はじめての習い事は、小学校1年からはじめた習字だった。
確か書いたものを朱墨で添削されるだけの教え方の先生だったが、曜日の都合で、小学校5年の時に別のところに移った。
次にお願いした書道の先生は、教え方が少し違っていた。
前にいた書道教室では、皆が端整で綺麗な整った字を教えてもらっているなかで、その高齢の先生は、「いい」とも「よくない」とも言わずに、ぼくに特には何も教えなかった。
その代わりに、先生には、その日いちばん自分でよくできたものを出すようにとだけ言われた。
だから、本当に自分が納得いくものが書けるまでは、帰れらなかったし、帰らなかった。
そして、それをいつまでも、どれだけ時間が遅くなっても、先生は待っていてくれた。
どうしても思うように書けないときは、先生に聞きにいく。
先生は、こうするといい、こうしてごらんといったように、教えたり、指導してくれることはなかった。
ではどうするのかと言うと、
「僕の場合ならば、こういう感じで書くかな」と、目の前で自分と同じ紙と筆で書いてくれるのだ。
いいとも、わるいとも言わずに、そこにはジャッジも評価もなかったが、書道の歴史や有名な書家のエピソードを、ぼくにはよくしてくれた。
それはとても興味深く、話を聞きに行くことも楽しみのひとつだった。
時には、先生の満州に戦争に行った話や、北海道の開拓時代の話しなどもしてくれたりもした。
そして、ぼくはいつしか先生を書の師としてではなく、人生の恩師として、慕っていた。
高校の美術の選択授業は、書道を選んだのだが、その書道の授業を担当されていた外部講師の先生は、関東地域のの展覧会の審査員をされている偉い先生でもあった。
ある時、ぼくの先生の書を見てみたいといわれ、師の書いた、書きかけのようなものを持っていったことがあった。
その先生は師の書を見るなり驚いて固まってしまっていた。
どう考えても、ぼくの師なんかよりも、審査員までされている高校この先生の方が偉いであろうに、何をそんなに驚いたのか不思議に思った。
その話を恩師にしたら、「これを見せたのかい」と笑った。「その先生の方が偉いのにね」と。
師から、実はこういう者ですと、教えてもらった。
その報告を、高校の書の先生にしたら、あぁ、やっぱり、と。
それほどの先生に習っているならば、あなたに教えることはなにもないねと、苦笑いをしていた。
どうやら師は相当偉いお方の弟子だったらしかった。
でも、こんなおじいちゃんが?と思う一方で、心のどこかで、なぜだか師を誇らしく感じている自分がいて、可笑しかった。
退屈で面白くもなかった中学、高校とは違い、これといって、級や段を取れなどとも言われずに、とうとう高校3年の夏まで続いた書道。
卒業して、親や身内は、鍼灸の道に進んだことをあまりよくは思ってはいなかった。
しかし唯一、師だけは「人のためになる立派ないい仕事を選んだね」と、心から喜んで笑ってくれた。
鍼灸師になったら、ぜひ恩師に僕の治療を受けて欲しい、おこがましくもそんなことを考えていた。
しかし、残念ながら、ぼくが鍼灸師の資格を取得する前に亡くなられてしまった。
静かにひとり息を引き取ったとのことだった。
先生にお目にかかったのは、大学1年の夏休みに、地元に帰ってきていたときが最後だったかと思う。
この夏の暑い時期になると、あの愛くるしい猿顔の恩師の笑顔を思い出すのと同時に、いまならもっといい話し相手にくらいなれただろうになと、ふと寂しく感じる。