2.姚公三と八卦掌の名人について語る。田兆麟と推散手を行う

 

公園を先に進むと、八卦掌を練習して、身体中汗まみれになっている男性を見つけた(息は切れていなかった)。練習が終わりそうだったので、終了してから彼に話しかけた。彼の名前は姚公三といい、山東烟台の人で、以前郭鋳山先生より八卦掌を学んだことがあるという。郭先生は尹福先生の弟子であった(※郭は現在では李存義に形意拳を、八卦掌を程庭華に習ったとされている)。姚先生は当時上海で商売をしており、私は素性を聞かれたので兄弟の契りを交わした鄭懐賢兄(孫禄堂先生の弟子)に八卦掌を学んだことを話した。姚氏は禄堂先生のご子息である存周先生が現在上海に在住されており、公園でお会いしたことがあるという。彼は存周先生に師である郭鋳山のことを話すと、存周先生は「彼を知っている」と言われたそうだ。残念ながら存周先生の住所は聞かなかったとのことだった。姚氏は自身の住所を私に書いてよこして、「時間があれば来るといい、歓迎する」と言った。

 

再び前に進むと、ある男性が学生に推手を教えていた。推手は履、朋、擠、按と推す小履を行っていた。男性が軽く推すと相手は直ぐに2回飛び上がった。私は彼らが人に見せるために演じているのだと感じた。傍にいた人に聞いて、彼が田兆麟であることが分かった。田兆麟は字を紹軒、楊少侯先生の弟子であり、後に楊澄甫先生からも学んだ。以前は杭州の浙江警官学校で教え、その後上海へ来て教えるようになって長い時間が経っていた。陳微明と同じく有名で、当時楊派太極拳を練習していた人の中での地位は高かった。

 

暫く進むと、2人で推手している者がおり、何人かがそれを見ていた。私もそれに混ざって見ていると、4、50歳くらいの背の低い人が来た。私が見知らぬ人間だとわかると、「推手は好きか?」と聞いてきたので、私は「私が普段やっているのは散手(自由に歩を進めて行う推手で、いわゆる組手の散手ではない)です」と答えた。

すると男性はすぐに手を伸ばしてきて「やってみよう」ということになり、直ぐに自由に推し始めた。散手は決まった形がないので、動作は霊活で進む、退く、避けるなどの攻防は自由に行うことができた。

 

我々の推手を見て多くの人が周りを囲み、田兆麟も見に来ていた。彼とも20分ほど推手したあと、お互いに攻撃する意思が無かったこともあり、勝負はつかずに終了した。終わったあとで、彼は私に「素晴らしい」といい、見ていた者に対しては「もしお前達が彼の相手をしたらすぐにやられていただろう」と言って去っていった。

私にはそれが謙遜であることが分かっていた。実際彼の推手は素晴らしく、特に黏勁に優れていた。