http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye2557521.html
千の証言、命を救った「にぎり飯計画」
被爆直後の広島に周辺の町や村から大量の「にぎり飯」が届けられた事実をご存じでしょうか。人々を救った「にぎり飯」。廃墟から立ち上がった広島の歴史はここから始まりました。
原爆投下から4日後に撮影された写真。トラックに横たわる傷ついた少女・・・
救護隊員が食べさせようとしているのは「にぎりめし」でした。被爆直後から「にぎり飯」は救護物資として、周辺の町や村から広島の街に運び込まれたのです。
「命の糧ですね」(藤岡久之さん)
13歳のときに被爆した藤岡久之さんです。7日の早朝に避難した先で「にぎり飯」の救援があると聞き、家族で当時の市役所に行くと、すでに長い列ができていました。そのとき、前日から続いた「死の恐怖」から、初めて解放されたといいます。
「本当に“命があった”ってうれしくて、周りの人もほっとして、途端に会話も進むようになった」(藤岡久之さん)
混乱する広島の街に次々と運び込まれた「にぎり飯」。その救護活動は、あらかじめ計画されたものでした。広島市の郊外にあった警察署の署長が周辺の町長や村長に宛てた文書。国内の大都市で空襲が激しさを増す中で、広島市街地の戦災者のために食べ物を届けるよう求めた「にぎり飯」計画でした。
「遅くても3時間以内に所要の数の握飯を完了すること。握飯は米7勺を以て一握りとし、塩を付すること」
計画は、村ごとの割当数や運搬方法に至るまで、細かく決められていました。
「輸送用自動車の中には、あらかじめ準備していたムシロを敷いて別途配布する枠内に「にぎり飯」を入れ、その上に板を置いて積み重ねること」
当時の国防婦人会を中心とした女性たちが懸命に作り続けた「にぎり飯」。トラックに乗せられて、広島の街に運ばれました。しかし、そのトラックが戻ってきたとき、荷台には原爆で傷ついた多くの人たちが乗っていたのです。負傷者は救護所となった寺などに収容されました。
「(台所で)釜で炊くんよ。平釜で」(新田ナツコさん)
98歳になる新田さんは当時1歳だった娘を背負って、収容された負傷者のために、「にぎり飯」を作りました。ひどい火傷で、男女の区別もつかない人たちも多くいて、絶え間なくうめき声や叫び声が響く寺で、2週間作り続けたのです。
「いろいろ混ぜて味付けて、梅があれば梅を入れたり、(にぎり飯は)大きいのはできない」(新田ナツコさん)
救護の「にぎり飯」を食べた藤岡さんは、当時の状況を絵に残しています。
「みなさんの笑顔、やっぱり生きてたと実感した」(藤岡久之さん)
並んで手にした2個の「にぎり飯」。当時の味が、今も忘れられないといいます。
「持って食べるときの喜びは何とも言えなかった。『お母さんおいしいよ』と大声張り上げる」(藤岡久之さん)
「にぎり飯」計画を立てた当時の広島市の配給課長で、後の市長・浜井信三さんは、救援活動をこう振り返っています。
「握飯計画のおかげで被災後10日間は市民の主食に関する限り全く心配せずに済んだのである」(『原爆市長』より)
広島県の記録では、周辺の町や村から届けられた「にぎり飯」は、8月9日までの4日間で実に75万7000食あまりに上ったといいます。広島が廃墟から立ち上がった70年の歴史、その第一歩は混乱の続く街に届けられた真っ白な「にぎり飯」だったのです。(06日18:15)