最近X(旧Twitter)で
「ホームステイ先でひとを助けようとしない子」
「逆に助けようとして突っ込んで怒らせる子」
「『迷惑をかけない』文化の弊害」
のようなポストを見かけた。
この『迷惑をかけない』というスタンスは非常に厄介だと
夫と接してて、子供を育てていて、常々思っている。
迷惑と助け合いの違いは
私はそこが生じたときの双方の感情なのだと思うが
夫の『迷惑か否か』の判断には【相手】がいない。
【自分の行動】しかない。
相手がその行為でにっこり笑っているか、むすっと怒っているか
それが全く関係してこないのだ。
相手が喜んでいたとしても悲しんでいたとしても
「僕がこの行動が迷惑な行動だ」なのだ。
ではなぜそのようなことが起こるのか。
これは私の想像なのだが
夫は『相手の反応が自分の想定と違うこと』が怖い。
自分と違うということは自分の否定になりうる。
だから「僕のこの行動は迷惑である(迷惑でない)」と
自分の行動だけ見て迷惑か否かを判断している。
相手を見なければ、想像上の相手しかいない。
想像上の相手はいつだって理想通りだ。
そうして、『迷惑をかけてはいけない』の究極形態の
『相手の表情や行動を見ようとしない』が
生じてくるのかなと思う。
考えてみれば、それこそが【迷惑な行動】というか
【失礼な行動】だと思うのだが。
だから私が
「夫が働く時間に、私は子供のお迎えをしている。」
と言うことを言おうものなら
感謝するどころか、恐怖で狂いだす。
なぜなら夫にとって『自分のことを人にやってもらう』ことは
【迷惑な行為】に違いないから。
そして夫の理想は
【他人に迷惑をかけない優秀な人間】だから。
私がそれを笑顔で言おうと、怒って言おうとなんだろうと
夫にとっては固定で【迷惑な行為】なのだ。
そして私は固定で『怒っている』。
『自分のことを人にやってもらう』が
固定で【迷惑な行為】になってしまう夫は
とにかく【モノ】と【人】をつなげない。
誰がこの洗濯物を畳んだのか
誰がこのご飯を作ったのか
誰がこれを使う予定なのか
誰が用意したものなのか
それらがとても希薄になっているように見える。
繋げたら最後
『自分がものを使う行為は誰かの行為の上に成り立っている』
すなわち
【自分の行動は迷惑な行為】
になってしまうから。
たとえそれが自分が好きでやっていたことだとしても
その瞬間に、それが【忌むべき行為】になってしまう。
好きでスマホゲームをやっていたとしても
『その時間に私が子供の世話をしている』ことに気付けば
途端にスマホゲームをすることが【忌むべき行為】になる。
体を休ませることも、仕事も同様である。
夫は今
「何も楽しいと思えない」
とよく言う。
その原因はここにあると思う。
よくX等で見かける「人んちの冷蔵庫勝手に開ける問題」も
ここに起因してくるのだと思う。
彼らは、【モノ】と【人】をつなげないのだと思う。
人んちにある冷蔵庫は【あの人の冷蔵庫】ではなく
【冷蔵庫】でしかない。
【冷蔵庫】は開けて使うもの、【食べ物】は食べるものだから
何の悪気もなく開けて食べるのだと思う。
彼らは『迷惑をかけている』つもりはないのかもしれない。
だがしかし、
実際にはその冷蔵庫は【あの人の冷蔵庫】なのだ。
【a 冷蔵庫】ではなく【the 冷蔵庫】である。
誰かの所有物である以上、その所有者にまずは尋ねるのだろう。
冷蔵庫は開けてはならないことは無い。
だが、誰かの所有物は所有者の許しを得ずに触ってはならない。
だから「開けていい?」と聞くと思う。
「いいよ」と言われて開ければそれは迷惑にならない。
逆に「ダメ」と言われても開ければ迷惑になる。
「人んちの冷蔵庫を開ける」という行為は
その行動単体では迷惑にはならない。
迷惑になるか否かは【相手の反応】によるのだ。
『迷惑をかけたか否か』の判断基準を
【相手の反応】ではなく【自分の行動】におくと、
こんな頓珍漢なことがおこるのだろう。
自分の行動で迷惑をかけないように、の行きつく先は
「迷惑をかけないように何もしない」か
「迷惑をかけないように全部自分でやる」かの
どちらかになる。
どちらも【相手の反応】が置いてけぼりだ。
こうやって反応を見てもらえない側は
自分を大事にしてもらえない、失礼だ、という感覚を
受けるものだと思う。
だから私は夫にイラっとするし、もやっとするし
怒るのだと思う。
ここは本当に子育てでも気にしている。
「人の家には入らないよ」ではなく
「入るのは、この家の人に「いいよ」と言われてからだよ」。
(「いいよ、と言われるためにまず仲良くするところからだよ」
という部分も、あわせて言っている。)
「触らないよ」ではなく
「君はこのモノの持ち主に「いいよ」って言われてないよね」。
「工事現場は入れないよ」ではなく
「いいよっていう許可が下りた人だけ入れるんだよ」等々
『あなたのその行動が迷惑なのよ』ではないように。
なんて表現すればいいのかわからないが、
とにかく『子供の行動』ではなく『相手の反応』を見るように。
同時に「これは誰のもの」「これは誰が準備したもの」
「君のものはこれだね」「君がやった行動はこれだね」
「誰々はこれをやるね(やっているね)」などなど
『モノ・行動の所有者』を意識して声をかけている。
夫のこの『迷惑をかけない』に拍車をかけたのは
「家族のモノなんだから共用でいいじゃない」の
夫の実家の考えがあったからだとも思ってる。
なんとか、こうにか
夫も子供たちも私自身も、生きている。