RollingStone2021年1月7日号に掲載された記事「The Sprit of Neil Peart」を、Neilが病気になって以降の部分について訳してみました。色々と新しく知る話で、涙無くしては読めませんでした。

 

2021年1月12日 訳を数カ所修正しました。

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2015年8月にツアーを終えたニールは、引退の10カ月後に脳腫瘍であることがわかった。

 

引退後のニールは、カリフォルニア州サンタモニカの自宅から1ブロック離れた「man cave(人類の洞窟)」と呼んだクラシックカー・コレクションの倉庫兼執筆活動用のオフィスに、娘のオリビアが登校後の毎日朝9時から5時まで通い、歩いて近所のスターバックスやサブウェイで昼食を買ったりして、過ごした。

それ以外の時間は、20年連れ添っている妻のキャリー・ナッテルと、彼を慕う娘のオリビアとの時間を過ごした。これから毎年夏には、Le Studioにほど近い、ケベックの湖畔にある豪華な別荘で過ごす計画を立てていた。

 

ツアーが終わって、オフィスで働かない日は、ニールはオリビアの学校の図書館のボランティアをした。「オリビアはとても喜んでね。」とキャリーは語る。「学校でずっとパパに会えたから。」

夜に彼は家に帰り、家族のために夕食を作った。「多分、彼はここ数十年で初めて、やりたかった生活を送ったのだと思う。とても幸せな充実した時間だった。…そして神だか、なんだかが、それを全て奪い去ってしまったの。」

 

ゲディ曰く「本当に彼が気の毒だ。彼が長年かけてようやく勝ち得た普通の生活が、あまりに短すぎて。」

 

ニールは70年代初めにロンドンに住んでいた頃から、新聞のクロスワードパズルを解いていた。土産物屋のマネージャーをしていた時、地下鉄での通勤の暇つぶしに始めたものだった。

過去20年間ほど、ニールはNew York Timesのクロスワードパズルを解くことを日課としていた。2016年6月、ニールはパズルを解くのが困難になった。「彼はどうしてなのかわからなかった。」長年のマネージャー、レイ・ダニエルズは語った。「どうしたんだ?」

 

ニールはこのことを彼の胸の中に留めていたが、しかし夏頃にはキャリーによるとうつ病と思われる兆候がみられた。キャリーはこのことを、オンタリオ州のMuskokaにあるレイ・ダニエルズの家を訪問している時に打ち明けた。レイは、「キャリー、彼は欲しいものを手に入れた、自由を手に入れた。最後のツアーの巨額のペイチェックも受け取っている。これはうつ病ではない。」

 

8月の終わりには、キャリーとニールの母親は、ニールがいつになく口数が少なくなったことに気づいた。また、ニールが後にバンドメイトに語ったところによると、話始めると「言葉を間違えるようになった。」彼は急ぎ医師の診察を受け、MRIを撮影し、最終的には手術となった。診断結果は、残酷なものだった。Gliobastroma、進行の早い脳腫瘍で平均余命は12~18カ月であった。

 

病理学検査によると、ニールの癌は珍しく治療可能なタイプのものであった。そしてニールは、診断後3年以上もの間、2020年1月7日まで生存した。これはこの病気においては「長期生存者」と分類される。

 

「3年半経っても、」ゲディは語る「彼は自宅のポーチでたばこを吸ってたよ。彼はBig C(癌のこと)に、大きくBig ’Fuck you’と言い続けていたんだ。」

 

近々手術を受ける前、ニールはアレックスの誕生日に滅多にしないTV電話をかけた。「彼から電話がかかってくることはとても珍しい、なぜなら彼は電話で話す事が苦手だから。」アレックスは語る。「彼が美しいEメールを送ることはあっても、誰彼と電話で話すことは好まない。だからびっくりした。でも、何かがおかしいと感じた。多分通信状態のせいかとも思ったが、いつもの彼とは違っていた。そして、その後、いつもその時のことを考えるようになった。」

その数週間後、ニールはバンドメンバーにEメールを送ってニュースを知らせた。遠回しに言うこともなく「単刀直入に打ち明けてきたんだ。」ゲディが述回する。「僕は脳腫瘍になった。これはジョークじゃない。」

アレックスはこのメッセージを受け取った時、ゴルフ場にいた。「僕はその時、その場で泣きだしたと思う。」

 

「戦闘態勢になったよ。」とゲティは語る。アレックスとゲティにとって、トロントから遠く離れた地に住む友達に会う機会を見つけることが優先課題となった。

 

ニールは、彼の病気にヒーローのような強さとストイックさで対応した、生き抜くために戦うように。「彼はタフな人だ、」ゲディは語る「彼はあのストイックさがなければどうにもならなかった、明らかに彼は腹を立てていた。しかし彼は、その恐ろしい事実を受け入れなければならなかった。彼は、ひどい知らせを受けることに長けていた。そして彼はそれでOKだった。彼は家族のために、できるだけ長く生きるよう最善を尽くそうとした。そして信じられないくらいよく生き延びた。彼は運命を受けれた、僕が受け入れるであろうよりも、より気高く。」

 

ニールはある程度の宿命論を持ち合わせていた。数々の宇宙の偶発性に関する曲を書き、そして彼自身の人生に起きた数々の出来事がまたそれを証明した。1997年に、娘のSelenaが大学へ向かう道中に事故で死亡し、また事実婚の妻であったJackieが程なくして癌で亡くなった。彼は合理主義者であったにもかかわらず失ったものは多く、自分が呪われているのではないか、と思わずにはいられなかった。

 

「娘が19才で亡くなり、妻は42才で亡くなった。そして僕は62才でまだ生きている」彼は2015年に、禁煙をするつもりはないことを語った際に述べた。(喫煙は脳腫瘍の原因であるとは考えられていない)

「どれだけ多くの人々が、僕より若くして亡くなった?どれだけ多くのドラマーが僕より若くして亡くなった?僕はすでにボーナスタイムを生きている。何かで僕は死ぬことになるだろう。僕はバイクに乗る。僕はスピードを出して車を運転する。飛行機であちらこちらを飛び回っている。危険な人生だ。昔の人がバイクについて語った話が好きでね、”もしお前がバイクを十分に愛しているなら、そのうちそれが原因で死ぬだろう。長生きするコツは、他の何かの原因で先に死ぬことさ。”」

 

強がってはみるものの、彼は娘を残して死ぬという考えに我慢ができなかった。「その考えに彼は非常に悩まされた。」レイは言う。「出来事が一周することに、彼は悩まされた。最初に彼は子供を亡くすという痛みを知った。そして今度は彼が子供を後に残す。」

 

ニールは、状況をやり過ごすために独自の悲嘆プロセスがあった、とキャリーは語る。「彼が手に入れられない将来、オリビアや私そして自身の人生に関して手に入れることができない事柄について。もし人生を充分に生きる人がいたとしたら、それはニールのこと。そして彼にはもっとやりたいことが沢山あった。人々が”ああ、彼はとてもストイックで彼の運命を受け入れた”と言う。ええ、彼は充分に生きた。しかし同時にそれは彼の心を傷つけた。」

 

ニールは、残りの時間を最大に活用するよう心に決めた。まるで過去に最大の日々を過ごすよう模索したように。「今日できる最良の事はなんだろう?」彼はかつて自身に問うた。多くの場合、コンサートでの演奏の前に、その地域の国立公園をBMWのバイクで駆ける事であった。(君は人生で多くのことができる、と彼はRushの曲の中で最もパワフルな曲の一つである、’Marathon’の歌詞に書いた、’もしあまりに早く燃え尽きなければ’)これは彼のドラマーとしての特徴の一つである。不可能なほどの量のリズムを曲に込める。彼は時間の制限の限界に挑戦することで、生計を立てたのである。

 

「彼はとても深く豊かに生きた。」と近しい友人の一人である、Jethro TullのドラマーDoane Perryは語る。「それは彼一人でカナダの湖畔にある彼の住居で本を読むことであったり、ステージの上で何万人もの観客と繋がることであったり。」

 

彼の人生を通じたプライバシー保護の必要性はより強くなった。彼の病気はごく限られた友人内に留められ、口外されることはなかった。ことゲディとアレックスについては、インタビューを受けたり、友人や同僚からの電話で噂の真偽を確かめられるために、その秘密保持の重荷は大きかった。「ニールは、僕らにこの件について他者に話さないよう頼んだんだ。」とアレックスは語る。「彼はこの情報をコントロールしたかった。彼は、ファンが自宅の横やドライブウェイに座り込んで、「Closer to the Heart」なんかを歌うことは絶対にして欲しくなかった。それが彼が一番恐れたことだった。彼は全く注目を集めたくはなかった。そして、人々に嘘をついたり、話題を避けたりすることはとても難しかった。本当に難しいことだったよ。」

 

ニールは、常に手を振ったり、心からの「気にしないで」といった声かけを伴う、心地の悪い事柄に関する不必要なディスカッションを避けてきたという内容が、友人たちが彼の病気や治療内容について質問してきた時に答えられた。「彼は残りの時間をそんな話したくもない話で浪費されたくはなかった。」とゲディは語る。「彼は僕らと楽しく過ごしたかった。そして、最後の最後まで、本物の事について語りたがった。」

 

ニールは、決して文句を言わなかった。ゲディが冗談で言う。「たばこがなくならない限り」「一度、僕がお酒を持っていかないことがあって」本格的なワイン収集家であるゲディは付け加える。「僕は彼の家に行く時は’バケツいっぱいのワイン’を持っていく事で有名だった。そしてある日、アルコールを持っていかないことがあった。彼はとてもショックを受けてた。それでもちろん、次の日にアレックスと僕はワインストアに行って、バケツいっぱいのワインを買って持って行った。それでまた、全てがうまく行ったよ。」

 

またニールは、長年嫌っていた過去のラッシュの作品を聞き直すことに多くの時間を割く事について、それを乗り越えた。「彼の学びへの強い欲求について語る時」と彼の親しい友人であるVertical HorizonのフロントマンであるMatt Scannellは言う。「その精神につながっているものは、’何が新しい?何が次に来る?’というものだ。昔、彼に色々な曲をミックスしたCDを送った時に、古い曲だと彼は興味を示さなかった。しかし、昔はある意味忌み嫌っていたけど、彼が過去を振り返って楽しめるようになったのは、素晴らしいことだと思った。」

 

「僕ら全員、昔の曲を聞き返すことはそんなにしないと思う。」とアレックスは語る。「全て完成され、演奏された。しかし、僕が推測するに、彼は音楽的に達成された部分について再考察してたんじゃないかな?そしてそれらがとてもよく出来てたことに、少し驚いていたんだと思う。そういうことはあると思う、ある意味忘れているから。彼が笑顔で、とても心地よく感じている様子を見るのは、とても興味深かったよ。そして彼がまだ文章を書く事ができた時、過去の作品についてのレビューと、どうしてそのように感じたかということについて書いてきたよ。」

 

ゲディは驚かなかった。「ニールの人となりを、そして彼に残された時間を知る限り、彼の人生をかけた作品をレビューするのは自然なことだったと思う。そして、彼はその人生の多くを費やしたことを、とても誇りに思っただろう。彼は、そのことをアレックスと僕に共有したかったんだ。彼に会いにいくといつも、彼はそのことを語りたがった。彼は、誇りに思っていることを僕らにも知ってもらいたかったんだ。」

 

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25ページ以降

 

ニールが病気を患ってからの年月は、不確かさに満ちたものだった。初期の頃、彼は再び癌が再発する前まで、1年間ほど寛解状態だった。「彼にgoodbyeを言う時はいつも、これが最後かもしれないと思ったよ。」ゲディは語る。「正直なところ、どうなるか分からないのだから。彼の調子がとても良い時だって。どうなるかわからない時期が3年半あったんだ。時間は常に過ぎていた。そのため、goodbyeを言う時は、いつも大きくハグをした。」

 

ある時、アレックスが一人でLAに数日滞在し、ニールに会った時のこと。「僕が帰る時、僕は彼に大きなハグとキスをしたんだ。そうしたら彼は僕を見てこう言ったんだ’これが全てを語るね。’ああ、なんてこった。それが僕にとってgoodbyeを言った時だった。僕はその後も数回彼に会ったけど、あの瞬間に彼の気持ちが見えて感じることができたよ。」

最後にゲディとアレックスがニールに会ったのは、キャリーも交えた、酒宴を伴った素晴らしいディナーであった。「僕らは腹を抱えて笑ったよ。」とアレックスは言う。「僕らはジョークを言ったり、昔のいろいろなコンサートやツアーのこと、クルーメンバーのことや、楽屋やツアーバスの中でいつもしていたことなどについて思い出話をした。とても自然で正しく、完結したように感じた。」

 

ニールは、病状が進行するにつれ、ある程度の身体的な不自由さを呈したが、しかし「最期の直前まで、しっかりしていた。」とペリーは語る。「彼はしっかりしていて、物事を掌握していた。(のちの、車椅子に座って喋ることができなかった、という報道は全くの間違いであると友人は語った)彼は毎日の日課をこなした、週日は’人類の洞窟’に出かけ、そこで友人に会い、最後の自身の誕生日パーティーを2019年の秋に主催したほどだった。

 

ニールが車の運転ができなくなると、彼の友人であるMichiael MosbachとJuan Lopezがニールを送り迎えした。「私は、彼の最期の時まで、彼がやりたかったことをさせてあげられたことを、とても嬉しく、誇りに思っている。でもそれはホワンとマイケルがいなければできなかったことです。」とキャリーは語った。

 

ニールは、Rushの最後のコンサート以降、決してドラムを演奏することはなかった。しかし、彼の自宅にはドラムキットがあった。それはオリビアのもので、彼女はレッスンを受け、真剣にドラムを学んでいた。ニールの両親は、居間にドラムセットを置くことを許していた、そしてニールはオリビアに対しても同じことを許していた。父の栄光のに怯むことなく、オリビアはドラムを学ぶことを躊躇しなかった。「ニールはすぐに言ったの、’彼女は持っている(才能がある)’と。」とキャリーは語る。「彼女はニールの才能を受け継いでいた。そのことを、ニールはもちろん喜んだ。彼は、彼女が怖気付かないよう、座ってじっと彼女のレッスンを見ることはしなかった。彼女の視界には入らないように、でも聞いていた。」

 

ニールの逝去後、世界的な悲劇が続いたが、これは彼の友人や家族にとっても暗く超現実的な年であった。凍りついた世界においては、悲しみを処理するのは難しかった。「そんな昔に起きたことには感じられない。」とゲディは語る。Rush界隈でもさらにドラマがあった。アレックスが2020年3月に酷い病気になり、数日入院し酸素吸入を受けた。検査を受け、コロナには感染していなかったが、インフルエンザと診断された。しかしながら、病気の間、彼は味覚や嗅覚を失った。現在は完全に回復している。

 

プライベートのトロントでのニールのメモリアル(葬儀)は延期されたが、バンドや友人を招いた小規模の夕食会とキャリー主催による正式なメモリアルが、ニールが亡くなって数週間後にロサンジェルスでとり行われた。「キャリーは太平洋を望むとても美しい場所を選んでね。」とペリーは語る。「美しい午後だった。参加者全員にとって癒しの時間になった。キャリーはニールの少年時代からの素晴らしいスライドショーを用意した。」

ニールの幾人かの友人たちーScannnell, ペリー, コープランド, 本の共著者であるKevin Anderson ー らは、参列者に対してスピーチを行った。参列者には、バンド仲間と有名ドラマー達:フーファイターズのTaylor Hawkins, レッドホットチリペッパーズのChad Smith, ToolのDanny Careyらがいた。スチュワート・コープランドはスピーチで、ニールのおかげで参列したドラマー全員がファンたちから「あなたは、私が2番目に好きなドラマーです!」と言われる屈辱について述べた。

最後に、11才のオリビアが立ち上がり、彼女の父について語った。「彼女は素晴らしかった。」とペリーは語る。「彼女は本当にニールの娘だ、とても賢い少女だ。」

オリビアとキャリーはもちろん、コロナ禍の隔離も相まって、いまだニールを失った事に苦しんでいる。何ヶ月にもわたり、カナダとの国境が封鎖されたため、彼女達はニールの肉親達にも会えないでいる。「ニールが亡くなってから、私たちの生活はひっくり返ってしまった。」と、クリスマスを娘と2人で過ごしたキャリーは語る。「そして(ニールが亡くなってから)8週間後から、私たちは2人で自宅で過ごした。とても大変だった。私たちは毎日彼のことを思い、語り、そしていないことを悲しんだ。」そんな中でも、オリビアはドラムレッスンを続けた。

 

ニールの死後、ゲディとアレックスは楽器を演奏する意欲がほとんどなくなってしまった。「演奏することは大好きで、止めることなんて考えたこともなかった。」とアレックスは、ゲディとの感情的な共同ビデオ通話で語った。アレックスは彼のスタジオにいて、背景には数々の輝いたギターがかけられていた。「そして、昔は思ったもんだ、’いつか将来、くそを漏らしたパンツに座る日がきても、俺はまだギターを弾きたいと思ってるだろう、って。’ でもそんな気持ちは、今はなくなってしまった。彼が死んでからは、重要なことには思えなくなった。でも、そのうちまた弾きたくなる日がくると思う。」

「今まで一番長い間、」ゲディは言う、「全く演奏したいと思わないんだ、、、まだ僕の中にも、アレックスの中にも音楽はあると思う、でも、急いでプレイする必要はないんだ。」

彼らの友人を弔うと同時に、ゲディとアレックスはまた、Rushも終わったとの考えを受け入れつつある。「終わったんだよ、ねえ?終わったんだ。」ゲディは言う。「僕は、僕らが成し遂げたことをとても誇りに思っている。僕は音楽で何を再びするのか、分からない。それはアレックスも同じだと思う。一緒にするのか、別々にするのか、また他の形態なのか。でもRushの音楽はいつも僕らの一部分だ。そして、ふさわしい機会があれば、Rushの曲を演奏することに躊躇はない。しかし同時に、ニールを含めた我々3人が共に作った作品に対して、敬意が払われるべきだ。」

 

Rushの最終公演の後、バイクですぐさま離れる代わりに、ニールは会場に留まった。彼は、一度だけ、バックステージで楽しい時間を過ごした。「彼は活気にあふれていたよ。」ゲディは語る。ニール・パートは彼の仕事を終え、彼の基準を持ち続け、16歳の自分を裏切らなかった。彼は未だに、ピークの状態で演奏をしていた。

「彼は、上出来の仕事だったと感じているようだった。」と、その晩ニールと過ごしたScannellは語る。「誰がそれを否定できるって言うんだい?」

 

終わり

*農耕器具業界誌Farm Equipment誌に掲載された、ニールのお父様のグレンさんによる手記。ニールがRushに加入を決めた時の様子や家族の強いつながりが分かるお話でした。部品マネージャー時代のニール若い!かっこいい〜

 

元記事はコチラ

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グレンパート氏、Farm Equipment誌に、部品マネージャーからロックスターになった息子ニールについて語る。

by Mike Lessiter 2019年10月15日

 

Dalziel Equipment社、社長、グレンパート氏 

1973年の会社のニュースレターより

 

ニールパートの父親のグレンパート氏が、セントキャサリンズの部品マネージャー時代の息子について語る。

 

部品マネージャーとしての息子ニールの思い出

 

息子は職場に馴染んでいました:彼はまだ学生だったころ、数字に強く人当たりも良かったので何年か夏休みに店で働いてくれました。しかしニールにはたった一つだけ燃えるような情熱がありました ー”ドラマーになること!”。かれは地元でいくつか演奏をしてそこそこ成功はしていましたが、他のバンドメンバーが彼と同じ情熱を分かち合わないことに嫌気がさしていました。

 

ニールが演奏したい音楽は全てイギリスから来ていました。彼が18歳の時、私たちは話し合い、夏の間彼が私の元で働くことになりました。そして私は彼の稼いだ額を倍にする、と言ったんです。”

 

秋に、私たちは彼のすべての持ち物ーかなり基本的なものーに加えて、彼の貴重なドラムキットのために、(輸送用の)合板の木枠を作りました。(しかしロンドンでの)成果はとても少なかった。 彼は最終的に、ロンドンのカーナビー通りで土産物店を経営するカナダ人のために働きました。 ニールは古い店をきれいにして、そこをペイントして、商品を棚に置く準備をしていました。 オーナーが店に飛び込んできて言ったそうです、「私は数日留守にするつもりだ。商品が到着するので、箱を開けて棚に並べておいてくれるかい?」

 

ニールは喜んでその仕事をした。商品が到着すると、彼は私の販売店で何回もしたように、商品を棚に並べた。オーナーが戻ってくると、彼はたいそう喜んで言った。「ここに残って、僕のために店の運営をしてくれないかい?」彼の販売店での経験が役立ったのだった!

 

1973年の秋に、我々の販売店は、他のカナダのディーラー達とそしてニールの母親のベティと共に、セールスキャンペーンのイギリス旅行を勝ち取り、ロンドンで数日ニールと過ごす機会を得た。ベティは、ニールがとても痩せて顔色が青白くなっていることを心配した。ーイギリスの気候が関係していたこともあるがー しかし彼は明らかにホームシックにかかっており、彼の友人達に会えないことを寂しく思っていた。

 

私はニールと話した。「ニール、お前はこの店を管理していて、そして私の会社にはお前を雇える部品部門がある!」これは彼にとっても好都合で、彼は新年(1974年)に手紙を送ってきて言った「お父さん、家に帰るよ!」誰が一番喜んだか分からないが ー彼の父親か母親かー めでたいことだった!

 

彼が戻ってきた時、我々は店の部品の在庫をコンピューター化し、いくつかの新たなコントロールを採用し、彼はすんなり役職に落ち着いた。彼の基本的な知識と他の従業員との就業経験がいくつかの確固たる基礎となり、今後彼が経験する新たな課題を解決するのに役立つだろうと思った!」

 

               ニールパート 部品マネージャー

 

白いコルベットが販売店にやってきた日

 

ニールは小さな地元の週末だけに演奏するバンドに加入した。なぜだか、彼は評判になっていた。

”白いコルベット”が販売店にやってきたことは、いくつかのドキュメンタリーに取り上げられてきた。ランチが終わり、やってきた2人が帰った後、私はニールがひどく悩んでいるのが分かった。彼は全く彼らしくなかった。

 

販売店のドアの鍵を閉めると、ニールが私のオフィスに入ってきて話し始めた。2人の訪問者はこれから売り出されるRushというトロントのバンドのマネージャー達だった。彼らは契約を交わし、最初のツアーが計画されているが、しかしドラマーがその全ての計画に爆弾を落とした ー健康上の理由からツアーに出てはいけないと言われたのだった。マネージャー達は、ニールに至急オーディションを受けてもらいたく、そしてうまくいったら、他の2人のメンバーに加わり練習を開始してほしい ー すぐに!とのことだった。

 

ニールは罪悪感に苛まれていた、なぜならば我々は繁忙期に差し掛かっていて、ニールはこのことで私ががっかりすると思ったからだった。私は最後に言った。「これはお前の人生のチャンスだ。家に帰ったら母さんにも話さなければならないが、しかし、私はお前はこれをすべきだと思う。お前の夢が叶うんだ、もしうまくいかなかったら、部品部門でまた雇えるさ!」明らかに母親も私の考えに賛成し、その後のことは皆さんご承知のとおりです。

 

私は、Dalsiel Equipmentの業務を数年続けたのちに、廃業しました。2度と販売店を再開することはなかった。数年後、娘と娘婿がセントキャサリンズへドライブに連れて行ってくれました。かつて販売店があった場所は、小さなショッピングセンターになっていました。

 

(その後業界団体に関する内容のため省略)

 

<終>

*Ultimate Classic Rockサイトに2020年1月13日に掲載された記事。ニールの人生をコンパクトに要約してあります。サイト最後には新旧の彼のステージでのお写真が沢山掲載されています。

 

記事はコチラ

 

ニールパート:ファミリーマン

Martin Kielty 

Ultimate Classic Rock

2020年1月13日

 

その名高い人生で有名なRushのドラマー故ニールパートは、彼の家族の価値観を保ち続けた。それにはいい理由があった ー よく支えてくれ気にかけてくれる両親の元で育ち、彼は妻と娘を10ヶ月の間に亡くしたがその状況に立ちむかい、新しい妻と娘に恵まれ再び居場所を見つけた。

 

しばしばプログレッシブロック界の「Professor(教授)」と呼ばれるパート氏は、彼の芸術の生徒であり続けることにメリットを見つけ、彼の学ぶことに喜びを見出す性格は、彼の母のベティと父のグレンが彼を励ます環境で育てたことにより、早くから身についたように見える。

 

彼らの息子(4人兄弟の長男)がドラムを演奏することに燃えるような情熱を持っていることに気づいた両親は、1965年9月12日、彼の13歳の誕生日にドラムレッスンを購入した。「ドラムは無く、ただの1対のドラムスティックと練習用のパッドがあるだけだった。」とパートは2015年に記している。「毎週土曜日の朝にセントキャサリンのダウンタウン行きのバスに乗って、セントポール通りにあるPeninsula Conservatory of MusicのDon Georgeのレッスンを受けにいった。学校に行ってもドラムは叩けなかった。4ピースセットを模したメタルで囲われたパッドがあっただけ。」彼はルーディメンツ(スネアドラムの基本奏法)を「ドスンとカチッの音の組み合わせ」で学んだ。そしてGeorgeは後にニールに対して、彼が本当になりたいのであればドラマーになれるだろうと言った。「とても励みになったよ。」とニールは言った。

 

彼の両親にドラミングを続けることを証明した後、両親は150カナダ ドルのベーシックなドラムキットをニールの14歳の誕生日に買い与えた。「毎日学校から帰ってきた午後、僕の横にあったスチーム暖房の上に載せたピンクのAMラジオに合わせてドラムを叩いた。」彼は言った。「Top40番組から流れてくるあらゆる曲に合わせてドラムを叩いた。次に父と母はハイハットを、次にフロアタムを買ってくれて、僕は新聞配達や芝刈りで貯めたお金でAjaxのシンバルを2枚買った。」

 

家族の輪はパートの人生の中で重要な役割をする ー ニールは父親の農耕機械販売店で働いた。グレンパートはこの状況を「完璧な組み合わせ」だったと思い出すが、しかし、「ニールはただ一つの情熱しか持っていなかったードラマーになること!」だったことは明らかだった。「彼は地元で何回か演奏をして、地元での成功はしていたが、しかし他のバンドメンバーはニールと同じ情熱を持っていないことに嫌気がさしていた。」ベティとグレンは「ニールが演奏したい音楽は全てイギリスからのものである」ことに気づき、実現に動いた。「私たちは話し合いをした。ひと夏家の仕事をする。そして彼が稼いだ金額と同額を援助すると言ったんだ。」グレンは言った。

 

パートは4年間をロンドンで過ごしたが、望むような成功はできなかった。両親は1973年にロンドンを訪れ、フルタイムの家業の仕事をオファーした。彼は翌年カナダに帰国した。「彼は役職にすんなり収まった。」とグレンは思い起こす。「ニールは週末だけに演奏する、小さな地元のバンドに加入した…なぜだか彼は評判になった。」

 

パートの家族への忠誠は、1974年後期に、現在のバンドHushからゲディーリーとアレックスライフソンのいるRushへの加入を要請された時、ほとんど逸脱させられそうになった。白いコルベットが販売店にやってきて、バンドのマネージャーがニールをトリオのメンバーとして迎えたいと言った時、グレンは息子が「心底苦しんでいる」様子に気づいた。

 

「ニールは罪悪感に駆られていた、なぜならば我々のビジネスは繁忙期を迎えるところで、ニールは私をがっかりさせているように感じたからだった。」と彼の父は述べた。「私は最終的に言った。”ニール、これはお前の人生のチャンスだ。家に着いたら母さんとも話し合わなければならないが、僕はお前はこれをやるべきだと思う。お前の夢が叶うんだ、そして万が一うまくいかなくても、部品部門でまたお前のことを雇えるさ!” 明らかに母親も賛成してくれて、その後のことはご承知の通りです!」

 

 

パートはRushに加入した頃、ジャクリーンテイラーさんと結婚し自身の家庭を持った。娘のセリーナさんが1978年に生まれた。家庭は、ドラマーが関連していたと常に信じている2つの悲劇により引き裂かれた。1997年8月、セリーナさんが交通事故で死去し、それによりジャクリーンさんは心身の衰弱に苦しむことになった。「すぐにジャッキーの世界が永久に、完全に砕け散ってしまったのは明らかだった。彼女は粉々になり、元に戻ることはなかった。」と彼は2002年の著書Ghorst Rider:Travels on the Healing Roadで記している。「そして、私たちのどちらも、いや私は彼女のためにできることは全てしてあげようとした。」「突然私の人生が、誰もが知りたくはないほどの悲しみと死別について学ぶことを強いている時、私は子供を失うとほとんどのカップルは一緒にいることはない、という悲しい事実を知った。なんて理不尽なんだ!全く間違っている、とても不公平だ、とても残酷だ、すでに苦しんでいる者にさらに苦痛や不正義を上乗せしてくるなんて。僕は幸せな無知さで、全く反対のことを思うべきだった ー 喪失を分かち合うものはより互いに結びつくと。しかし、違った。妻は私に慰めさせようとはしなかった。実際、私と一緒になにかをしたくはなかった。それはまるで、彼女は私を必要としていることが分かっているのに、彼女の苦しめられた心には、私や他の誰かのための場所はなかった。セリーナなしでは、彼女はもはや欲しいものはなかった ー 彼女はただ死にたかった。」

 

10ヶ月後、それが現実となった。「ジャッキーは末期癌と診断され(医者は癌と言ったが、もちろんそれは壊れた心だった)、第二の悪夢が始まった。」パートは書いた。「悲惨、絶望そして怒り(しばしば手近な物体として、私に向けられていた)の数ヶ月が過ぎて、彼女は診断の後に酷い言葉を口にすることはなく、滅多に泣くこともなかった。彼女にとって、病は恐ろしい種類の正義だった。私にとっては、単純に恐ろしいものだった。そして耐えられないものだった。」彼女は2人がバルバドスでの休暇中に息を引き取った ー そこはセリーナと最後に休日を過ごした場所だった ー 何回かの発作により、比較的安らかな彼女の最期だった。

 

これにより、ファミリーマンであるパートには家族がいなくなってしまった。セリーナの葬儀の場で、彼はリーとライフソンに「僕のことは引退したものと思ってくれ。」と告げ、ジャクリーンの死後は人生の意味を失ってしまった。こう思ったのを覚えている。「このような状況で誰が生き残れるというんだ?もし生き残れるとしたらどうやって向こう側から出てこられるんだ?」と彼は書いた。「私は分からなかったが、しかし嘆き、悲しみ、悲惨そして完璧な絶望といった暗黒時期を通じて、自分の中の何かが、進み続けなければ、と決心させた。何かが見つかるだろう」

 

彼はツーリング用のバイクに乗り、山の中の家 ー彼の聖域ー から出発し、自身の意義を再度見出そうとして、最終的に55000マイル(88513Km)もの距離を旅した。彼が雲の絵でghost riderと書かれた絵葉書を見つけた時、ひとつのキーとなる瞬間がやってきた。私は立ち止まり、頭を後ろにガクンと倒して、思った。「うわ、そうだ、ー 僕がゴーストライダーだ。」

 

後の彼の旅行中に、ラッシュのフォトグラファーAndrew McNaughtonが、マッチメーキングのつもりで、パートを彼のアシスタントのキャリーナッテルに紹介した。何回も会った後に「有名な混雑した部屋の向こう側から彼女を見て恋に落ちる」まで、ドラマーは当初付き合うことには抵抗していた。「それが1999年後半のことで、翌年の9月にAndrewはサンタバーバラの私たちの結婚式の案内係となり、仲人として素敵なスピーチをしてくれた。」McNaughtonが亡くなった後、パートは「僕にキャリーを紹介してくれたことは、人生が変わる贈り物だった。」と述べた。

 

精神的に良い状態となり、パートはRushとの仕事に戻り、彼の能力に覚醒して新しいドラムアプローチを採用さえした。その結果、彼が後にアスリートと同様と語った、全く異なる技術を採用することとなり、2015年の引退の決断につながったものと思われる。

 

もう一つの理由は、彼の家族に対する価値観であった。その頃には、彼とキャリーの間にはオリビアという娘ができ、彼のRushのメンバーとしての責務と、彼が思うところの父親の役割とは相反するものであることを認識していた。「僕はこの仕事を40年間やってきていて、仕事との線引きは心得ている。僕が娘に会えないことには耐えられるけど、娘が僕がいなくて寂しく思うことには耐えられない。」と2015年に彼は語った。「彼女にとってはとても苦痛で、理解できないことなんだ。小さな子供がどうやって理解できるっていうんだ?そして罪悪感が湧いてくる ー 罪悪感を感じるんだもちろん。僕が苦痛を招いているんだと。」

 

その頃、彼の6歳の娘は、父親のことを”引退したドラマー”と表現するようになった。「真実だけど、聞くとおかしい。」彼は語った。「全てのアスリートのように、いつかはゲームから引退する、ということに気づいても、心は痛まない。」今となって分かったことだが、彼は、ゆくゆく2020年1月に67歳で命を落とすことになる脳腫瘍と診断された。恐らく、その診断ができるだけ多くの時間を家族と過ごすという決意を強めたであろう。

 

そしてパートにはさらなるファミリーがいる:リーとライフソンで、彼らはパートの死後発表した共同声明で彼のことを”魂の兄弟”と表現した。引退時にパートは思い起こして言った。「41年間も1つのバンドで、3人の若者が音楽と人生の中で共に成長し、音楽と人生が投げつける全ての中をやり過ごしてきた。その間ずっと、僕たちはやりたいことをやりたいようにやってきた。その能力を僕は最も誇りに思う、本当に ー 僕らは一 しばしば企業エンターテイメントの工場に見せつけるように、一つの例として立ち上がることができた。少なくとも、僕らは屈することなく、ーまたは自分たちの魂を売ることなくー音楽のキャリアを積むことは可能なのだと証明したんだ。」

 

最後のインタビューの一つで、パートは自己の価値観について語っている。「正直なところ、人々はツアーミュージシャンが犠牲にしていることを実感しない」と彼は2017年のClassic Rockでのインタビューで語っている。「子供達が成長している間に離れなければならない、そしてパートナーが僕らを必要とする時にそばにいてあげられないなんて、胸が痛む。家族や友人の生活は続き、僕はその中の一部ではない。人々は家族生活に十分な価値を持たない。人々は簡単に、日々のつまらない物事に捕われて、目の前に広がる奇跡を見逃してしまう。」

 

<終>

ボストンのラジオ局WGBHで放送された、Donna Halper女史のインタビュー。黎明期のラッシュとのストーリー、彼らの人柄、そしてニールの人となりが面白いです。しかし、インタビューする人にあなたはグルーピーだったの?って聞くなんて。セクハラだー!

 

元の記事はコチラ

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ラッシュを初めてラジオ番組で放送したボストンの女性と、ニールパート氏を偲ぶ

2020年2月7日

WGBH

 

RushとDonna Halper女史 1974年

写真左から:WMMSのDJ Matt the Cat氏、ニールパート、ゲディリー、アレックスライフソン、Donna Halper女史、WMMの番組ディレクター John Gorman氏、マーキュリーレコードの販促担当Don George氏

Donna Halper女史提供

 

1月7日のニールパート氏逝去のニュースは、音楽界の動きを止めた。パート氏は、カナダのロックバンド・ラッシュのドラマーであり、メインの作詞家であった。バンドはその規模が大きくても小さくても、誰かが最初にラジオで曲をかけてきた。ラッシュの場合、それはDonna Halper女史だった。彼女はDorchester生まれで、現在はLesley大学でコミュニケーションとメディア研究の准教授を務めている。Halper女史は、今回WGBH(ボストンのラジオ局)のHenry Santoroのニュース番組で、彼女とニールそしてバンドとの友情について語った。

 

Henry:1974年にあなたはクリーブランドのWMMS(ラジオ局)のDJをしていて、Rushの「Working Man」のプロモーション音源が送られてきた。初めて曲をターンテーブルに乗せた時、あの曲とどのように共鳴したか覚えてますか?

 

Donna:ええ、よく覚えています。まず、私の元にはアルバム1枚丸ごと送られてきました。自家製のレコードで、今までに見たこともない奇妙なアルバムカバーでした。ある種変わった色合いの赤色で、本当に手作り好きが作りました、といったような見栄えでした。まあ、その事自体は問題ではありません。私は常に自家製のアルバムを受け取っていましたので。しかし、この時、このアルバムはカナダのレコード会社の私の友達であるBob Roperから送られてきました。私のキャリアは、今は無いケンブリッジにあったラジオ局WCASで始まりました。そこで働いていた時に、私はカナダの音楽が好きだったので、カナダを含むいろいろな場所にいる多くのレコードの販促担当と友達になったんです。よくカナダにも通ってました。

 

とにかく、Bob Roperがそのアルバムを送ってきて、それを見て私は「ふむ、とてもプロフェッショナルの作品には見えないけど、中身はどうかしら?」アルバムにはメモが付けられていて、「我がレーベルA&M Canadaは、このバンドとはまだ契約していない。我々はこのバンドがゴールデンタイムに演奏するにはまだ早いと考えている。しかし、僕は彼らに何かを感じる。君と僕は音楽について多く語り合ってきた。君はどう思う?」

 

そこで私は、アルバムの一番長い曲に針を落としました。その曲が「Working Man」だったんです。すぐさまに私は、この曲はオーディエンスと共鳴すると思いました。当時のクリーブランドは工場街だった。「朝7時に起きて、9時に仕事に行く。生活の時間などない。そう、四六時中働いてるのさ」(このWorking Manの歌詞は)間違いなくオーディエンスと共鳴する。さて、私は当時、彼らと45年間来の友人になると思った?いいえ。レコードが届いた日を覚えている?いいえ。なぜなら当時は、それが重要な出来事になるだなんて思ってもいなかったから。

私が覚えているのは、当時放送中だったDJのDenny Sandersの元にそのレコードを持って行って、言ったの。「Denny、これ聞いてみて」そして彼はターンテーブルに乗せたの。すぐさま、リスナー達からの電話がかかってきたわ。今となっては納得だけど、何人かのリスナーは、リードボーカルの声が少しLed Zeppelinのボーカルと似ているという理由で ー私はそうは思わないけどー Led Zeppelinのニューアルバムだと思ったの。そんなの問題じゃなくて、事実リスナーはその曲を気に入った。そこからアルバムの他の曲、例えば「Finding My Way」なんかもかけるようになり、気付いたらクリーブランドのヒットアルバムになったんです。

 

そこで、私は彼らのマネジメントに連絡をしました。「Hey、私のことご存知無いでしょうが、私はクリーブランドのラジオ局WMMSの音楽ディレクターです。」すると彼らは「クリーブランド?!僕らはトロントに留まる訳にはいかない。僕らはここの出身なのに、誰も曲をかけてくれないんだ!」そして次から次へと事が進みました。私は、彼らの輸入盤のアルバムをRecord Revolutionというレコード店で販売する手助けをしました。すぐに売り切れになりました。そして当時ジョンラトジーを含むオリジナルメンバーのバンドがやってきて、のちにマーキュリーレコードと契約を結んだのです。私は契約に関しては全く関与してませんが、全米プロモーション部長のCliff Bernsteinと懇意だったので、契約締結には一枚噛んでるんです。彼らから電話がかかってきて聞かれたんです。「このレコードへの反響がすごいんだって?僕たちはこのバンドと契約すべきかい?」私は、「ええ、彼らには将来性があると確信するわ。」

 

H: そしてバンドはそのことを決して忘れなかった。

 

D: 彼らは決して忘れなかったわ。そして彼らは最初の2枚のアルバムを私に捧げてくれたんです。後年、私は彼らのドキュメンタリーにも出演しました。しかしなにより重要なことは、私はこのことにより45年もの友情を得ました。驚くべきことは、私は放送業界に40年近くいることです。このような成功物語は初めてのことではありません。過去長きにわたり多くのバンドを助けてきました。それは私の仕事です。私は音楽ディレクターでした。でも、あまり多くの感謝の言葉をもらいません。フェアな立場で言うならば、そんなことを期待はしませんでした。感謝される類の仕事ではないんです、ご存知の通り、あなたは生活のために人々にインタビューをする。

 

H:そして僕は音楽業界に長くいた。

 

D: でしたら、私の言うことが分かるでしょう。母は私を礼儀正しく育てました。そう、あなたは私にインタビューをします、個人的にではなく、仕事でインタビューをします。私はかなりの確率で、あなたにお礼の手紙を送るでしょう、なぜなら私の母が私をそのように育てたからです。しかし、普通ロックバンドのマナーは、彼らの母親のせいなのか他の理由なのか、私が期待しているものではありません。全くいないわけではないけど、しかしほとんどのバンドからはその後の音沙汰はありません。ラッシュの場合は、彼らのマネジメント、彼ら自身、彼の家族(からも連絡をもらう)。これは面白い本当の話なんですが、彼らがついにRock and Roll Hall of Fame入りした受賞式の時、

 

H: 2013年のことですね。

 

D: そう。私達はバックステージにいたんですけど、ゲディのお母様が私のところに来て、とても素晴らしい方で、驚くべき方だった。多分今は90代前半になられていると思います。彼女がリードシンガーのゲディを呼んでこう言ったんです。「ゲディ、あなたはDonnaにお礼を言っているの?」そうしたらゲディは私を見て「なんてこった、母さん、過去45年毎日感謝しているよ。」

それが彼らなんです。彼らは家庭的な人たちなんです。そんなこと、昔は全く知りませんでしたが。

 

H; そして当時はニールもバンドにはいなかった。

 

D:彼はオリジナルメンバーではない… 最初に手にしたアルバムのドラマーはジョンラトジーと言いました。彼のご冥福を祈ります。彼は糖尿病だったんです。彼は自身の健康に気を使わない人だった。もし彼が現代を生きていたら、彼の病気のケアはもっと楽だったでしょう。携帯できる治療器具がありますから。指腹での採血もできるし。当時は、重い糖尿病を患っていたら、病院に行く必要があった。

 

H. そしてツアーに出るような生活をするのはほとんど不可能だった。

 

D.その通り。彼らは次のレベルに進むためには、違うドラマーが必要だと言うことに気付いていた。とても辛い決断だった。しかし彼らは同時に、ただの作詞家以上の人材が欲しかった。彼らは3コードバンドだったが、彼らはそこにとどまりたくはなかった。彼はもっと違うバンドになりたかった。それがニールの参加に繋がった。

 

H. 初期のラッシュは良いバンドだったと人々は言う。しかし、当時はニールは加入しておらず、今話した通りだが、そして彼がバンドに加入すると”良い”から”偉大”なバンドへと一晩で進化した。

 

D. 多くの人が1stアルバムを評価するけど、私はそうではない。あのレコードには可能性は感じた。「Working Man」は良い曲だと今でも思う。ロックの曲として、とてもよく熟成したと思う。”Finding My Way”のオープニングのコードを聞くと今でもゾクゾクする。しかし、深淵な重要な哲学的なものがあったかというと、答えはノー。当時の彼らは3コードロックバンドだった。しかし、そう、ニールが彼らを次のレベルに押し上げたの。

 

H. それは彼らが望んでいたこと。

 

D. しかし、将来性のあった1stアルバムがなければ、彼らはそのレベルには行けなかった。私は1st アルバムをそのように捕らえている。しかし、そう、ニールがその詩や文学、歴史そして哲学の知識を持ち込んだ。彼は読書家で、冗談半分で「Professor(教授)」というあだ名がついた。

 

H. 彼がバンドに参加した時に、彼はあなたへの面会を希望した。

 

D. ええ、確かに。なぜなら、私はすでにバンドとは関係があったので、しかし一部の人が思うような変な意味の関係ではなく。私は当時、いわばバンドにとっての姉御的な存在だった。

 

H. グルーピーではないんですね?

 

D.なんてこと、違う違う違う違う。私はとても昔ながらの価値観の人間です。私はタバコも酒もドラッグもやらない。教会の日曜学校の先生をしていたこともあるし、元牧師です。いいですか?結果として、あなたがパーティーアニマルを探していたなら、それは私ではありません。

 

H. それはDonna Halperではないと。

 

D. 違います違います、違います。しかし一方では、私は他の人同様、楽しく過ごすのが好きです。しかし、私は、いわゆる、アイスクリームの在かを教えて。クッキーの在りかを教えて。ダンスできる曲をかけて。そして楽しい会話が大好き。ということで、私はすでにマネジメントやゲディ、アレックスと良好な関係だったので、ニールは私がどういう人間か知りたがったの。それで、私はアパートの部屋に招待したの。何人かの人は、「え、ニールをあなたのアパートに呼んだの?」と言ったけど、私たちはラジオ局から離れた場所で、ただ会話をしたかっただけだった。私達の会話は弾んだ。そしてそれは彼の全ての人生においての真実だった。ニールは決して、9万人もの友達がいるタイプの人間ではなかった。彼の曲の歌詞に「私は他人に対し、長く待ちわびた友人のようには振る舞えない」とあるけど、まさにそれがニールという人なの。

 

H. そして彼はミートアンドグリートにも現れない。

 

D. ええ、決して。正直に言うわね。私がニールと一緒に撮った写真は、この45年間で1枚だけなの。それは彼が私のことを嫌っているわけではない。嫌われてはいない。私たちは、付かず離れず連絡を取り合ってきた。しかし、彼は決してミートアンドグリートには現れなかった。それは彼にとって心地良いものではなかった。彼はただ現れなかった。彼が現れるなんて思いもしなかった。しかし、彼が私のアパートに来た時には、私たちは文学について語り合った。詩について語り合った。哲学について語り合った。そして彼は私からシェークスピアの戯曲の本を借りた。私たちはどちらも「リア王」が好きだった。そして何年後かにも同じような機会があった。しかし、私はそんなことはあまり気に留めなかった。人は常に、私から本を借りる。人に本を貸したら、返ってくることを望むでしょう。でも、もし返ってこなくても、「すごくショックだ。」とは思わないでしょう。なので私は他のことは考えないのです。しかし、ええ、そのような会話は音楽ディレクターとロックスターの間で行われるとは思えないでしょう。そして、それはとても典型的なニールでした。

 

H. そして彼の歌詞からは、詩の引用や古典文学の影響が感じられる。聞いて、感じる。

 

D. まさしく。彼はとても博学な人でした。ある種の叙情主義を嘲笑うことがかっこいいとされる風潮があることは理解しています。「なんてこったい。彼らは大袈裟で多くの誇張ばかりだ。」ちょっと待ってよ。これはロックンロールなのよ。大学の授業ではないの。ただ、彼は大変な読書家で、そのことは彼の音楽からも窺えた。あなたも私もこの業界が長いから、全てのロックンロールがただの「俺のベイベーを失った、ボップボップシャボップドウーアー」という間違った通念があるけど、深い哲学的な思想をロックのビートに乗せてる曲は沢山存在している。

 

H. ラッシュのアルバムがあり、そしてライブがあった。ラッシュのコンサートでの演奏といったら抜群で、信じられない。

 

D. 演奏技術がすごいだけではなくて、彼らは楽器や音楽そしてファンへ敬意を払う。昔は、多くの人がニールがミートアンドグリートに現れないことに戸惑った。私はいつもこう言った。「彼はファンのために心を込めて3時間ものステージをこなしたのよ。」

 

H. ステージ一杯に広がる一番大きなドラムセットに囲まれて!

 

D. 彼はどうしてファンに会おうとしなかったのか? これが彼のコミュニケーション。誰もが居心地のいい場所を見つけなければならない。何人かはパーティーに出る方が心地よいでしょう。またある人たちは、少人数のグループの方がより気が楽。ニールは少人数と友達で、一生の付き合いをしていた。そして彼は両親に対して良くしていた。そう彼は良くしていた。そうだった。そしてそれはバンドのどのメンバーもそうだった。彼らはそう言う意味で普通ではなかった。両親達と連絡をとり続けていた。両親に対してよい態度をとった。ロックンロールの世界ではそんなことはない。そんなところも彼らの魅力の一つです。

 

H.そしてメンバー3人とも社会貢献を行なっていた。

 

D.ええ、とても多く。ところで、彼らは友人同士だった。ドキュメンタリーの「Beyond the Lighted Stage」を見ると、ニールは亡くなるまで、バンドの初期から在籍していたにもかかわらず、バンドにとって新しいメンバーだった。でもメンバー全員は冗談を言い合うのが好きだった。ふざけあうのが好きだった。お互いが好きだった。

 

H. 5人それぞれにリムジンが用意されていた、イーグルスとは違うね。

 

D. または、彼らが(メジャーリーグのボストン)Red Soxについてかつて語っていたこと。<訳注:多分メンバー同士で意見が異なっていた様子>しかし、彼らがお互いを好きだったという事実は残る。もちろん、1年のうち360日もツアーに出ていれば、時々の小さな口論無しで過ごすことはできない。しかし大方のところ、彼らは友人同士だった。お互いが好きで、同じ信念を持っていた。社会貢献に関して言えば、触れてくれてありがとう、自分たちが社会貢献をしていることを世間に知らしめたいと思う人々は多くいる。自分の名前を建物に残したいから。あなたに言ったかしら、ニールが亡くなってから、私はファンに彼の社会貢献について話したところ、何人かは心から驚いた。ファンはニールがニールらしく倫理的で称賛すべき人物である点について驚いたわけではなくて、ニールが人知れず行った社会貢献の量に驚くのです。それは彼が望んだ形です。彼は「ニールパート記念ビル」のために社会貢献を行った訳ではない。彼はそんなものは欲しくないのです。

 

H. ニールは、ジョンマッケイン上院議員や、テッドケネディ上院議員と同じ種類の脳腫瘍を患った。彼はどのように診断に対応したのでしょうか?

 

D. あと、カナダ人ミュージシャンTragically Hip のGord Downieもニールと同じ種類の癌を患いました。両者の病への対応は異なっていました。そして、私はどちらの対応も良いと思います。人により病気への対処方法は違うものだから。

私は、私が癌になった時は積極的に公表しました。他の患者さん達のロールモデルになりたい、というよりは、私にはソーシャルメディアで多くのフォロワーがいたので、ただただ彼らを励ましたかっただけでした。例えば、私は担当医をとても信頼している、等。ニールはもっとプライベートな人だった。ニールは病状についてごく限られた人々にしか知らせていなかった。そのために情報は漏れなかった。ビルボード誌にも知られなかった。何年もニールのことを取材してきた記者達はショックを受けた。正直に言いますね。私は彼の病状がどれだけ重いかということについては知らなかった。今となっては、彼は病んでいたことが分かります。しかし、私が彼の病状を知っていた、と言ったらそれは嘘になります。真実は、それは(病気を公表することは)ニールらしいことではなかったということです。彼は多くの注目を集めたくはなかった。彼はプライベートな生活は、プライベートなままにしたかった。それ故に幾人かの人々は、ソーシャルメディア内で囁かれた彼の最期の日々についての憶測といった類の噂について、とても動揺したのです。Kobe Bryantの事故に関して、「おお、なんてこった、墜落現場でなにがあったんだ?」というのと同じことです。あなたには関係ないことです。身内だけに留めるべきです。人がお亡くなりになったことは悔やまれることです。私は、ニールのご家族にお悔やみを申し上げます。彼らは詳細について公表はしたくないのです。例え私が何か知っていたとしても、私は何も言いません。<終>

Rush: Wondering the Face of the Earth: TheOfficial Touring History

 

2019年10月29日に刊行された、Rushが行った全てのコンサートを記録したオフィシャルガイドブック。当然、1984年の日本公演についても書かれています。一部で有名な大阪の夜事件についても、事細かに書かれていて、こんなに酷かったのかと唖然としてしまいました。以下に抄訳を記します。

 

*1984年11月16日 瀬戸市文化ホール 愛知県瀬戸市

チケット代: 4500円、観客数: 1,871名

概要:観客は、ラッシュの通常の客よりも大人しかったが、バンドは暖かく迎えられ、コンサートの入りも良かった。輸送費を最小限に抑えるため、アレックスとゲディのギター/ベース以外はほとんどの機材を現地でレンタルした。アレックスはアンプが気に入らず、「次に来る時は自分の機材を持ってくる。」と述べた。瀬戸市に本社があるTAMAドラムは、ニールのために特別なレプリカのドラムキットを製作した。(前年のラジオシティミュージックホールでのショーと同様に、ドラムライザーは回転しないため、ニールは電子ドラムを演奏する時は、観客に背を向けなければならなかった)

 

*1984年11月18日 福岡サンパレス大ホール 福岡県福岡市

チケット代: 4500円、観客数: 2,316名 ソールドアウト

概要:日本のショーでは、パイロやレーザー光線が使えず、コンサート開始時刻も6:30 PMと早かった。コンサート開始前30分には、注意事項が英語と日本語の両方でアナウンスされた。(訳注:注意事項の内容については省略)

 

*1984年11月19日 大阪

この日はオフで、プロモーターはラッシュのメンバーとクルーを高級日本レストランのご馳走でもてなした。夜半にホテルのバーに戻り、ちょっとしたパーティーとなった。バーが閉店した11月20日未明、ニールと2人のクルーがロビーを通りかかった時、大阪の最もエレガントなホテルの中で一人の男が一人の女性を殴っているのを目撃した。ホテルのフロント係がその光景を無視している様子に、ニールは驚いた。しばらくして、ニールは「やめろ!(Knock the f**k off!)」と叫んだ。するとその男は、よりいっそう強く女性を蹴り始めた。アレックス、ゲディ、リアム(ラッシュのツアーマネージャー)、そして日本側プロモーターのYoshiも通りかかって、その光景を目の当たりにした。止めさせるようにフロントにお願いしても反応はなく、男は逃げる女性を捕まえてより一層激しく殴った。しばらくして女性は全く動かなくなった。Yoshiはこの断絶したカルチャーギャップを埋めるべく、「大丈夫、このようなことはよくあることで、君たちには関係がないことだ…エレベーターに乗ろう。」とラッシュのメンバーと関係者を促したが、メンバーはその場に留まった。

そうするうちに、その男は怒りの矛先をラッシュに向け始めた。ロビーの反対側に走り寄り、整列用の金属製のスタンドを頭の上に振りかざすと、メンバーに向かってきた。アレックス、ゲディ、そしてニールは、大きな凶器を振りかざす大男と対峙することになり、男は全ての側近に攻撃する構えを見せながら、英語で「My wife! My wife! 」と繰り返した。このような典型的な「グレイスアンダープレッシャー(抑圧下の優雅さ)」の状況で、アレックスは微笑みを浮かべてその男の元に歩みより言った「あなたに僕の故郷のカナダに来てもらえたらいいのに。」すると男は少しリラックスしてスタンドを下ろした。アレックスは続けて、「そうしたらお前のことを打ち負かしてやれるのに(So that I could kick the living sh*t out of you.)」と言った。男が再びスタンドを手にした時、ようやくセキュリティの職員が到着し、メンバー全員をエレベーターに乗せた。どさくさに紛れて、ニールは男に唾を吐いた。怒りに満ちたエレベーターの中で、リアムは「信じられない!」と繰り返し叫び、突然エレベーターの壁を思い切りパンチして、手を骨折してしまった。「多くの西洋のバンドは似たような光景を目にしたことがあり、見なかったふりをする。」Yoshiは述懐した「このようなリアクションをしたバンドは、彼らが初めてだった。」

 

*1984年11月20日 大阪府立体育館 大阪府大阪市

チケット代: 3000/4000円、観客数: 4,652名 (固定席 3,131席) ソールドアウト

概要:ラッシュは力強いパフォーマンスを行った。ファンは曲の間中手拍子をしていたが、曲と曲の間は静まり返っていて、針が落ちる音さえ聞こえるほどだった。アメリカ人ファンが一度曲間に「Caress of Steel!」と叫んだ。ニールのドラムソロの有名なカウベルの部分でも、観客は手拍子をした。アンコールの「Red Lenses」でも、ドラムソロに代わって挿入されたゲディの激しいベースパートにおいても、ファンは手拍子を続けた。ホテルに帰る車中で、ニールはバンドの今後の曲作りセッションについて気にかけていた。事実、ニールは早々にアルバム作成に十分な量の作詞をしなければならず、彼の頭の中はそのことでほぼ一杯だった。

- ゲディのステージ上のMC:”Domo arigato! It’s nice to be here in Osaka”

- 日本人ファン:「最初から最後まで素晴らしいショーだった!彼らのアルバムは全て持っている。日本で発売されていないアルバムはアメリカから購入した。」

- アメリカ人ファン:「ラッシュを見るために日本に来た。アメリカ海兵隊に所属していて、隊員のリクルートのために日本を訪れている。長年のラッシュの大ファンなんだ。日本の観客はとてもおとなしい。もっとのせようとがんばったけど、あまりうまくいかなかった。」

- 日本人ファン:「今夜のショーは素晴らしかった。彼らの演奏技術は素晴らしい。今夜のハイライトはYYZ、Tom Sawyer、Body Electricとニールのドラムソロ。ニール・パートは素晴らしい!今まで見た中で一番のドラマーだ。」

 

*1984年11月21日 日本武道館 東京都

チケット代: 3000/3900円、観客数: 11,431名 ソールドアウト

概要:バンドは有名な新幹線で東京に向かった。途中、富士山や幾つかの野球場を通りすぎた。東京駅でファンがバンドを待っていたが、とても礼儀正しく、写真撮影やサインは禁止と言われると微笑み、その場を離れた。アレックスとゲディは何人かにサインをしたが、彼らの一番の目的はホテルに辿りつくことだった。観客の30%はアメリカ人で会場は盛り上がり、他の3会場でのショーより、はるかに歓声も大きかった。

ショーの後、CBS/SONYの社長がバンドをディナーに招待した。その後TokyoBarに移動し、一晩中パーティーとなった。バンドは翌日朝早くのフライトに乗らなければならなかったため、ゲディ、アレックス、ニールは完徹するための協定を結んだ。「寝落ちする奴がいたら、目が覚めるまでピンで刺すんだ。」とアレックスは笑いながら宣言した。

- Toshio Ozawa氏(CBS/SONY社長):「今まで見たコンサートの中で、一番観客の反応がよかった。照明が素晴らしかった。」

- ニール:「ついに日本で演奏できたことは興味深かった。(日本へは)何年も行こうとしていた。今回のツアーで一番良かったのは、香港とマカオへの小旅行、そして中国本土への1日バス旅行だった。素晴らしかった!もちろん、僕たちが見たのは巨大な国のほんの小さな一部だったが、とても多くのイメージやアイデアを吸収し、理解しようとした ー ほとんど不可能だったが。ゲディとハワイへの機上で話し合ったが、今回の中国旅行は”旅行者向けに仕組まれたもの”であった割には、”特別な旅行者”向けの良い扱いではなかったとの結論になった。中国では失業者がいないのも理解できた。庭用のトラクターくらいしか機械がないため、人手で砕石場からハンマーとノミで石を切り出していた。そして数えたら9人の作業員が道路の真ん中で膝をついて手で白線を描いていた ー 手作業でだ。1つ1つ細筆で輪郭を描き、その後中太・太筆で中を塗りつぶす。信じられない!」

<了>

 

そしてバンドは、日本公演後11月24~25日とハワイのホノルルでGrace Under Pressureツアーの最終公演を行い、ゲディの奥さんのナンシーさんも訪れて、二人はハワイで2度目のハネムーンを楽しんだそう💕

 

かつて大阪で夫婦のひどい喧嘩を見て、ニールが日本を嫌いになった、との話は風の噂で聞いてましたが、いやはや、こんなにひどい話だったとは。ウ○ーのYoshiさん、よくあることだ、なんて言わないでー、日本が野蛮な国に思われるじゃないのよ~

 

しかしながら、ツアー後のニールのインタビューでの発言を見ると、彼はより強く中国に惹かれたことが伺えます。これが後の中国サイクリング旅行だったり、Hold Your FireのTai Shanの製作につながったんでしょうね。

 

あと、よく言われる再来日が叶わなかったのは、ニールが大阪の一件で日本が嫌いになったから、というのは、ちょっと違う気がします。文中で輸送費の話がありますが、とにかくラッシュのコンサートは楽器アンプ類はもちろん、舞台演出装置や照明等の機材が多い!あれを全て日本に持ち込むと莫大な金額がかかります。そのコストをカバーするだけの動員数を見込めるかというと、正直厳しかったと思います。またRioの観客の熱さも半端なかったですからね。それに比べるとどうしても日本でコンサートする優先順位は低くなってしまったんでしょうね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。