これから、経済はまたバブルになりそうですね。

 

今月(2019年6月)を境に、流れが変わりましたね。

 

 

周囲の人々の予測では、これから景気が後退するという予測が多いような気がしますが、

さて、どうなるでしょうかね。

 

あなたは、人生に対して生きる意味を問いかけたことがあるでしょうか?

 

「私はこの人生で何をすべきでしょうか」と。

 

 

このとき、誰かから返答がありましたか??

 

 

・・・ないですよね。

そして、迷う。人生に。

 

 

ところが、

 

人生が自分に生きる意味を問うている、

 

と考えると、

目線が変わり、気づきがあるのではないだろうか。

 

 

意味を問うのではなく、問われているのだ、と考えるとき、

古代より「天命」という概念で語り継がれてきた考え方が、

人生の実践的な指針となることに気づくのではないだろうか。

 

 

射手座の満月の夜に、

自らが実現すべき天命を考えてみると、

気づきがあるかもしれませんね。

 

 

 

 

日本人が「人格を持つロボット」と聞いてまず思い浮かべるのは、

ドラえもんであり、鉄腕アトムだろう。


当然、ドラえもんも鉄腕アトムも、人間を助ける存在である。

ドラえもんや鉄腕アトムが弱き人間たちを助けるシーンを

子どものころから何度となく見ていることを考えれば、

 

「ロボットは、人間を助ける友達である」

 

という概念が

日本人の無意識に深く刷り込まれているとさえいえる。

 

 

 

これに対して、西洋で、「人格を持つロボット」というと、

ターミネーター、すなわち人工知能を搭載した殺人アンドロイド、となる。

攻撃を受けて機体が損傷してもなお人間を殺すために追いかけてくる

闘い続ける不死身の機械生命体、というイメージだろうか。。。

 

当然、ロボットは「友達」、にはならない。

 

ロボットは「敵」、である。

 

AI(人工知能)の行き過ぎと、人間への反乱を警告する有識者たちの

潜在意識には、殺戮機械であるターミネーターの姿が深く刻まれているのは

容易に想像できる。

 

そのような人たちは、ロボット技術とAI技術の組み合わせの未来には、

恐怖と悪夢しか見えないだろう。

 

しかし、恐怖と悪夢に基づく行動が、

人類のための行動につながるとは思えない。

 

基本的に、人間は、見たいものを見て、聞きたいものを聞く生命体だ。

恐怖と悪夢をベースに行動すれば、

その恐怖と悪夢を再現しようとするのは自明だろう。


多くの研究が示すように、

人格及び人格に基づく行動パターンは、

無意識領域の影響に基づく。

 

そうすると、

「無意識領域において意識的である」

という状態でなければ、

人間は、無意識の奴隷にすぎない。

 

無意識の奴隷から解放されるためには、

無意識領域を減らすか、

無意識領域を凌駕する意思(顕在意識)の強さを持つ、

のいずれかが必要だ。

 

このうち、無意識領域を『凌駕」する意思の強さを

持つ人間は、極めて稀だと思う。

 

むしろ、多くの人間としては、

無意識領域を減らす、

つまり意識的である対象を増やす、

という状態を目指すのがよいように思う。

 

そうすると、

 

何事も表と裏があり、プラスとマイナスがある、

 

ということが偏見なく腑に落ちる。

 

人類のために使うことができる知恵や道具もあれば、

その同じ知恵や道具が、人類を破滅させる能力を持つのは、

人工知能に限らない、

ということも、すぐに理解できる。

 

「では、人工知能やロボット技術の悪い側面を減らし、 

 良い側面を引き出すにはどうしたらよいか。」

 

意識的に対象を見据えることで、

そんな思考に自然となれるとすれば、

 

恐怖に目をつぶるのではなく、

恐怖をうまく乗り越えられるし、

 

偶然のイノベーションに期待するのではなく、

必然的なイノベーションを引き寄せる。

 

そしたら、人類の未来は明るいし、

もっと喜びが満ちる世の中になる

 

そんな気がするんだよね。

 


 

 

 

 

遊びの疲れは、寝て癒せる

仕事の疲れは、仕事でしか癒せない

 

 

===

 

 

仕事で「疲れた~」と感じた時、ストレスを感じたとき、みなさんは、どうやってその疲れを癒そうとするだろうか。

 

たとえば、

 

趣味に没頭したり、

 

酒を飲んで騒いだり、

 

友達と語ったり、

 

カラオケで歌ったり、

 

ときには泣いたり、

 

愚痴を言ってみたり、

 

したりすることで、発散したりすることが多いのかもしれない。

 

 

でもどうだろう。

 

上記のようなことで、ストレスは「発散」はできるかもしれない

 

ただ、ストレスが心の底から癒されたという実感をはたして持てるだろうか

 

 

仕事で感じるストレスの本質は、その仕事を遂行するにあたってぶつかる壁だ。

 

その壁は、仕事に慣れていないことかもしれないし、人間関係が原因かもしれない。

 

つまり、仕事の壁とは、仕事のうえで解決しなければならない課題であり、

それは、自分自身が乗り越えなければならない「自分の課題」である。

 

 

その課題をクリアするために直接的に必要なことは、

その課題で感じるストレスを発散することではなく、

その課題をクリアするに必要な成長を自らが遂げることだ。

 

 

そう考えると、仕事の壁とは、自分の成長の機会であり、自分の成長の余地なのだ。

 

仕事のストレス = 仕事で感じる壁によるストレス は、

自分が成長することで、おのずと解消される。

そして、自分が成長して課題をクリアすることでしか解消されない。

 

自分が成長することなく課題をやり過ごすと、

その課題は、当然に、もう一度目の前に出現する。

 

なぜなら、自分が成長していないから、「壁である」と感じるポイントは、

以前と変わっていないからだ。

 

 

けっきょく、仕事のストレスは、より良い仕事をすることでしか本当の意味で癒せないのだ。

 

 

起業家やベンチャーがブームになって久しい。

 

いつの時代も、未来を作ってきたのは、ベンチャー企業だ。

 

ソニーやパナソニックも、昔はベンチャーだったし、

ソフトバンクも、Facebookもグーグルも、みんなベンチャーだった。

 

起業することを、0(ゼロ)から1(イチ)を生む、という言い方をすることがある。

 

本当は、0(ゼロ)に何を掛けてもゼロであるはずだ。

でも、世の中をみると、0(ゼロ)から1が生みだされる瞬間が確かにある。

 

「0」と「0.0000000001」の違いは何か。

 

 

情熱。

 

生命のほとばしりとしての情熱 = つまり、志。

 

人間の意思の力は、志というエンジンで、想念を現実化させるのだ。

 

 

AIの発展で、外国語を勉強しなくても済むのではないか、という願望というか希望が、まことしやかに言われるようになってきた。

 

ドラえもんの「翻訳こんにゃく」のようなものができれば、それは、たしかに、ありがたいと思うし、

多くの人の役に立つだけではなく、世界の平和にも貢献すると思う。

 

しかし、同じ日本語を話していても、同じ英語を話していても、分かりあえる人たちがいれば、そうではない人たちもいる。

 

仕事をしていて痛感するのは、

カタコトの外国語で、現地の人としっかりコミュニケーションをとり、信頼関係を作ることができる社長はたくさんいるし、

流暢な外国語を話してしても、現地の人との信頼関係を作れない人もいる、という現実だ。

 

結局、人間の相互理解という観点からは、言語の差、というのはさほど大きくないのかもしれない。

 

何かを伝えたい、伝えなければ、という情熱にまさるものはないのだろう、とすら感じる。

 

ただ、人間社会が一筋縄ではいかないのは、

このような情熱さえ、逆効果を有む場合があるということだ。

 

つまり、「翻訳者」の情熱が、空回りするだけではなく、暴発してしまう場合である。

 

この「翻訳者」は、言語の翻訳(日本語→英語など)を行う文字通りの翻訳者だけではなく、社長の言葉を組織全体に伝える役割を持つ、たとえば女房役のような方や、紹介者としての立場や交渉者としての立場で、双方の立場・言い分を調整する役割の方、も含まれる。

 

このような「翻訳者」は、Aさんが話すある言語を、Bさんが話す別の言語に「翻訳」する人であり、その目的は、AさんとBさんの意思疎通をスムーズにすることにある。。。はずである。

 

仕事で、「翻訳者」がファインプレーをするときは、本当に「翻訳者」の貢献は大きい。

たとえば、ホントなら喧嘩になってもおかしくないのに、うまくまとまったときなどだ。

 

逆に、「翻訳者」が事態をさらに混乱に陥れる場合もある。

たとえば、当事者は問題ではないと納得しているのに、

「翻訳者」が事態の問題点と深刻さを強調することで、うまくいかなくなる場合、などだ。

 

「翻訳者」がうまくいく場合とうまくいかない場合、その本質的な差は何だろうか?

 

 

それは、「翻訳者」が自分の【我】をどれだけ抑えられるか、の違いではないか。

 

外国語の翻訳のケースはわかりやすい。

 

当事者が伝えたいこと以外に、「翻訳者」が自分が伝えたいことを投影してしまうと、おかしなことになる。

他方、当事者が伝えたいことの意図を虚心坦懐にくみ取れば、素晴らしい翻訳になる。

 

ここで問題なのは、翻訳者が自分が伝えたいことを投影していることに気づかない、

もしくは、そのことは当事者のためだと思い込んでいることがほとんどである、ということだ。

 

AさんとBさんの間に入る人においてもそう。

 

「翻訳者」は、Aさんの意図やBさんの意図に虚心坦懐であるほうがうまくいく。

ここで、「翻訳者」が自分の意図を投影させようとすると、

当然に、Aさんの意図やBさんの意図からズレていく。

 

しかも、「翻訳者」が自分の意図を投影しようとすればするほど、ズレていく。

 

しかし、「翻訳者」自身は、そのことに気づかない。。。

 

 

このようなケースを第三者として観察している場合はまだいいが、

当事者として巻き込まれたときは大変だ。

 

 

どんな時代になっても、当事者同士が、きちんと話し合い、

直接のコミュニケーションをとるということが大事だろう。

 

それは、テクノロジーの発展で、SNSやインターネットという、

様々な形態の「翻訳者」を使わなければならない現代においては、

顕著な課題なのではないかと感じる。

 

多くの問題は、「翻訳者」が機能していない、または、不適切な「翻訳者」を用いている、

ということが原因である可能性は大いにあるからだ。

 

多くの経験を重ねれば重ねるほど、

直接会って話をする、ということの意味の大きさを感じさせられる。

 

「自由」と聞いて、みなさんは何を思い浮かべるだろうか。

 

 

なんでもできる状態、を夢想するだろうか。

 

自らに課される/課されている制約、を苦々しく思うだろうか。

 

(自由に伴う)責任にプレッシャーを感じるだろうか。

 

 

通常、「自由」という場合は、自分の思考と行動にフォーカス(焦点)が当たっていて、

「(私が)自由になる」という自動詞的な意味が強調される。

 

 

しかし、「自由」というものを掘り下げてみると、元来は、別の考え方に立脚しているように感じる。

 

たとえば、古代ギリシアにおいては、リベラルアーツが重視された。

現代においても、専門教育の弊害と限界が指摘されるにあたって、リベラルアーツの重要性が説かれる。

 

リベラルアーツ、つまり「人を自由にする学問」が人間にとって重要であるという考え方においては、

「自由」とは、「(人を)自由にさせる」という点で、他人にフォーカスが当たっており、

「他人を自由にする」という他動詞的な意味に立脚している。

 

 

自動詞的な自由と、他動詞的な自由は、似ているようで大きな差を生むように思われる。

 

なぜなら、自動詞的な自由は、容易に自分中心主義に結びつき、エゴを増大させる。

 

他方、他動詞的な自由は、相手にフォーカスを当てることで、

利他主義・協調主義の考え方に親和する。

 

 

「自由」を、「他人を自由にするために考えて行動する自由」と定義すると、

社会のいろいろなものの見え方が、変わるのではないか。

 

見え方が変わるということは、意識が変わるということであり、

意識が変われば、行動も変わる。

 

そうなったとき、いまよりは良い社会になっているような気がするのは、

私だけだろうか。

 

人生は、いろんなものに例えられる。

 

旅であったり、山登りであったり、

人生は映画のようなものだという人もいる。

 

人によって、いろんな比喩を使うが、

喜びもあれば悲しみもある、ということは共通しているように思う。

 

喜びには喜びの味わい方があり、

悲しみには悲しみの味わい方がある。

 

先人をふくめ、多くの先輩方は、そんな人生観を伝えようとしてきように感じる。

 

 

ぼくは、いつからか、人生とは武者修行だなと思うようになった。

 

喜びと悲しみと、それ以上に、挑戦と成長を求める自分がいる。

なぜそう思うのだろうと考えたこともあるけど、

自分の内側から湧き上がってくるものだから、

仕方がない。

 

挑戦と成長には、感動と情熱と大きな喜びがあるように思う。

 

人生は、楽しいことばかりではないけれど、

挑戦しづづける勇気と、

成長しつづける謙虚さを、

ずっと持ち続けたい。

 

どんな状況であっても、何歳になっても。

 

そんなことを考えながら、

挑戦と成長を加速させるためにも、

ブログを書いていこうと思い立った。

 

みなさま、よろしくお願いします。

人生は、いろんなものに例えられる。

 

旅であったり、山登りであったり、

人生は映画のようなものだという人もいる。

 

人によって、いろんな比喩を使うが、

喜びもあれば悲しみもある、ということは共通しているように思う。

 

喜びには喜びの味わい方があり、

悲しみには悲しみの味わい方がある。

 

先人をふくめ、多くの先輩方は、そんな人生観を伝えようとしてきように感じる。

 

 

ぼくは、いつからか、人生とは武者修行だなと思うようになった。

 

喜びと悲しみと、それ以上に、挑戦と成長を求める自分がいる。

なぜそう思うのだろうと考えたこともあるけど、

自分の内側から湧き上がってくるものだから、

仕方がない。

 

挑戦と成長には、感動と情熱と大きな喜びがあるように思う。

 

人生は、楽しいことばかりではないけれど、

挑戦しづづける勇気と、

成長しつづける謙虚さを、

ずっと持ち続けたい。

 

どんな状況であっても、何歳になっても。

 

そんなことを考えながら、

挑戦と成長を加速させるためにも、

ブログを書いていこうと思い立った。

 

みなさま、よろしくお願いします。