
5.朝霞駐屯地に5年以上かけて駐屯地内の工事は終わりました。そして バブルも終わりを告げていました。ピークは2から3年の短い間だったと思います。六本木の防衛省の今ある土地の値段も下落して施設局の思惑は外れ自衛隊の建物の工事にも影響を及ぼしていました。東京での仕事も減り始め契約社員の私は米軍の仕事に廻され神奈川の厚木米軍基地を担当することになりました。その当時私は西武新宿線の都立家政に住んでおり小田急線のロマンスカー を利用して2時間近く通勤にかかっていました。いつも事務所に着くのは9時過ぎですが誰も文句を言う人は当然いません。施工業者は8時からラジオ体操をし作業をしていますが私たちには関係なく支障ありませんでした。神奈川県ですので横浜施設局の管轄になります。確か横浜の大きなビルの中に施設局はあったと思います。事務所にはいくつもの設計事務所が入っていて30人近くいたように思います。常に工事が行われているので長年その事務所にいる人がほとんどで私は新参者で米軍基地ということでシステムと言うか米軍との調整の仕方が大変でした。私が担当したのは建物ではなく蒸気管の埋設工事です。特殊な直径1m 以上の配管で土木工事に近いものでした。その工事は4区間に分かれており区間ごとに違う施工業者が入っていてその全てを私が担当していました。朝霞駐屯地と違い 米軍基地はまるで外国のように英語で書かれた建物がいっぱい立っていて大きな外国の町という感じでした。横須賀基地に行く機会もあり尚更それを痛感しました。その中に自衛隊の建物も一部ありました。蒸気管はその当時でも珍しく防衛省の建物はなぜか蒸気管が主流でした。今現在はどうなっているか分かりません。蒸気管は特殊なところがあり一定の距離に配管の水抜きを設けなければなりません。そのため一定区間ごとに ピット(コンクリートの壁に囲まれた箱的なもの)を設置しなければなりません。配管は溶接で土木工事も絡んでくるので業者は同じ土木業者に仕事を依頼していました。というのはその業者はそれを専門でやっているので致し方のないことだと思います。埋設工事なので障害物等の関係でルートが変更になることが多々あります。米軍との打ち合わせも必要になり窓口として日本人の担当の人がいました。その人は厚木基地の主のような状態で全てをその人が工事に関しては仕切っているので多大な権限を持っていてその人のご機嫌を伺うのに大変苦労した覚えがあります。当然英語はペラペラでその人がダメといえば大変なことになってしまうので気苦労が絶えませんでした。他の人は長年付き合ってる人が多いので気心が通じ合い良いのですが私は初めてなので大変苦労しました。しかも道路埋設工事という非常に基地内の交通に影響を及ぼすことなので気を使いました。またルート変更及び埋設深さに伴い最後の設計変更が大変でほとんど全てのルートで積算のやり直しが必要で元設計よりも多い積算表がが出来上がりました。それは残土及び布設する砂と土等を算出するものでほとんど土木に近いものだったと思います。積算ソフトがありパソコンでするのですが膨大な量で土日も出勤して自費で近くのビジネスホテルに泊まり竣工ギリギリに終わったように覚えています。1年間でなんとか終わり次にまた別の場所に行くことになります。ここで局と設計事務所の間の施工管理の契約について説明したいと思います。簡単に言うと人区だし見たいなものです。工事物件に対して金額に応じて何人ということになります。当然土日は休みで1年間かかる工事の建物でも金額が少なければ週に2回ということになります。1日単価✖日数が請負金額になります。設備工事金額が5億円ぐらいで1年間常駐だったと思います。なぜこのような話をしたかと言うと次の年掛け持ちをするようになったからです。習志野駐屯地と硫黄島です。習志野駐屯地はパラシュート部隊が有名で訓練が厳しいと言われていました。2つの建物を見ていました。1つは宿舎でもう一つはプール付きの訓練施設だったと思います。合わせて3億弱の工事金額だったので硫黄島も見ることになったのです。硫黄島には年間で8回ほど1回につき1週間ほどいるような感じだったと思います。行くのには自衛隊飛行機を事前に予約しなければなりません。建築担当は常駐していましたが設備と電気と通信(書き忘れましたが防衛施設局には他の局にはない通信工事があるのです)は巡回でした。電気と通信は一人の人が兼務していました。自衛隊機で6時間ほどかかったと思います。自衛隊の人たちと一緒に物置のような結構広い場所で長椅子に座り島に行っていました。事務所には自分の会社の建築担当の人と他の電気と土木の人がいました。米軍が主ですが自衛隊員も結構おり大きな自衛隊の食堂がありそこで自分たちも食事をしていました。米軍の人もそこで食事をしており周りには米軍の人が多くいたようにに思います。工事の建物は自衛隊の宿舎だったと思います。初めての島ということでその印象が強くて工事の方はあんまり覚えていません。申し訳ありません。覚えているのは窓ガラスに着いた多数のヤモリかイモリに驚いたのと米軍の夜間飛行訓練です。夜は外に出ることが禁止されていて窓に光る灯りがすごく印象に残っています。夜間飛行訓練は毎日ではなかったと思いますが集中的に行われていたと思います。硫黄島というくらいなので硫黄が吹き出ている場所がありまた戦争の跡がそこら中にあリ隠れていたと思われる 空洞がいっぱいありました。他の基地もそうなのですが硫黄島は特に写真を撮ることをきつく禁止されていました。なので 硫黄島の写真は1枚もありません。テレビは NHK の BS とWOWOWが映リ映画ばかり見ていたような気がします。一度台風と言うかハリケーンが襲い停電しものすごい風と雨に恐怖を覚えた記憶があります。バブルも過去のこととなり東京での仕事も減り契約社員の私には厳しい状態になってきていました。次の年も引き続き硫黄島ともう一つその先にある南鳥島を担当することになりました。私はそれまで南鳥島を知りませんでした。昔テレビで南の楽園的なような放送をしていたのを思い出しました。南鳥島には自衛隊と気象庁と海上保安庁がおります。自衛隊員は15人ほどで気象庁は7人ほどだったと思います。海上保安庁の方は入れなかったので人数までは分かりません。自衛隊の食堂で気象庁の人も自分たちも食事をしていました。食事代金は会社の方で払っていたと思います。料理はかなり美味しかったです。小さな売店もありました。硫黄島から飛行機で2時間ほどだったと思います。硫黄島に長年いる事務所の人も南鳥島には行ったことがないと言っていました。工事は宿舎の改修だったと思います。契約内容は4回で1回につき1週間程度でしたが最後の1回は行きませんでした。というのは局から行かなくてもいいという指示があったからです。それは飛行機の予約をするのが大変で最後は自衛隊の方でいっぱいで当然そちらを優先させるために行く必要はないと言われたのです。島は南の楽園と言われるだけあってとても素敵なところでした。自分みたくたまに行くのならいいでしょうがずっといる人は何もなく嫌になってくるかもしれませんが?申し訳ありません。夏は日差しがきつく温度も高いですが東京と違い湿度は低く夜も涼しくなり過ごしやすかったです。冬も暖かく気候的には快適に過ごせると思います。一部を除いて写真は禁止されていませんでしたので撮ることができました。ほとんど常駐している建築担当の彼が取ってくれたのです。飛行機は硫黄島から乗り継いで行くような感じです。月に2から3回しかなかったと思います。なので硫黄島行きは比較的簡単に取れますが南鳥島は硫黄島にいる時に行くようになるので大変でした。25年ほど前なので今はどうなっているかは私は分かりません。無事終わり次の年は仕事がなく契約がかわされませんでした。また今まで面倒を見てくれた最初にあった電気担当の体のごつい沖縄出身の人は体を壊し九州の方に帰って行きました。そのため担当する人が変わりその人と会わなかったせいもあったと思います。9年間ほどその会社にはお世話になったと思います。契約社員だったので当然確定申告をすることになり年金は払っていませんでした。そのため20年以上働いていたのですが年金は8年ほど前に変わった年金期間が10年以上というギリギリでわずかな年金収入しか今現在ありません。バブルで調子に乗っていた自分はかなり金遣いが荒くなりギャンブルと遊興にふけリ収入もそれなりにあったためサラ金に借金をし母に迷惑をかけました。それは体の遺伝による欠陥もあり体調も良くなく長く生きられないと自分で決めて今さえ良ければ良いという考えに陥ったせいもあります。結婚もそのために諦めたのも影響していると思います。どうしようもなくなり[旅館かもめ荘のお話]で書いたように家に帰りたいと電話しましたが帰らせてもらえず仕方なく独立した社長がやっている以前働いていた会社に電話しました。不景気のどん底でしたが社長は受け入れてくれ半年ほど働きましたが他の人とうまくいかず辞める結果となりました。あまり思い出したくない心境です。肉体的にもそうですが精神的にかなり参っていたと思います。母に帰ると言いながらなかなか帰らないので2番目の姉が札幌から旦那に内緒でわざわざ自分を迎えに来るだけのため来てくれました。乗る飛行機が違うので「ちゃんと帰るのだよ、帰っても地獄だね」と送ってくれました。50近くの男が姉の迎えなくしては帰れず恥ずかしい限りです。こうして私の東京での暮らしは終わりました。読んでくれた人 ありがとうございました。また[北海道礼文島旅館かもめ荘のお話し]に戻る予定です。


