武当派の武術を学んでおいて、信じることが大切だと書いておいてなんだが、
個人的には信仰と練功は分けるべきだと考えている。
弟弟子の中に、ある門派の道士に拝師して、道家の気功を習っている者がいる。
彼の師公に当たるのが、160歳まで生きたとされる呉雲青だ。彼はこれを信じている。
資料から実際は1896年6月5日生まれ、1998年9月24日に羽化したので享年102歳だったことが分かっている。打座したまま逝去し、死後20年近くたってもその身体が朽ちなかったことから有名になった。
身体が朽ちないのは保存状態もあるだろうし、どのような食生活を送ってどのような体質であったのかも関係しているのではないかと思う。
「張三豊がどれほどすごい武功の持ち主であったとしても、人であることに変わりはない。手が4本あるわけでも足が4本あるわけでもない」
とは王先生の言葉だ。
武術は人間の頭を開き、心を開くことによってよりよく身体を動かすことができるようになる方法だ。気功もしかり。
具体的な練習方法の上に成り立っているし、内功だって武術的にはランニングしたりスクワットしたり、ストレッチをするなどして基礎的な筋力がつかないと入口にも立てない。
意だけを求めるから偏差が起こる。
孫存周は教えを請いに来た者に毎日5キロのランニングと500回のスクワットをさせてから三体式で立たせたという。
武術や気功は宗教と関連していることが多い。
教義と技術が切っても切れない関係となっているものもある。
誰もが何かしら信じるものがないと生きにくい社会であると思うが、
練功においては信仰とはある程度距離をおいて、想像力を大切にしてほしい。