気もなく開けて食べるのだと思う。

彼らは『迷惑をかけている』つもりはないのかもしれない。

 

だがしかし、

実際にはその冷蔵庫は【あの人の冷蔵庫】なのだ。

【a 冷蔵庫】ではなく【the 冷蔵庫】である。

誰かの所有物である以上、その所有者にまずは尋ねるのだろう。

冷蔵庫は開けてはならないことは無い。

だが、誰かの所有物は所有者の許しを得ずに触ってはならない。

だから「開けていい?」と聞くと思う。

「いいよ」と言われて開ければそれは迷惑にならない。

逆に「ダメ」と言われても開ければ迷惑になる。

「人んちの冷蔵庫を開ける」という行為は

その行動単体では迷惑にはならない。

迷惑になるか否かは【相手の反応】によるのだ。

 

『迷惑をかけたか否か』の判断基準を

【相手の反応】ではなく【自分の行動】におくと、

こんな頓珍漢なことがおこるのだろう。

自分の行動で迷惑をかけないように、の行きつく先は

「迷惑をかけないように何もしない」か

「迷惑をかけないように全部自分でやる」かの

どちらかになる。

どちらも【相手の反応】が置いてけぼりだ。

 

こうやって反応を見てもらえない側は

自分を大事にしてもらえない、失礼だ、という感覚を

受けるものだと思う。

だから私は夫にイラっとするし、もやっとするし

怒るのだと思う。

 

ここは本当に子育てでも気にしている。

「人の家には入らないよ」ではなく

「入るのは、この家の人に「いいよ」と言われてからだよ」。

(「いいよ、と言われるためにまず仲良くするところからだよ」

という部分も、あわせて言っている。)

「触らないよ」ではなく

「君はこのモノの持ち主に「いいよ」って言われてないよね」。

「工事現場は入れないよ」ではなく

「いいよっていう許可が下りた人だけ入れるんだよ」等々

『あなたのその行動が迷惑なのよ』ではないように。

なんて表現すればいいのかわからないが、

とにかく『子供の行動』ではなく『相手の反応』を見るように。

 

同時に「これは誰のもの」「これは誰が準備したもの」

「君のものはこれだね」「君がやった行動はこれだね」

「誰々はこれをやるね(やっているね)」などなど

『モノ・行動の所有者』を意識して声をかけている。

 

夫のこの『迷惑をかけない』に拍車をかけたのは

「家族のモノなんだから共用でいいじゃない」の

夫の実家の考えがあったからだとも思ってる。

 

なんとか、こうにか

夫も子供たちも私自身も、生きている。

タイトルのままである。

最近、こればかり考えている。

 

私が仕事人間だからだろうか。

夫と接していると、

どうも、反抗期の思春期の子供や、

とんがっている新入社員と接しているような

そんな気分になってくる。

 

そんな頃もあるよね、と言う気持ちはある。

だがしかし、「家庭」という企業を回すためには

仕事ができてもらわなければ困るのだ。

子ども達は「社員」ではなく、

いうなれば「インターン生」のようなもので

そのうち彼らはこのインターンを経て

どこかの「家庭」の「社員」となっていくのだろうと思うが

夫はもう我が家の「社員」なのだ。

インターン生ならば責任を負わなくてよいことも

社員ならば責任を負ってもらわねば困る。

 

例えるならば、そんな感じなのだ。

 

引き続き仕事で例えるならば

そんな社員に対して仕事を任せられるかと言われると

任せられないのだ。

責任を負えない人に責任は負わせられない。

それがゆえに「もうやらなくていいよ」が増えていく。

「これをお願いね」と言ったことに対して

放置したり、お願いと異なっていたりするならば

自然と任せられる部分は少なくなっていく。

たとえそれが良かれと思ってだとしても、

生じたミスや二度手間は消えて無くならないわけで

それを次やらない、という努力をしてくれない限り

「良かれと思って」では許されなくなってくる。

 

ただ。

「もうやらなくていいよ」の絶望感は

私も知っているのだ。

相手の期待にこたえられなかった、ということが

心に漬物石が落ちたかのようなショックを受けることもわかる。

 

わかるが、もう私は夫に頼めない。

もう夫にやいのやいの言いたくない。

 

「厳しくしすぎなんだよ」とはよく思う。

私の中の私もよく思っている。

だがしかし、乾かない洗濯物を乾かすのはだれか。

家計をやりくりして将来を考えるのはだれか。

「それできない」と夫が言うことをやっているのはだれか。

 

「先に信頼しないと」とも思う。

これも私の心の中の私もよく思っている。

だがしかし、もう夫からの行動無しに信頼できない。

これまで何度も約束を破られてきたし

自分自身への約束を破ってきた姿もたくさん見ている。

夫自身が約束を取り付け、それを守る姿を見せない限り

もう信用はできないと思う。

 

そんな夫と、果たして私はどのように向き合うのか。

おそらく、正解は「見守る」なのだろう。

じれったく思うが、口を出さず

彼の衣食住を安定して確保し

安心な空間である家を作る。

 

だがそれは、親が子に行うことではないのか?

私は彼の親なのか??

私の中の私がずっとそう言ってくる。

 

しかし、私が彼を大事にするならば

それをするのがよいのかもしれない。

いろいろなもやもやをぐっとこらえて

我が家はシングルマザーと3人の子どもというスタンスで

もうそれで私が落とし込むのが

おそらく我が家の「平和」になるのだろうと思う。

 

わかってはいる。

わかってはいるのだが、それが簡単に出来たら苦労しないのだ。

 

悩ましい。悩ましい限りである。

ブログを少しマイペースに続けてきたが

書きたいことだけ書いてきて

ちょっと方向性がわからなくなってきたため

ブログを使ってブログについて少し考えてみようと思う。

 

まず

私が書いていきたいことは

 ・夫との会話

 ・子供たちとのやりとり

 ・私が普段から考えている「これってなんぞや」について

である。

 

おそらく、「ASD」や「発達障害」というキーワードを出せば

読もうとしている人も、読んでいる人も

とても分かりやすいのだろうと思う。

周囲の人に相談するときも、まずその単語は出てくる。

X(旧Twitter)で似たような悩みを持つ人を探しても

当たるのはそのような人たちだ。

 

ただ、私はそれをあまり気持ちよく思わない。

その診断が正式に下っていないからというのも理由だが

なぜなら、私自身に対しても、夫に対しても、

子供たちに対しても、誰に対しても

「この人は〇〇だからね」というレッテルを張りたくない

という私の意地があるからだ。

 

それは簡単に言えば

「女の子だからね」「男の子だからね」とか

「あの人の息子だからね」「この人の娘だからね」とかと

似ている。

 

夫の行動も、私の行動も、子供の行動も

あくまで「その人個人」の行動で

それに対してある一定の「傾向」があるとしても

その行動の決定権を持つのはレッテルではなく本人自身だ。

 

もちろん、その人本人が自分の属性や傾向を知るために

カウンセリングや療法は必要だと思っている。

ただ、これらの属性や傾向は、本人が扱うものであり

他人が他人をラベリングするものではないと思っている。

私自身も、それで他人からラベリングされたくない。

 

そんな意地があるから、その言葉を使って

私の口から夫や子供たちといった私以外を説明したくない。

ましてや ”疑い” の段階で。

 

となると、私の自分自身や夫のへの困りごとを書くことは

ただの愚痴となって

「見ている人にとってただただ不快な内容」を

垂れ流すだけではないのだろうか。

昨日、ブログを投稿できずに終わったのはそのため。

そう思うと、子供たちとのほのぼのとした内容だけを

書いていくのが良いのだろうか。

 

だが、私が一番書きたいこと、発信したいことは

やはり私が私自身や夫や子供たちに対して接するときに

考えていること。

誰に対していうわけでもないが、

もしそれが、誰かの引き出しの一つとなれば

とてもうれしく思う。

そう思えば、キーワードとしてそれらの単語を使うことが

私の考えが届く人がつながりやすいのではないか。

そう思うと・・・・・・

自分の中でもやもやと葛藤している。

 

そんなことを思いながら

少し他の人のブログを見ながら、手探りで考えながら、

引き続きマイペースに頑張っていこうと思う。

土日があけて、月曜日。

大半の人にとっては「今週も頑張るか」という

始まりの曜日だと思うのだが

子ども達といると「やっと土日が終わった」という

週末のような感覚のする曜日である。

 

さて、そんなわけで、

ネタを考えるには頭が疲弊している月曜日なのである。

なので、ネタに尽きない我が子の話で

投稿日数をつないでいこうと思う。

ただの日常の感想なので、落ちなど期待しないで読んでほしい。

 

最近、テレビでオリンピックを付けている。

4歳息子は水泳に、2歳娘は陸上にはまった様子。

息子はソファで飛び込みの練習をして

娘は四つん這いでクラウチングスタートのマネをしている。

スポーツに興味を持つのも、練習することも良いことだ。

だが、

ここはグランドでもプールでもない。

ただのマンションの一室だ。

毎日下の階への騒音を気にして、止めないわけにはいかず

キラキラした笑顔の子ども達とは対照的に

親はへとへとである。

 

2歳娘が自分のことを呼ぶときに「娘ちゃん」という。

4歳息子も、昔は自分のことを呼ぶときに「息子くん」と

言っていた。

だが、いつのまにか「僕」になっている。

娘もいつか「私」になるのだろうかと思いながら

今の娘の「娘ちゃん」呼びを愛でている。

 

4歳息子はまだおむつが取れない。

遅いとか、異常だとかいう声も聞こえないこともないが

遅かろうと何だろうと、

異常だろうと異常じゃなかろうと、

現実問題で息子は"まだ"なのだから、そうするしかない。

そうするしかないので、焦らず息子のやる気を待っているのだが

だがしかし。

問題はおむつのサイズである。

個人的に家計の予算的にLサイズで打ち止め希望なのだが

だがしかし、明らかにもうビッグサイズである。

だがしかし、ここでビッグサイズにすると

Lに後戻りはできない。

ビッグサイズ期間が長いと、家計に響いて…。

だがしかし息子の快適さを考えるとビッグサイズ…。

という大人の悩みが尽きない。

おむつが高い。値上がりもあってさらに高い。

今日も息子はとりあえずのLサイズである。

 

2歳娘は歌がすきである。

先日、ピタゴラスと言う磁石のブロックのようなおもちゃで

即席のキーボードのようなピアノ(形だけ)を作ったら

大喜びで弾き語りをし出した。

おそらく保育園で先生方がやっているマネなのだろうが

立派に弾きながら振り付きで「せんせいおはよ」を演奏し

そのあとの「おなまえよびをしまーす」までやっていた。

娘は言葉の発達が早く、保育園の先生にも驚かれたが

相変わらず吸収力の早い子だなぁと感心する。

 

 

明日もどうか、平穏でありますように。

(夫の無関心さと、それによる私のイライラで

 なかなかその願いが叶わず、へとへとである。

 気になっても口を出さない忍耐力を強く持ちたい。)

風邪から復帰した夫は

相も変わらず「辛い辛い」とのたうち回っている。

私としては、

「現状辛くても、未来が辛いとは限らない。

 未来も辛くていいならば動かなくてもいいと思うが

 未来はつらくありたくないならば

 現状の「辛い」を変えていく努力が必要になる」

と言いたいのだが

その「努力」自体が辛い辛い、とゴロンゴロンしている。

 

さて。

努力する、とはなんなのか。

 

私個人の考えだが

努力とはスキルであると思う。

努力と言うものをどんなものか考えてみると、

 

将来に自分が望む結果を見据え

労力の継続を一定期間行い

一定期間の後に客観的分析を行い

その分析結果をもとに方向性を整え

労力の継続を行う

 

という流れで行われるものだと思う。

それぞれの段階において、練習無しでできるものではない。

そして、このどれかが欠けると、努力は続かない。

そう考えてみると、

「努力」とは身体的な面よりも、頭脳的な面が多いのだと思う。

 

「努力」と言うスキルをはじめ

様々なスキルは、生まれた直後から備わっているものなど

ほぼ無いに等しいのだと

子ども達を育ててみて改めて思う。

自分に「普通」に備わっていると思っていた

「食べる」「寝る」「座る」「歩く」「走る」

「風呂に入る」「トイレで排泄をする」などなどの

生活面の様々なスキルにしても

考えてみれば当然のことではあるが、

生まれてすぐの新生児には備わっていないのだ。

生まれてすぐの新生児に備わっている機能はせいぜい

内臓と細胞の機能と、「生きる」という本能だけだった。

 

ではなぜ、私たち大人も、我が子たち子供も含む

彼ら新生児はそれらのスキルを身につけられたのか。

 

大人を見て望む結果を見据え

労力の継続を行った

 

という「努力」の形を拙いながらに取っていたのである。

ここに彼らなりの「客観的分析」があったかは

私はわからない。本人たちにしかわからない。

ただ、寝返った彼らは、座った彼らは、一歩二歩と歩いた彼らは

とてもとても嬉しそうだったのだ。

どう見ても本人の「こうしたい!!」という結果があり

それを目指して労力の継続を行い

望む通りの将来が得られた、という形にしか見えないのだ。

 

そして大事なことに、これらの発達個人差がある。

つまり、本人が「やりたい」とその将来を望まなければ

なかなかに取り掛からないのだ。

それがゆえに、周囲はまず本人の「やりたい」を

引き出すための策をあれやこれやと考えるわけなのだが。

 

努力と言うスキルは

身体的な面よりも、頭脳的な面が多いと思うと述べたが

おそらく、筋肉と同じで頭脳も使わなければ衰えていく。

新生児の時にはあり、そこからめきめきと鍛えた頭脳でも

使わなければどんどん衰えていく。

つまり、努力の思考を人に頼れば頼るほど

必要ないと甘えれば甘えるほど、

脳は衰え、努力のスキルは落ちていくのではないか。

もしかしたら、

自分しかいない世界で脳を精一杯使って努力を続ける新生児は

人生の中で一番「努力の天才」である時期なのかもしれない。

私も子供たちを見ていて頭が下がる気持ちになる時がある。

 

さて。

ここで夫に戻って考えてみると。

どうもいろいろと話してみて、夫は「考える」ということを

強く拒否しがちなのである。

 

なぜか。

ここからは私の想像でしかないが

夫は「賢い」と頭脳を褒められ続けた。

「賢い」から「答えが出せる」。

それがゆえに、その「賢さ」をもって

「答えが出せない他人」を蹴落とし続けた。

今更「賢い=答えが出る」という武器を否定するわけにいかない。

つまり、「考えられない自分」「答えを出せない自分」から

とにかく目を背けたい。

そうしなければ、「賢さ」を武器に蹴落としてきた他人から

自分が蹴落とされてしまうから。

「あなたは何をしたいの?」

「あなたが好きなことは何?」

「将来どうしたい?」

そのような、簡単に答えが出てこないことを考えることを

強く否定している感じがする。

 

それは夫が、

「将来の見通し」「目標の設立」「課題の設定」の部分を

学校の先生や、親や、私や、ゲームシステムに丸投げをし

自分が「ただ何も考えずに実行すればよい」を

夫がし続けたことにあると思う。

楽なのだ。確かに。頭を使わないということは。

ただもうこれは、ドラえもんのブリキのラビリンスの世界だ。

人間の頭脳はそれでは衰えていく一方だ。

どこかで周囲がしてくれたその部分を

自分で行えるようにしていかなければ、自立はできない。

(もしくは、誰かに自ら依頼することが

 できるようにならなければ)

 

義母が

「この子は考えると沼にはまるから、

 何も考えさせないで『これやって』と言えばいいのよ」

と言っていた。

確かに義母は夫のことをよくわかっていて

この対応は義母なりの夫を苦しめまいとした愛なのだろう。

だが私は義母をはじめとした周囲のこの対応が、

今夫を苦しめている原因になっているのではないかと思う。

私もこの夫の苦しめる原因になったことは事実だと思う。

私が契約した家に転がり込み、

私が環境を整え、就職の後押しをし、

デートの場所は私が決めて、段取りも私が取っていた。

夫は、自分のことだけやればよかった。

(私が私の環境をそうしたかったからに他ならないが、

 そこに夫がフリーライドできる環境を作ってしまったことで

 夫の「何も考えなくていい」に拍車をかけてしまったのかも

 しれないとも思う。)

 

努力は、がむしゃらにはできない。

もちろん努力が計画通りに行かないことも多々あるが

努力は、自分の声を聴き、頭脳で考えて、

ある程度の筋道を立てないと

達成感もなく、ただ疲れるだけになってしまう。

それこそ「やらされる努力」の辛さはそこにある。

 

だがしかし、努力がなければスキルは身につかない。

ちちんぷいぷいの魔法はこの世にはないのだ。

 

苦しいと思う。

これに10歳や15歳や18歳で気付けば

その年齢にふさわしい考える力に追いつくだけでいい。

が、夫に対して夫自身や周囲が求めるのは

36歳相当の考える力だ。

ハードルが高い。果てしない。もう嫌だという気持ちもわかる。

 

夫は逃げるかもしれない。

逃げてもしょうがないかもしれない。

でも、私は夫に逃げないことを望む。