Maybe I was dreaming
こんにちわ。
その時が来ました。
来てしまいました。
2週間前くらいは早く日本に帰りたいと思ってた。
しかし、今となれば話は変わってきます。
振り返ってみてば、長い旅だった。
香港に始まり、強烈インド、極寒フィンランドと怒涛の序盤。
kei-jとフランスで合流したのも懐かしい。
そして、なんていっても南米!
今回もっとも惹きつけられた。
イチオシです!
イースター島、マチュピチュは期待を裏切らないどころか、軽くK点を超えてきた。
そして、各訪れた土地で多くの人と接したが、記憶、記録に残る人は自分にとって最高の思い出だ。
香港のいんちき両替商人、インドのサンジェをはじめとする、くそったれ野郎。プラハのばあさん etc……
キリが無いので番外編で。
とにかくネタは尽きない。
そんな人たちは旅の記憶の扉の重要なカギ。
やはり旅において人との出会いは醍醐味だ。
これが旅を面白くする!
そして、
旅の付き物のハプニング
今回はやってしまった。
相手がプロだったにしろ、
自分はまだまだ甘い。
今回、旅を終えて、世界をもっとしれたし、まだまだ知りたいとも思った。
そして、旅というものが、自分の人生のエッセンス、なくてはならないものだと認識できた。
とにかく、心から楽しいと思える。
幸せなやつだ。
イースター島で話したチリ人にも言われたが、
たびができる環境というのを改めて感謝し、大切にしなければならない。
家族、親族、友達、日本人、世界のびと、地球、宇宙
サンキュー
平和で豊かだからこそ、できる。
残すとこ
あと170カ国くらいいかんといけんw
そんなことができる世界であってほしい、そんな世界にしていきたいです。
そして今回相棒として一緒に旅をしたshuns!
ありがとう。
end.
masa
マチュピチュをめぐる冒険 後編
*本編は二部構成の後編です。一つ前の前篇を先に読んでください。
15世紀前半、スペインによりインカ帝国が征服されると、スペイン軍はインカの都市をことごとく破壊し尽くしていった。しかし、標高約2400mに造られたマチュピチュはスペイン軍に見つかることなくほぼ無傷のまま残された。インカ帝国の滅亡から400年近くを経過した1911年、ハイラム・ビンガムによって発見されたときには、ここは草に埋もれた廃墟となっていた。ユネスコの世界複合遺産に登録されている、ここマチュピチュは極めて考古学的価値が高い。一体誰が、何のために、こんなところに街をつくったのだろうか?インカ帝国の人々が持ち出して隠したとされる黄金はどこにいったのか?その全容は謎のままなのだ。
僕は高橋健(ガイド)から発せられる言葉を一言ももらさまいと、その言葉一つ一つをまるで手でつかむとすぐに壊れてしまう大切なものように丁寧に拾い上げては、ひたすらそれらをつなぎとめていった。
歴史がとても深かった。謎が謎を呼び、神秘が神秘を呼んでいるのだと僕は勝手に解釈した。そして言わば形而上学的なものを孕んでいるのだと感じた。それは例えばドーナツの穴を空間と捉えるか、存在と捉えるかという形而上学的な難問だ。しかしそれが何であれ、結局ドーナツの味はかわらない。謎であるということはかわらなかった。
マチュピチュをぐるっと一周する頃にはすっかり霧も晴れ、かわりに攻撃的にも思える太陽のすさまじい光熱にさらされた。いよいよワイナピチュの登山に挑戦する。時計の針はまだ11時を回っていなかった。マチュピチュを上から見下ろそうと言うのだから、相当な山道を僕は覚悟していた。しかしその覚悟もあっという間に砕け散ってしまいそうになる程きついものが僕たちを待ちかまえていた。マチュピチュ村に向かう列車を待っている時、ちょうどマチュピチュから帰ってくる人たちを見かける機会があった。そしてその人たちの何人かが、腕や足に包帯をグルグル巻きにしていたことを思い出した。彼らはこの登山の犠牲者に違いない。花束が大量に添えてあるジェットコースターに乗っている気分になった。
山頂に着いた時、僕は声がでないほど感動した。本当に感動したら「すごい」とか「きれい」とか、そんな言葉もでないのだなと思った。言葉は完璧ではない。言葉がそれを陳家なものにしてしまうような気がした。マチュピチュは上から見るとコンドルの形をしているのだと聞いていたが、僕にはそれがどう見てもピエロに見えてしょうがなかった。いずれにせよ本当にそこから離れたくなかった。ここで二人、記念撮影をした。これは一生の宝ものにしよう。
マチュピチュを下るバスの中、僕はどうしようもない虚無感にさいなまれた。そして、いよいよこの旅が終わるのだなという想いとともに、日本に帰ってからの現実が波のように押し寄せてきた。
「俺は4月から働くのか」
「社会の歯車の中で一生を終えるのか」
「こんな旅はもう一生できないのかな」
無駄なことを考えるのはやめようと思う前に、それを忘れさせてくれるような出会いがあった。僕たちがマチュピチュ村に滞在したホテルで働いているハビエルとエリーナだ。彼らの優しに触れることができ、日本から遠く離れたペルーの土地に友達ができたのだ。僕たちとほぼ同世代の彼らは、仲の良い兄弟だ。スペイン語の辞書を何度も捲っては話しをし、彼らとビールを飲みかわした。日本に帰ったら彼らに連絡をしよう。ありがとうともう一度伝えよう。
そんな冒険はあっという間に終わってしまった。本当にここに来れてよかった。もう一度、いつかこの地を訪れよう。
おしまい
マチュピチュをめぐる冒険 前篇
*本編は二部構成になっています
「心地の良い曲を頼むよ」
携帯で目覚ましをセットするMASAの背中になげかける。
「心地よい目覚ましなんて、あるのかな?」とMASAは言う。
「ないな」
明日は朝の3時半に起きねばならない。3時は朝と呼べるのか。一体何時からが朝なのか。まさかニワトリが鳴く時間なんて訳がない。それならニワトリのいない、ここマチュピチュ村には朝が来ないじゃないか。こんなことを考えながら、ゆっくりと瞼を閉じる。しとしとと降る雨がまるで子守唄のように優しく流れ、ぼんやりとした意識の真っ暗闇に落ちていった。
僕たちは予定通り、早朝4時にホテルを後にした。昨夜、降りそこねた雨たちが慌てて地面を濡らしていく。マチュピチュに歩いて登ることを決断した僕たちに、もう戻る道はない。携帯の明かりを頼りに、水たまりを避けながら静かに静かに歩いていく。
マチュピチュへの登山道は、どうやら正規の道ではないらしい。もともとあった道ではなく、誰かが歩いては、またその後に誰かが歩く。そうしてやっと生まれた分け目を道と呼び、僕らはそこをひたすら登ることになった。
「落ちたら即死だな」
リアルすぎるMASAの言葉に僕はかぶりを振った。
地面を捉える足の感覚が脳までしっかりとその暗号を伝えるまで、十分すぎる時間を空けて足を前に前にと運んでいく。落ちたら即死なのだ。
「マチュピチュはいいぞ」
浪人時代、予備校の世界史の佐藤先生がいった言葉を僕は思いだした。彼は少しぽっちゃりとした体形に引けをとらないようなダボダボの真黄色のシャツを着ていた。あるときは真っ赤なシャツ。ピンクの時もあった。相当高価な代物らしいがその価値は僕にはわからなかった。
僕が海外旅行に興味を持ち始めたのは、佐藤先生の影響だろう。彼は受験生たちがその大役を終える時期にさしかかると、さっさと海外旅行にでかけていっては毎年旅行の話しを生徒に披露するのだ。マチュピチュを紹介したときの彼の顔は、どこか子供を思わせるような無邪気さを孕んでおり、何より楽しそうだった。とにかく世界史が好きだった僕は、資料集に所狭しと並んでいる世界遺産を眺めながら、いつか行ってやると思った。
マチュピチュはクスコからウルバンバ川に沿って約114km進んだ奥深いジャングルの中にその姿を置く。遺跡は、標高2940mのマチュピチュ山と2690mのワイナピチュ山を結ぶ尾根にまたがる。麓からその姿を確認することはできず、空中からしか存在を知ることができないことが「空中都市」と呼ばれる所以なのだ。
スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」は、マチュピチュをモデルにしたと聞いたことがあるが、本当なのだろうか。滅びのまじない「バロス」と叫んでみようと思った。もっとも帰りのバスで叫ぶのを忘れたことに気づくのだが。
まさに文字通り、ハァハァハァと息が上がる。標高3000m近くになるとホテルの階段を3階まで登るのに、まるでマラソンを終えたランナーのように肩で息をせねばならない。
「さっきの雲がもうあんなに下だ」
驚きながら僕は、その雲をとても身近に感じることができた。世界中どこでも、もちろん僕の家からでも見える雲は、ゆっくりゆっくりと流れる。忙しい日常とはほとんど対象的にも思える雲の優雅さは、単に距離だけの問題ではなく遠くの存在のように思えてならない。しかし、その雲でさえ今は僕と同等の位置にある。そう思うとなんだか嬉しくなってきた。そして一歩一歩、石段をゆっくり登っては雲と追っかけっこをし、また次の雲をつかまえていく。見下ろした雲は山とぶつかっては、その姿を自由に変えながら散らばっていった。
「ブラボー」
突然、少し上の方で僕たちの先を登っていた西洋人たちが叫ぶ。
「もうすぐ着くっぽいな」とMASAが言う。
「これで着かなきゃ、あいつら殴ろうぜ」と言いながら、そろそろ着いてくれと願った。
そこは入口だった。
この上ない達成感と疲労と疲労がこみ上げてくる。山登りはいいものだと思った。日本に帰ったら富士山に登ろう。もちろん夏まで待ってから。
いや待てよ。達成感は早すぎる。僕たちは山登りにきたわけではない。メインはこれからだ。
早朝4時にホテルを発ち、バスに乗らずに歩いてマチュピチュの入り口までやってきた僕たちは、ワイナピチュへの切符を手に入れることができた。ワイナピチュとはマチュピチュの背後にそびえる山で、その山頂に足を運ぼうものなら、天空の都市させも上から眺めることができるのだ。一日400人までしか登れない。そういう訳で、僕たちは記録的な早起きをせねばならなかったのだ。
マチュピチュの入り口をくぐると、そこにはいかにも幻想的な風景が僕たちを待ち受けていた・・・と言いたかったが現実は違った。さっきまで追いかけっこをしていた雲たちを一斉に引き連れてきたように、あたり一面が真っ白な朝霧に包まれていった。
これじゃ何も見えないじゃないか。と思うと同時に、大勢の大人たちが列をなしてドライアイスがいっぱいつまった箱に、次々と入っていくかのように思え、僕は少しおかしくなった。
それでも時間が経つにつれ朝霧が晴れていき、僕が待っていた幻想的な風景を映し出した。まるで母親の後ろに隠れた子供が少しずつ顔をのぞかせるように、天空の都市はその姿を披露していった。
僕たちはこのマチュピチュを、現地のガイドについて回ることになった。ペルーの公用語であるスペイン語に加え、古くから使われているケチュア語、そして英語を巧みに操る彼は、丁寧にマチュピチュの謎をひも解いていった。
MASAはこのガイドが元広島東洋カープの投手、高橋健に似ていると言い張った。僕の否定的な回答はそっちのけで、嬉しそうに微笑んでいた。MASAにはこのガイドが言葉を発するたびに、高橋健がボール投げる姿を見ていたのかもしれない。
後編につづく
インカ? いんかd(^_^o)
ペルーには日本人が比較的たくさんいます。
先日お世話になったペンションも日本人の人が経営していました。
夫は二世だそうです。
その夫にお世話になったのですが強烈でした。
また後々ブログで紹介するでしょう。
インドのサンジェを脅かす存在ですw
チリもそうですが、日本人移民の話がよくでてきます。
イースター島にも明治前くらいに日本人がたどりついたとか、
ペルーには戦後、アメリカから移ってきた人たちが多いそうだ。
フジモリ大統領の問題もあり、日本人はアンステイブルな状況を過ごした。
民族ってのはいい意味でも悪い意味でも繋がってるんだな。
てか、ここの人はかつてスペインにぼこぼこにされて、スペイン語も強要されて、今はなんからの思いは抱いてるんでしょうかね??
さて、
ペルーはクスコにきました。
高度が3000m級なので、空気が薄いです。
高山病にならないよう初日は安静にしました。
そろそろなれてきたかも

しっかり肺を膨らませ、呼吸してます。
クスコは
そう、インカ帝国の都市の一つを担っていた街です。
その名残が今なお、現地で生きています。
この狭い路地
車一台と上がり下りの歩行者、一人づつがやっと
そして、石造りの小道、壁
剃刀一本も通さないようなきっちりとした石の壁となっている。
日本の石垣とはまた一味違う。
クスコにはさらにインカ時代に作られた地下道が存在するらしい。
現在までのこされている主要建物を繋いでいるらいし。
だが、まだ謎のまま
ザ ミステリー!!
南米はミステリーの宝庫ですね
夜景も最高です。
まだ空が青い時と漆黒の空です

丘の明かりがまたいい!
iPhoneからの投稿
しつこいくらいの「お願いします」。
もうすぐクリスマスですね!
サンタさんも、テンションあがってるようです。
しゅんすけも、テンションあがってます。
ところで、リマはとても過ごしやすいです。
暑くなく、寒くなく。
あっ、でも日焼けには気をつけて!!!
今日は新市街をぶらぶら。
きれいで落ち着いた街並み。
違和感があるな・・・。
昨日の旧市街は
途上国を思わせる雰囲気があったのに。
格差か・・・どこの国も同じだな。
ぼろ小屋地帯の横は高層ビル群・・・。
そして今日のメインは、「恋人たちの公園」。
拡大!!!!
若いね、まったく。
でもこの男性の優しげな表情・・・
憎めませんな。
この像を前に、ふと横を見る。
MASAと目が合う。
・・・。
そのとき何かがうまれた気がしました。
確かにうまれた。
ちなみに、この公園で
一番目立ってたのが
バトってるカップル。
女性を怒らすと怖いですな。
これもどの国も同じか・・・。
いよいよ明日は最後の街・・・。
クスコに行ってきまーーーーす。
あと、お願いがあります。
立命館大学BKCで写真展を開催するので
見に来てください。
お願いします。
お願いします。
【告知】

gap. いま、存在する格差の写真展
2010年12月13日(月)‐12月16日(木)
11:30‐18:30
立命館大学びわこくさつキャンパス
リンクスクエア2階リブロスペース
地球上の大きな格差、「貧困問題」。
フィリピンをはじめとする東南アジア6カ国で
私たちが過去4年に渡り目にした貧困からの衝撃、
変わらない現状、そのままを伝えます。
□主催 国際ボランティアサークルTOM SAWYER
住環境問題を中心とした国内外での活動の中で、学び、成長し、
笑顔あふれる国際社会の実現を目的とする立命館大学の登録団体です。
東南アジアでの海外ワークや、国内での啓蒙活動を主とし活動しています。
http://
お願いします。






















