まだ梅雨は始まったばかり。
その先にある夏の青空を早く見たいなと思う。
仕事のことで煮え切らない想いを抱えた状況も、はやくすっきりして心にも青空を欲しい。
青空の下、誰かと手をつないで外を歩けるような日もきたらいいなと思う。
久しぶりの更新。
織田哲郎の曲です。
言葉じゃうまく伝えられなくて
愛してると本気で初めて思ってる
そつなく日々をこなしてゆけるかい
まだ梅雨は始まったばかり。
その先にある夏の青空を早く見たいなと思う。
仕事のことで煮え切らない想いを抱えた状況も、はやくすっきりして心にも青空を欲しい。
青空の下、誰かと手をつないで外を歩けるような日もきたらいいなと思う。
久しぶりの更新。
織田哲郎の曲です。
昨日のワールドカップ、対クロアチア戦はかなり笑えた。
何がって試合後のことである。
試合が終わり、TVカメラがスタンドの観客席を映していた時のこと。
稲本ファンが応援のために垂れ幕を用意したのだろう。かなり大きな垂れ幕だったのだが、そこにはこう書かれていた。
「強力 いなもと」
すごい!
一人大爆笑した。
これは胃腸薬「強力 わかもと」にかけているのだ。
めっちゃ、おもろい。
これを考えた人はかなりセンスがあるとみた。
それをワールドカップという大舞台に、垂れ幕を用意して、それが全世界に配信される。
ええセンスしとるなあ。世界に見せつけてるんやもんなあ。軽い嫉妬すら覚えた。
試合以上に一人盛り上がってしまった。
さあ、次はブラジル戦。
がんばれ、トルシエジャパン!(ジーコです)
宮本の守備にも期待してるぞ!(イエローカード2枚で、次は出れません)
えーっと、そんなところでしょうか。
以前「半人前が残されて」という文を書き残したことがある。
その続編でも書いておこう。
半人前が残されて 2
2006年6月6日。オーメンを連想させる日ですが、祖母が亡くなりました。
今日、祖母に最後の別れをして骨を拾ってきました。あと2週間で満92歳。自然死という大往生でした。
もうそろそろ危ないのでそのつもりを、と言うことは祖母の娘である母から2・3週間前に聞かされていました。
『平和と戦争について』で書いた祖父の妻であるおばあちゃんです。平和と戦争について
シベリアに祖父が強制抑留され、息子と娘4人を抱えて満州から日本へ引き揚げる際には、戦争が終わっているにも関わらず引揚者が襲われることがあったようです。
見つからないように、身をかがめて暗くなるのを待って集団で日本を目指して行進していたこともあったそうです。祖母はその帰国の途中で一番下の娘を栄養失調で亡くしています。
朝鮮から船で日本に帰る時には、引揚者の数に対して引き揚げ定期船の数が足りず、地元朝鮮の漁師が「乗せてやるぞ」という話に、お金を渡して乗せてもらう日本人が少なくなかったそうです。
祖母もよっぽどお金を渡して日本まで船に乗せてもらおうかと思ったようですが、憲兵の隊長(?)の奥さんがそんなことをすることは部下の奥さんの手前か世間体なのか出来なかったと話していたことがありました。
が、その漁師をよく観察していると、日本人を載せた漁師の船は沖へ出て見えなくなり、しばらくすると空の船で戻ってくるんだとか。そしてまた「日本まで乗せるぞ。金額はxxxでどうだ」と正規の引き揚げ船を待つ日本人に声を掛けるのだそうです。乗っていた日本人はどうしたのかというと、沖で別の船が待っていて乗り換えたのかもしれませんが、そんな乗り換えは聞いたことはないですよね。
想像ですが、沖へ出で陸から見えなくなると乗客を海に落とし、また商売のために戻ってきて、「日本まで乗せるぞ」と声を掛けていたのかもしれません。そこでもし祖母がお金を渡してその漁師の船に乗っていたら、今頃僕は存在しなかったかもしれません。
帰国後も大変な想いをしていた話を聞きましたが、僕にとっての祖母はお嬢さん育ちで昔の大阪弁を話すとてもかわいらしい祖母でした。
一番下の孫にあたる僕だけが独身というわけですが、いつの頃からか祖母に会うときや、敬老の日にプレゼントを贈ったお礼の手紙や電話を受ける度に「あんた、まだええ人(結婚相手)おらんのか?」とそっちの話題に振られて弱っていた。
母への返しのように返事が出来なくて、苦笑いしつつ「うん・・・。まだいてへんなあ」と言うしかなく、それに続く祖母の言葉は、
「あんたみたいなええ子に何で彼女おらへんのや?みんな見る目ないんちゃうか?」
だったり
「あんたまじめ過ぎるんちゃうか?積極的にいかなあかんで」
だったりするのだが、大抵は
「早くxxx(僕の名前)のお嫁さん見たいわ」で締めくくられていた。
祖母自身は、写真しか見たことがない親が決めた相手と結婚するために大阪から満州へ渡り祖父と結婚をした。海を渡り、まだ会ったこともない相手と結婚するというのは、時代が違うと言えばそれまでだが、すごなあと思う。
久しぶりに会うと「よう来てくれたなあ」と嬉しそうに目を細めていた祖母。
話をしていると、僕や兄の大阪弁を聞いて「懐かしわぁ」と、大阪弁になった祖母。
帰る頃には涙目で玄関から外まで出てきて、時には抱きしめるようにして見送ってくれた祖母。
昨年の10月に、駐在から帰ってきて全然会ってないのが気になていて、兄が祖母にとってひ孫にあたる息子を見せに行くのに便乗して会いに行ったのが最後だった。
綺麗好きで若い頃はオシャレだったらしい祖母は、戦時中洗顔フォームなどない当時に、お米の研ぎ汁が肌に良いらしく、それで顔を洗っていたらしい。
若い頃の祖母の「娘時代」の話を聞くと、その頃を思い出すのか恥らうように照れて話す祖母がとてもかわいかった。
棺に納められた祖母の顔はびっくりするほど綺麗で、しわやシミが一つもなかった。薄く唇に紅が塗られていた。
そんな祖母の顔を見て祖母との思い出を振り返っていると、祖母の長男である伯父から「おばあさんから預かっているものがある」と声を掛けられた。
祖父が死んだ時の9年前に「xxxx(僕の名前)の結婚前に死んでしまうことがあったら渡しておいて欲しい」と言付かって預かっていたらしい。
渡されたのは祝儀袋だった。
表には時折もらった手紙と同じ文字で「xxx(僕の名前)結婚祝 祖母」と書かれて封がされていた。
結婚もしていない僕が、亡くなった祖母からなんと言って受け取ればいいのだろう。
伯父と伯母にお礼を言いながら、やはり苦笑いしてやり過ごし「情けないなあ」と正直な独身男の気持ちを吐いてしまった。
家に戻って、先ほど封を開けてみると、9年前のものだから、中身は旧札だった。
当然ながら、僕はこの祖母の想いが詰まったお金を使えそうにない。
もう一度、封をした。
いつか僕が人並みに一人前になれる頃、墓前で報告をしなければいけない人がまた一人増えてしまった。
え?
GWだ。
戻ってくるために、離れることが必要だった
上の言葉は浜田省吾のアルバム『HOME BOUND』の帯に書かれていた言葉です。
久しくこのブログも更新していませんでした。
忙しくしているのは以前お伝えのとおりです。4月からの会社の組織変更でそれがさらに顕著になりました。
ずっと北米の出張に行っていて、今日の夜帰って久しぶりに僕のブログを見てみました。
ひろさん、コメントありがとうございます。
僕は物理的に覗けない環境にいましたが、その間にもまだ訪問者がゼロになっていませんでした。増えた日もあり、コメントをくれないまでも、このブログを気にしている人がいるのかなと思います。
今回の出張はいろいろと思うことがありました。
また駐在の話が具体的に上がっていて、本当にやりたい興味ある仕事のために転職をと思っている僕としては、苦しく悩む状況です。今は転職活動が停滞させて、まずは学校の勉強で力をつけることを優先としていたのですが、急がないとまずいかなと思ってます。
あと、英語の力不足を感じました。
いずれにせよ、また戻ってきました。
正直、気にしながらも、毎日のようにここのブログを更新させることはできないと思ってます。
だけど、終わらせようとは思ってません。
終わらせるときはちゃんと「おわり」って書きます。
何をいま優先させなければいけないのか、自分の中で考えてやっています。
毎日仕事を終えての帰宅が午前様で、洗濯・アイロン・朝食の準備に皿洗いなど、普通に暮らすだけでも毎日となると大変なのに、今後の自分のために勉強などをやろうとすると、元から足りない睡眠時間を今年になってさらに削って頑張ってますが、ブログまで手が回らない状況です。
手を抜くのは簡単だけど、それは後になって自分を苦しめるんだと思って、なんとかやっていこうと思ってます。
それでは、また。