7] まとめとして
この blog article では、本格的に英語に入門する時期とされている中学 1 年次に、音読を導入するということを念頭に、先ず systematic curriculum activities の流れを確認しました。その上で、この領域に特化する形で、主に TEACHING の領域に重点を置く形でより詳しく検討しました。所謂 syllabus design の作業ということになる訳ですが、一読すれば分る通り、検討の各段階で curriculum activities の他の様々な段階に関わる事柄にも焦点が当たるような形で、‘行きつ、戻りつ’ しながら思考が進んでいくことになっています。
語学教育の分野は、歴史言語学の発達と共に 18 世紀の終わりから 19 世紀初頭に、巷や学校教育の中で行われている教育活動という holistic な事象を、教材や学習・授業方法の特徴等多面的かつ詳細に観察し、20世紀を通して段階的に分析・記述を積み上げる形で発展してきました。そして、その過程で approach なり method とよばれる幾つかの ‘言語教育理論’ が確立されて来た現実があります。
こうした知識・技術は、教員養成の過程で普及していく訳ですが、理論から実践へという形で綺麗に整理され、又幾つかの科目なり、領域なりに分けられ伝えられることになります。そして、そうした形で伝えられた事柄を統合し、トータルな教育理論として教師自身のものとする作業は本質的には教師自身に任せられることになります。
Syllabus designing は、その教育理論の理解を学習者の needs の分析結果を基礎に段階的に教材と練習方法に辿り着く方法ですから、これも仕方のないことと言わなければせん。
教師間のコンセンサス作りの入口としての音読の取組み
上記のようにプロの教師の一人としては、自身のトータルな教育理論の理解を基礎に、依頼された学習者の要望に対応するコースの開発と指導を自由に行えば良いことになります。
しかしながら、中学・高校のような公教育の場に於いては、国家の教育として目標・目的・教える内容の指定があり、それを体現する教材として検定教科書があります。したがって、本来各教師が個別に自家薬籠中のものとして完成させた筈の教育論をそのまま適用することが妥当か否か確認する必要があるのですが、これも各教師が指導要領や教師用指導書を熟読することによって可能とされているようで、上記二書を手渡されて終わりになっているケースが結構多いような気がします。
筆者の私見からすると、各教師の受けた教師養成の中身の違いや教授経験の差などのことを念頭に置くと、上記のような扱いでは複数の教師によって担当される一つのコースの運営は、各クラスの生徒と教師の関係の質によってドンドン変化して行ってしまい、1年後のコース終了時には夫々 ‘唯我独尊’ 的なかけ離れたものになってしまう可能性を含むことになります。そして、systematic curriculum/syllabus designing が求められる理由がここにあると思われます。
上記のようなことから、中学・高校の英語コースに於いては、本来「入門期の音読への取組み‐音読指導の為の syllabus design の手順‐その 2」で触れたような curriculum activities のプロセスを詳細に辿ってみることを通じて意思統一を行い、コースの統一性を確保する必要があります。しかし、日本の教師の日常、取り分け学期初めの事務処理の状況を考えると現実的ではないと云えます。したがって、相当な時間を掛けて少しずつ行う必要あるということになります。ところが、この作業は規模が大きく、下手をすると数年を掛ける必要のある可能性を含むものであることも念頭に置く必要があります。
こうしたことを踏まえると、筆者の考え方では、非常に規模の小さい音読コースの開発と実施という作業を通して、上記のような作業を後押しすることが模索されるべきということになります。何故なら、
① 英語科は syllabus designing のプロセスを小規模且つ負担の少ない形で経験出来
る;
② 別の学校で教えていた教師が参加する場合、新しい学校の基本方針を知る上での情報
源となり得る;
③ 新人教師が新しく参加する場合、それまでの教員養成教育の中で学んだ事柄をトータ
ルな教育理論として捉え直す作業のサポートとして機能し得る;
④ 加えて、教える内容に関する考え方や練習方法・問題の開発を行う上での基本的考え
方を統一する方向に向けた情報共有が可能となる
ということが言えるからです。
以上の事から syllabus designing のプロセスを通して議論を積み重ねる作業が、一つのコースを複数の教師で教える場合のコンセンサス作りや新人教育の役割を果たす上での有効性が理解可能かと思います。
更に検討するべき事柄
今回のサブ・コースとしての音読コースのシラバスの検討に際しては、議論の流れの中で余り深入りをしなかった領域が二つあります。それは、音読の為の ‘テキスト素材’ の問題と ‘和訳という作業の扱い方の検討の問題’ ということになります。
音読教材のトピックの選択の問題:
第一の素材の問題は、「入門期の音読への取組み ―音読指導の為の syllabus design の手順― その 2」で topical syllabus に於ける「 topic の選択の問題」として触れた事柄です。ここには、教授法と取り上げる話題に相関関係の傾向が一定程度あり(主に中級の入口程度まで割合はっきりとしている)、それはその教授法が主としてどのようなスタイルの言語を教えることを目的とするかに掛かってくると云えます。英米の色々な英語コースを見ていると、
- Grammar-Translation methodでは、文学作品或いは相応の書き言葉をベースにした
教材とそれにふさわしいtopic;
- 戦後開発が重点的に進められた英米の構造主義的な方法論 (audio-lingual method,
situational language teaching) の場合、日常の場面と話題が重点であり、話し言葉
をベースとするが、コース編成の場合は、当時の社会状況を反映してか、中流階級の
生活及び関連する社会に関わるtopic を扱う傾向 ;
- Communicative の方法論の場合、言語を使って何をするのかという観点から日常の場
面と話題が中心となり、話し言葉をベースとするが、コース編成に於ける一貫性は
audio-lingualism や situational language teaching の場合より弱く、sporadic な傾
向もあり、より informal な言語が使われ傾向がある
ということになります。
翻って、日本の中学・高校で使われている検定教科書の場合、communicative の傾向が割合に強いのは高校レベルの English Communication I までであり、必修科目ではないにせよ高校レベルの受験校で採用する傾向のある教科書は、Grammar-Translation method 的な要素さえあると云えます(具体的には、 文英堂の教科書 Unicorn English Communication I は必修科目であるにも拘わらず、明らかに communicative の方向性を持つ教科書ではなく、従来の教科書そのものです)。
そこで、中学3年間、或いは高1までの4年間にメイン・コースに並行する音読コースで使うテキストに関してより長期的な視点から検討する必要も出て来ることになります。そして、検定教科書とは別に自主教材でテキストを構成する場合には、その選定に関して一定の方針を持つ必要が出てきます。そして、その際検討項目として浮上するのは、
① どのようなスタイル(ジャンル)のテキストを選択するかということ;
② 何のためにそのテキストを選択するかという問題
ということになります。この二点に関する検討の必要はメイン・コースの在り方の問題とある程度関わっています。それは、「入門期の音読への取組み ―音読指導の為の syllabus design の手順― その 3」で触れた、
ⓐ speaking-writingに重点を置く、Communicative Approach的授業構成の方法を採る
場合;
ⓑ もう一つには、reading-writing に重点を置く、Grammar-Translation 的授業構成方
法を採る場合
によって選ばれる教科書が異なる可能性があるからです。通常の考え方から言えば、ⓐ では ‘対話スタイル’ のテキスト、ⓑ では ‘文章体’ が中心的ということになるのでしょうが、音読テキストに関する限り、筆者は “文章体のテキストから始め、徐々に会話体加える” 形を採り、中1 段階は文章体のみでも良いという考え方を持っています。その理由は、
㋐ 対話教材には、省略や ‘文’ を構成しない chunk の言語が多い。その上、対話はその発
生する場面情報に深く根差した、所謂 context-embedded discourse の条件下にあ
り、完全なる意味理解の為には、学習者はその場にいて、実際に対話に参加する必要
がある。したがって、教室では、本質的には、その場面設定に “学習者の持つ背景知識
(background knowledge)を活性化させ、場面情報を、絵を含む様々な方法で与
え、状況を十分理解させた上で、そこにスッと言語(文・語句等)を乗せるという手
順で言葉を提示する”、所謂暗示的手法を基本的に要求する方法であり、時間が掛かる
割に曖昧な意味理解に終わる可能性も高い;
㋑ 形式の整った文で構成される文章体の文章は、会話体とは異なって context-reduced
discourse の条件下に置かれ、省略が少なく、‘文’ を構成しない chunk の使用は極端
に少ない傾向にある。したがって、読み手は、その理解に際し、語彙と文構造により
大きく頼ることになる。そして、このことは、形式の整った文で構成される文章体を
扱うことから、省略の多い会話体よりも入門段階の教材として扱い易いことになる
し、初級段階では和訳が内容理解の加速につながる傾向もあることになる。
このようなことから、筆者は検討すべき教材の具体例として、文科省指導要領の範囲内で、対話教材を避け、文化・歴史に関わる内容を中心として、構成された非検定教科書 (中村敬・峯村勝・高柴浩:「英語教育神話」の解体―今なぜこの教科書か- . 東京, 三元社,2014; 「入門期の音読への取組み ―音読指導の為の syllabus design の手順― その 2」参照) を 挙げています。但し、この教科書の内容は所謂リベラルな教師とされる人達の立場から選択されていることから、文体とは別にその話題や内容の好き嫌いという観点で議論になる可能性を含んでいると云えます。
上記教科書で問題となる可能性を含む事柄は、topic の選択の中にどのような思想性を盛り込むのかという問題ですが、これは筆者にとってはそれ程重要なことではないと云えます。何故なら、日本の外国語教育政策に抵触するような内容ではないからです。しかし、科学分野に関する記述が殆どないことからスコープが若干偏っているという点が不満ということになります。
このように考える理由として、筆者個人の考え方の中では、英語を学ぶことの最も重要な目的の一つとして ‘事実に基づいた、平易な文章が書け、結果‐結論‐提言の仕組みを持つ英語によるまとめが書けるレベルの運用能力に達すること(ここでは指摘に留めるが、これは国語教育の国語表現のような科目でも求められる能力でもある)’ があるからです。そして、これは言い古された ‘英語の発音や文章の上手下手よりも話す、書く内容が大切’ という言葉を、英語で何が出来るようにするべきかという観点から言い直したものということになります。
この点では、筆者の考え方の根底には、無意識の内に、学校で学んでいる内容に基礎を置くcontent-based syllabus 的取組の方向にある CLIL のような communicative based のものをメイン・コースとして想定する考え方があるのかも知れません。
兎も角、こうしたことから、出来れば全ての学習者に、既に述べた中学1 年から高校1年までの時期に、この目標により近づく為の英語を強化するような教育を保証したいという立場になりますので、サブ・コースである音読領域でも、最終的にここにつながって行くような方向が望ましいということになります。したがって、この topic 選択と文体の問題について、教師自身の学校で教える学習者の知的好奇心の状況と本筋のコースとなる教科書、及び予想される高校1年の教科書に基づく授業内容との関りで十分検討してみることは、音読コースを充実する上でより大きな意味を持つように思われます。
言い換えれば、高校1年で比較的受験コース向けの教科書が採用される場合にも、比較的職業高校向けの編集となっている教科書の場合でも学習継続の基礎となる為の様々な条件を検討することの重要性の問題の一つということになります。
上記の様なことは、検定教科書を素材とする際にはそれ程重要なことではないでしょう。しかし、様々な task を試みると学校の内からも、外からも “遊んでいる” と批判を受けやすい日本の公立学校では、一度検討して音読コースの果たす役割、即ち ‘学習効果を高めるための補助的役割のみに限るのか’、或いは ‘将来勉学の為の道具として英語を用いる為の基礎部分を強化するという要素も追加して置きたいのか’ の意思決定をきちんと行って置くことは重要なことであるように思えます。
和訳という作業について教師は何を明確にして置く必要あるか:
第二の和訳の問題は、Grammar-Translation (G-T) 手法で授業する場合、学習者を個別に指名して行き、全文直訳を中心に置く授業にのめり込んでしまうケースが結構あり、批判に晒されるという事実のあることに関係しています。この問題は中学は激減しており別の問題を作り出しているのですが、未だに高校にも、大学にも多数存在しています。このことは既に別の所で触れているのですが、可能な限りこれを避けるために何をするかという観点で、教師がいつも頭に置いて欲しいと筆者が考える「いつ、どのような形で和訳という作業を用いるか」という問題です。
この問題は別の言い方をすれば、「入門期の音読への取組み ―音読指導の為の syllabus design の手順― その 5~7」の文型に関わる部分に関する蛇足的追加ということになります。そして、敢て、ここで触れるのは、筆者が教えていた大学生の成績の低いクラスでは、音読に取り組んだことのない学生は少なかったのですが、‘取組は訳が分からなかったが、教師がやれやれというから漫然とやっていただけ’ という内容に分類可能なコメントが非常に多かったという印象があり、国広正雄 (国広流英語の話し方, たちばな出版, 1999) が指摘する音読開始前の基礎文法と意味理解の重要性の問題が抜け落ちている指導が結構存在するのではないかと推察されるからです。
このようなことから、このことに関する筆者の考え方を述べると、以下のようなことになります:
① 音読前に英語の文或いは文章を和訳することは、初級の学習者、教師の両方にとっ
て、その内容がハッキリと理解出来ていると自覚できるという点で、暗示的理解の場
合よりもその後の練習に自信が持てるという利点がある;
② しかし、この曖昧さを取り除く和訳という作業には、一方で学習者、教師を甘やかす
要素もあり、直ぐに和訳しないと安心できないという形で授業の真ん中に位置づいて
しまう可能性を含んでいるという問題がある。
本来もっと詳細な調査をし、何故そうなるかに関する原因を明確にした上で方策を立てるべき問題のように思われますが、現実にはこうしたことが批判されていることが分かっていることから沈黙することを含め、教師の話がなかなか聞けないという問題があります。しかし、過去に、複数の教師と一緒に一つのコースを教えた経験からすると、上記 ①② の様なことがあることは、実感として感じられたと思います。
このようなことになる最大の原因は、公的な学校の教師の場合、教師が ‘継続的準備不足’ にある可能性が強いということのように思われます。具体的には、
ⓐ 勤務時間内には、授業と生活指導という指導の領域と、それに伴う事務処理という雑
務が山のように積み上がる現実がある;
ⓑ 加えて、授業時間外に取り組まねばならない四大超過勤務項目として、最近報道で
は、実習準備・行事の準備と指導・職員会議・緊急対応が挙げられている;
ⓒ そして、削減が少しずつ進んでいるものの、これに放課後の部活の指導が加わる;
ⓓ また、異なる教科を担当する生活指導や行事の分野の意思統一に時間が掛かることか
ら、各教師の専門分野である教科でカリキュラム問題の議論を深める時間は実質的に
は保証されていないと言ったほうが良い状況もある
の様なことがあります。このことは、教科の授業構成と具体化の詳細のプランの時間が教師に保証されていない可能性につながり、上記 ①② のことが固定化してしまう傾向を拡大することにもなっているように思われます。言い換えれば、日本語に訳さないと授業を先に進められない傾向の大きな原因は、「文法訳読式の指導方法は乗り越えられなければならない (2)」の中で G-T に関して述べたような、‘教師に教える言語による運用能力や伝達能力を求めない;教師養成が安価;記憶に基礎を置く繰り返し練習に力点を置く教育’ の中で育つ傾向を持った教師が ‘継続的準備不足’ に追い込まれれば、簡単に上記の ①② は定着してしまうということになります。また、1720 年の享保の改革の際「洋書輸入の禁緩和」で漢訳された洋書を多数日本に持ち込み、‘返り読み’ のようなテクニックが流布するようになって 400 年も続いている現実があります。幕末にそれをオランダ語学習に応用した経緯もあったからでしょう、「文法訳読式の指導方法は乗り越えられなければならない (3)」で議論したような形で、和訳というテクニックが日本の英語教育に影響を与え、自然な形で定着しているとも云え、これを許す心理的土壌もあるのかも知れません。
このようなことから、音読という学習者が ‘和訳’ というプロセスを通じて意味理解に達する活動がある程度重要な要素となるような取組みで、この問題に特に注意を向けることによって、克服に向けて踏み出し得る可能性も出てくると思われます。
どのようなものとして和訳を位置付けるのか
英語の授業で和訳という言葉を使う時、通常学習者に与えられた文なり文章の日本語による逐語訳を作ることを意味します。教師は、それを聞いて教えた文法規則に従って日本語に移され、全体として日本語として理解できるような文又は文章になって居るか否かで正誤を確認します。そして、理解が出来れば、その結果を受けて何をするべきかについては、学習者、教師共に余り興味がないよう思われます。勿論、教師の側の議論の中では、‘間違いを分析して、以後の指導に生かす必要’ のような言葉は発せられるのですが、現実には以後の追求はそれ程熱心には行われないというのが実情でしょう。これは、言い替えれば、意味理解の確認(meaning check)の機能がより重視され、そのことに終始してしまうことを意味します。
筆者の感覚では、入門期の中1では、先ず教師が上記のような和訳の概念を捨て、以下のような考え方を常に念頭に置いて母語の使い方を考える必要があるように思われます:
① 意味が分ればそれで終わりで次に進むような作業の繰返しは直ぐに習慣化することか
ら、これを避ける意味で、可能な限り和訳した文(章) の口頭発表を求めるような指導
を行わない;
② 与えられた英語の語彙項目の意味の理解と文の構成要素の果たす役割の理解をを組み
合わせる結果、母語に訳すことが出来ることに気付くように誘導することを目指す指
導方法を開発する。
上記 ① は、‘音読前の聞き取り練習’ のテキストを提示する際に、De-Suggestpedia のテキストのような ‘英-日、文構成要素ごとに左右対称のもの’ や ‘テキストの語彙目の上又は下に日本語の単語等を書くもの’ のような提示方法ということになります。これによって教師は日本語訳を求める作業を行わなくて済み、学習者が頭の中で全文和訳を行うかどうかには関知する必要はなくなります。前者のテキストで 1~2 回音声を聞き、後者のテキストでは「テ・二・ヲ・ハ」のあるものと無いものの両方を使うような取組みで何回か聞けば多様な情報提供も可能です。したがって、学習者は、耳で聞くと同時に、自分の頭の中で文の意味を理解する習慣を作る機会が与えらることになります。当然のことを敢て言えば、ここでは学習者に和訳を求める形での production level の母語の使用は無い訳です。
また、② に関しては、ここまでに既に何度も指摘している G-T 手法の核心部分である
“parsing + 和訳” の二つの作業の組み合わせが言葉の習得を促進するという考え方に関して、教師がより明確な意識を持つことが必要ということになります。
この問題に関しては、筆者の立場は ‘単文を中心に production level での和訳’ を行うことが最も効果的ではないかということになります。ところが、これに関しては、昔からあるラテン語の教科書の context-free の単文の羅列を母語に直す作業或いはその逆を髣髴とさせるということで違和感を持つ人も多いかと思います。
しかし、この作業を通じて学習者が行うことは、「与えられた文構造の知識 (主部+述部; 主語+動詞+目的語, etc.と topic-comment, theme-rheme 及び actor + action + receiver of action, etc. の様な関係の理解) と語彙項目 (内容語或いは chunk の意味の理解) に加え、学習者が母語のレベルで持っている background knowledge を母語の文を作り出す過程で総合的に使用して結論を出す」ということになり、文法知識+語彙知識+自身の経験に根差した言語使用の場面に関する比較的浅い知識をシェーカーに入れ、振ってカクテルを作り出すような作業になる可能性が大きいということが言えます。
勿論、試験管の中のサンプルのような単文は、非常に広い意味での context から全く切り離された真空状態の中で存在出来る訳ではないことも知って置く必要があります。例えば、SVO文 Tom found a strange box. は、4つの語彙項目(名詞・動詞・形容詞)の意味を日本語で理解できるという形で想定される場面情報とつながっており、意味上 topic (Tom) と comment (found a strange box) という形で、その場の話題とそれに対する叙述として、やはり想定される場面情報とつながっています。加えて、「actor (行為者)-action (行動)-receiver of action (被行為者) 」という各構成要素が果たす一連の意味関係が、SVO項目の要素と対照を成します。この対照関係を理解することは殆どの学習者にとって簡単なことで、無意識の内に出来ると云えます。
このことは、言い換えれば、最低限の background knowledge の応用で既に日本語の習得を通じて身に付けている pragmatic competence を活性化させ、ある程度無意識の内に理解に達する方法が、従来教師も無意識の内に使われて来たように思えるということになります。したがって、筆者がここで指摘したいことは、取り分け入門期に教師がこの技術の養成の問題に対して意識的である必要はないかということにあります。
Syntagmatic relationship の理解の重要性
そこで、このでは、より具体的に上記のような内容理解に達するプロセスを理解する為に、別の言い方をすると、このプロセスを通過すると学習者の和訳はその骨格が出来上がり、細部に不十分はあるにしても、一応解釈可能 (interpretable) な日本語になる際に想定される仕組みの理解の為に、どう和訳の作業が上記のプロセスを推進する役割を果たすからについて考えてみたいと思います。
この技術の習得に際して、筆者が、単文を材料として学習を先行させることを主張する理由は、‘文法’という言葉で曖昧にされている言語領域には、文構造 に関わる術語としては以下の言語形式に基づく文法の領域や概念 (表の左側) があり、もう一方にある、それに対応する意味に基づく区分(右から二番目)の概念と完全に一致してはいないという問題があるからです(e.g. Indicative の形式を持つ Question: Tom is ➚tall?; Negatuive の形式を持たない Negation: He failed to come.) 。
|
文法形式に基づく用語 |
線的特徴に関わる語順のルール |
例文 |
意味に基づく用語 |
文法形式とは異なる意味で使われるもの
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Indicative |
SVO, etc. |
Tom is tall. |
Statement |
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Interrogative |
VSO, etc. |
Is Tom tall? |
Question |
Tom is ➚tall? |
|
Imperative |
φVO, etc |
Take it. |
Command |
Do you have a pen? |
|
Negative |
SV not O |
Tom is not tall. |
Negation |
He failed to come. |
+ φ = (主語の)省略
上記の文法形式に関わる分類とルールの部分を見ると線的特徴の領域(語順の変更等)にあるものは形式が非常に簡単で、多くの説明を必要としない上に、数も少なく、初心者にも憶え易いと云えます。したがって、文の構成要素を教える段階で簡単に(学習者が日本語学習を通して知っているであろう)これらの概念を表す術語を入れ込むことが可能と言えます。そして、学習者の側でも、単文の場合、context (脈絡) から切り離されているが故に、上の表のルール部分にはっきりと焦点が当たると云えます。意味領域の context に影響される複雑さがないからです。
このような事柄について、前項 ①② の様な基本的態度で、解釈可能な、一種の逐語訳を求める作業は、教師に、
ⓐ 脈絡から抜き出した context-free の単文をword order に焦点を置いた和訳を大切に
する。又、文脈(co-text)のある文章の場合も、複雑さを避ける為、数個の文から成
る短いものに留める;
ⓑ ⓐを先行させた上で、相当なレベルでの認識の自動性が獲得できた段階で、機能語
(form word) や拘束形態素 (bound morpheme) を用いる tense, aspect, modality
の本格的学習に入り、その段階までは指摘に留める
のような指導項目提示の手順を採らせることになる筈です。この手順は、結果的にであるとしても、‘学習者が完全な和訳文を得る為に不足している文法ルールの存在とその現れる文の中の位置’ を知らせることにもなる筈です。このことは、当然、学習者が欠落した文法項目(ⓑ参照)に関する知識を求めるようになる為の motivation となり得るでしょう。そして、この作業こそが、簡単な和訳という作業に取組むことを通じて活性化されている pragmatic competenceを、より英語による理解の強化の為に使う方向性を決定づけるように思われます。
そうであれば、ⓐ の領域に関しては、syntagmatic な文構造の自動的認識を目指す学習活動を先行させ、そのシステムの中に含まれてしまう最低4種類 (indicative, interrogative, imperative, negative) の形式も教えてしまうことを重点として和訳という活動を行いたいということになります。その場合筆者の経験では、クラスの学習者の知識の均質化や共同作業を目的として、時間を区切った group work を組織し、解答方法も工夫することにメリットがあるように思われます。具体的方法論の一つとしては、
㋐ 文章の場合も一文ずつバラバラにして、各グループに和訳を書かせ、用紙を壁に貼ら
せる;
㋑ 各グループは全てを見て回って、間違いがあれば直す;
㋒ 最終的に、各グループの用紙を机上に置き、正解と思われる順序に並べさせる
のような一連の作業が、個人間の知識の落差を利用して不十分な個所を埋め合わせる為の意見交換を促し、クラス全体の知識を可能な限り平滑化させることにつながる可能性があります。その作業に参加することが、既述のように学習者の不足している知識が何であるか知らせると同時に、知る者から知らない者への知識伝達を通じて、教師が細かい部分について一々教えなくても済んでしまう可能性も増すと云えます。
尤も、上記 ㋐~㋒ の様な具体例のみではなく、この指導領域に関して同じような効果が予想できる取組みであればどのような方法でも良い訳ですから、様々な取り組みが行われることは奨励されるべきでしょう。
ちなみに、この語順・文型に関わる syntagmatic relation の領域は、Halliday (Cohesion in English, 1976) によって、cohesion markers に加え、談話に基づく分析(discourse-based research)により良い理解に貢献するものとされており、通常の語順の理解に加えて、同じ意味を持ちながら異なる語順をとなるケースの存在が指摘されています。即ち、 与格 (dative) の位置の違い、“Mary gave the car to Jim.<> Mary gave Jim the car.”; 動詞句の分割と非分割、“Peter gave up his reward. <> Peter gave his reward up. ” 等の選択の問題です。
動詞句に於ける paradigmatic relationship 理解の重要性
上記のように、可能な限り co-text/context から切離した状態で、‘文の構成要素 (e.g. 5文型, 9文型, etc.) を決め、A, V, O, C, Adv (又は M) を書き込むような 作業を繰り返す練習’ + ‘和訳’ という学習活動は、最低レベルの background knowledge の活性化を通じて pragmatic competence の強化を図ることにつながります。そして、Halliday も次の談話の理解に関わる重要な要素と指摘する、前項 ⓑ の段階で扱うべき、tense, aspect, modality の領域の問題が指導項目として、浮上することになります。
この理解の為の足掛かりとしては、「文法訳読式の指導方法は乗り越えられなければならない (3) その 1」及び「入門期の音読への取組み ―音読指導の為の syllabus design の手順― その 4」でも少し角度を変えて触れている、初期の G-T 手法の教科書で行われていた ‘初級段階は動詞周りを重点的に練習し、徐々により複雑な組織的、系統的な文法 に学習課題を移す’という方向で次の学習範囲を設定する方法があるように思われます。
これは、上記の syntagmatic relationship への注目から、初めて所謂 paradigmatic relationship (= choice relation) に焦点を移す問題であり、学習者は新しくその仕組みを学ぶ必要があることを意味します。
即ち、具体的な一つとして、 indicative の文の形式でみれば ‘時制’ に関して以下の表の様な選択肢があり、学習者は content word である動詞の walk を除いては、上記の表の右側の文法ルール(indicative ~ negative)とその表す意味を結びつける必要があります。
同時に、open class の語である walk の部分には無数の動詞が置かれ得ることを知る必要もあります。
更には、助動詞・語尾変化の部分は closed class の語彙で、どんなに多くてもその数は限られており、殆どの場合その数は変わらない傾向にあるということも学ぶ必要があります。
そして、closed class の語彙は、ある選択を行うことは、その部分に置くことが出来る可能性のある他の語彙項目の選択を拒否するという性質も持っていることを知る必要もあります。
最後に、その選択の根拠が co-text/context の中にある ‘yesterday, tomorrow’ のような時間に関わる語 (句) の存在や以下の表の下に示されている、クラスに於ける教師と生徒の対話の場合の太字部分のように場面情報の中に存在する必要もあります。
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John |
walks |
{φ} {walk} + {-s} |
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walked |
{φ} {walk} + {-d} |
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is walking |
{is} {walk} + {-ing} |
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was walking |
{was} {walk} + {-ing} |
|
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has walked |
{has} {walk} + {-ed} |
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had walked |
{had} {walk} + {-ed} |
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|
will walk |
{will} {walk} + {φ} |
+ φ = 存在しないの意味
Teacher: What’s on?
Student: I .. walk in the park….
Teacher: Yes … you’re going to have a walk this afternoon?
Student: No, … yesterday …
Teacher: Oh! You ➘WALKED in the park ➘YESTERDAY.
更に細かい部分、現在、過去、未来に関わる時制 (tense);継続、完了等に関わる相 (aspect);態度、確信度に関わる法性 (modality) のような細目に当たる部分的知識を添加して行けば、より完璧な和訳文を得ることが可能なことは、教師なら誰もが簡単に理解できることと思います。要するに、学習者の言語項目に関する横の関係の理解に向かっていた焦点が、closed systemの縦の関係に移ることの明確化ということになります。
加えて、この syntagmatic relationship から paradigmatic relationship への指導重点の移行の時点が、本格的に discourse の分野の学習に足を踏み入れる転換点であることも理解可能かと思います。したがって、学習者がこの段階で、
1) 文の構成要素の横のつながりの持つ意味の理解力の開発が終了し、
2) 個々の構成要素内で並立する同じ機能を持つ語彙項目の集積(上記の例の場合 ‘動詞周
辺’)という縦の関係の中から一つを選択することの意味を理解する為の学習の準備が
出来ているか否かの確認
が行われる必要があります。文章を構成する各文の文構造の理解、及び構成要素の持つ意味内容と context/co-text 情報との関りの理解を統合することが、文章の理解ということになるからです。そして、文の構成要素で句(phrase)の形式を採るあらゆる語句の句構造規則の本格的学習への橋渡しにもなると云えます。
そして、この場合 paradigmatic relation の中で選ばれた項目の部分だけを和訳する方法で意味内容を確認するべきか否かについては、教える学習者の理解の度合い等も考慮し、より効果的な方法を工夫する必要があるように思えます。例えば、以下の現在完了と過去完了は、
1) Paula [has taken] her driving test. ― [(ここまでに)受け終わった]
― 話し手は現在から過去を振り返っている
― The speaker is looking back from the
present to the past.
― │ │
now ☞ took test
2) We [had finished] by twelve o’clock. ― [(その時までに)終わっていた]
― 話し手は過去から更に先の過去を振り返
っている
― The speaker is looking back from the
past to the earlier past.
― │ │ │
now ☞ 12 o’clock fished
のような ‘意味内容が明確に伝わるよう変則的な表現を使った日本語訳’、‘日本語による choice 部分の説明’、‘英語による choice 部分の説明’、‘Time line のような図式による説明’ のような方法の内の一つを選択するか、複数を組み合わせることが可能になります。
そして、この段階から学習は discourse 領域 (上記、statement, question, command, negation) の情報を加え、それを理解に利用する方向に重点が移ることは既に述べてあります。言い換えれば、ここから、書き言葉に関する cohesion, text structure, schema (= background knowledge) のような事柄や speech acts, conversation structure, conversational principlesのような 、(written/spoken) discourse analysis や pragmatics の研究分野で分析が進められているような co-text/context に密着した言語運用の方法に関する具体的な知識を蓄える段階に入って行くことになります。
当然、こうした事柄に対応するのに十分な英語の語彙に関わる、テキストのテーマ・話題に関わってセットで存在する単語群、慣用語・熟語 (idiom) 、連語 (collocation) 等々のような知識にも同時並行で学習が及ぶような段階にも後々達することになります。
このように考えて来ると、ここまでの記述に関する筆者の感想として、日本の英語教育の主流にある ‘英文解釈’ という概念は、こうした学習を reading 分野に特化して、吉宗の時代に始まった漢訳本経由の洋学輸入法(= 漢文学習)の定着と明治時代に始まったG-T 手法の英語への適用を融合させた学習方法にそのルーツがあるように思えます。実際に話される生きた言語からの乖離の中で生まれた学習法の最重点は、文法領域でも特に statement, question, command, negation の用語で表される意味領域と談話の領域に置かれ、未発達だった pragmatics 等の研究分野の事象を含むこの部分は、'文法' とは別に '語法' のような言葉で表される場合も多いようです。精密な記述を含む日本独特の英-和辞書の発達も、このような状況下に起こったことのように思えてなりません。
筆者が、このまとめの段階で、音読用のテキストの話題選択や和訳或いは日本語の利用の仕方に関する説明にページを割いた理由は、忙しくなると準備不足の為、授業時間の中心的位置に ‘和訳を求める方法で理解のチェックをし、口で説明して終わりにしてしまうような’ 授業に追い込まれ易い労働条件下に置かれている教師が、安易な “(全文) 和訳” の適用を止め、日本語訳を使うなら徹底的に有効に利用したいと考える必要があると思うからです。日本語による全文の理解をしなと、次の学習に進まないという態度を学習者の中に作り出すケースも多いように思えるのがその理由です。そして、これを避ける為に、その際何が大切かを考えてみたいということにあります。
筆者が示した上記のような考え方や方法論が正しいものかどうかは不明ですが、この音読コースのような比較的小さな取組みの中で様々な方向性を模索することの重要性は強調されるべきかと思います。
最後に、もしこうした音読コースへの取組みが行われるならば、中学 3 年間のコースの流れの何処で、和訳に頼らず reading strategy の習得を含む、通常の reading の指導を本格化させるべきかについての検討も継続的に行って欲しいということを強調して置きたいと思います。そのことが、‘音読から黙読へ’ の転換の時期の目標を立てる上での重要な要素となるからです。そして、和訳することなく、英語で英語を理解(English through English)出来る能力の開発にもつながると思えるからです。