【9.真実が語る、語られえぬ史実】
一九一八年三月。アメリカのサウスカロライナ州でその事件は起きた。
それは、世界を終焉へと誘う大きな事件。しかし、その全容が世間に露呈することを恐れた者たちによって闇へと葬られた、史実には存在しない謎の事件である。
南北戦争の際、敗れた南軍に属していたサウスカロライナは、戦後五十年を経て復興の兆しを見せていた。州都コロンビアでは建設ラッシュに沸き、郊外の農地ではタバコや綿花が盛んに生産されるようになった。
しかし、白人至上主義が深く浸透したこの地域では白人と黒人との対立が絶えず、人数で勝るアフリカ系アメリカ人を白人が迫害し続ける、暗黒の時代が続いていた。
富の豊潤と心の荒廃とが同居した時代。
おそらくは、人間という生物が最も穢れに満ちていた時代。
政治も経済も同じ思想の元に成り立つとき、その社会に順応して生きるには、隣人たちと思想を同じくしなければ、少なくとも同じ思想をもって生きていると相手に思わせなければならない。
それができない者には直接的な暴力や誹謗・中傷、果ては共同体からの除外という社会的な死が与えられる事になる。
そのため、教育にも同様の思想が盛り込まれるようになり、ホワイトスプレマシーは子供たちの間にも徹底されていく。
しかし、多感な時代を過ごす子供たちのなかには、大人たちが狂信的に教授するそういった思想に矛盾や反感を覚える子も少なからずいた。
アダム・ローレンス・ウォーグレイヴも、そんな子供のなかの一人だった。
彼の両親はKKK(クー・クルックス・クラン)の活動に積極的に参加し、組織内で重要なポストを務めるまでになった、悪魔的とも言えるほどの白人至上主義者だったが、幸か不幸か、その熱狂的なまでの教えはアダムにはいささか凶悪に過ぎた。
自分と同じように話し、自分と同じように笑い、自分と同じように生活をしている、自分と同じ人間を、ただ肌の色が違うというだけの理由で、まるで人間として捉えていない。
奴らはくそだ。擦り切れるまでこき使って、ズタボロになったらそのへんに捨ててしまえばいい。奴らの財産を奪え、権利を奪え、自由を奪え。もとより、奴らは我々白人のもとに隷属すべき下劣な生物なのだ。
両親が一心に語って聞かせるその考えを、思想を彼は理解できなかった。
はたして、彼らと僕とどこが違うというのだろうか? 彼らのなにが劣っているというのだろうか? 彼らからすべてを剥奪する権利は、いったいなにに起因するものなのか?
その想いは、アダムがあるひとりの少女を助けた日に一気に爆ぜることになる。
それは、冷たい風の吹く冬の昼下がり。低所得者層の民家が疎らに並ぶ畦道でのこと。
隣家の学友であり、幼馴染でもあるメリッサと共に下校している道すがら、ふたりは道端に座り込んだ少女と出会う。
遠くから目にしたとき、大きな枯れ枝か、でなければ錆びた鉄くずが打ち捨てられているのかと思った。
しかし、近づいていくにつれ、それが人間であることに気付き、そして慄然とした。
そこにいたのは、両親たちがくそだと蔑む黒人の、自分たちとほとんど歳の変わらないひとりの少女。地面に投げ出された四肢に生気は薄く、まだ雪の残る寒空の下だというのに身につけているのはボロボロに引き裂かれた布キレ一枚だけで、その身体には至るところに強姦の痕が残されていた。
顔の腫れも酷くとても直視できたものではない。それでも、薄く開かれた口元から漏れる細く白い息が、それだけが彼女が生きていることをわずかに証明していた。
道端の木立に、身を預けるようにして横たわる少女のその姿を目の前にしてアダムは、
――ああ、彼らの血も、僕らと同じ、赤い色をしているんだな。
そんな取り留めのないことを思うことしかできなかった。
「なんて、ヒドい。助けてあげなきゃ」
呆然と立ち尽くすアダムを尻目に、メリッサはなんの躊躇いもなく横たわる少女へと近づいた。
彼女もアダム同様、大人たちが掲げる独善的・排他的な思想に疑問を抱く子供の中の一人だった。
マフラーを解き着ていた赤いダッフルコートを脱いで、ほとんど裸同然の少女に掛けようとして、
「……いや、もうやめて。……来ないで」
歩み寄るメリッサを目の前にして、横たわる少女が弱々しく声を漏らした。目を見開き、全身を震わせ、力の入らない身体で踠き、地を這いずってメリッサから逃れようとする。
彼女が体現していたのは、恐怖と絶望。相手は、自分とほとんど歳の変わらない少女だと言うのに。
なおも近づくメリッサ。赤ん坊よりもよっぽど不器用に手足を動かし、這って逃げようとする少女に手にした赤いコートを掛け、その身体を起こして背中から抱きしめた。
背中から抱きつかれた瞬間、少女は掠れた小さな声を漏らしたが、
「大丈夫。恐がらないで。あなたが嫌がることはなにもしない。痛いことも、苦しむようなこともなにもしないから。お願い、信じて」
顔を寄せて、メリッサが耳元で囁いたその一言を聞いて、張り巡らせていた緊張の糸が一気に切れたのか、少女はメリッサに抱かれたまま気を失ってしまった。
警察も病院も、法律さえも彼女の身を護ってはくれないだろう。自分たちの家へ連れて帰るわけにもいかず、かといって彼女の家に連れて行けば、今度は自分たちの身が危い。
そこでふたりは、少女の身をいったん匿うために、彼女を抱えて秘密の場所へと向かった。
街からも主要な道路からも外れた、小さな森を抜けた先にある草原。その中ほどには小高い丘があり、一本の古木が静かに聳えていた。いまはすっかりと葉が落ちて寒そうな姿になっている大きな老木。その袂には、誰が建てたとも知れない朽ち果てた納屋があった。社会の風習に馴染めず、まわりの子供たちからも孤立していたふたりが多くの時間を過ごしてきた秘密の隠れ家だった。
立て付けの悪い木戸を開けて中へ入り、散乱していた藁を掻き集め、そこに少女を横たえた。
納屋に少女を残し、ふたりは自分の家へと帰った。メリッサは着る物を、アダムはわずかばかりの食べ物と薬を持って、再び納屋へと戻る。
アダムが納屋に着いたとき、メリッサはすでに戻ってきていて、少女がちょうど目を覚ますところだった。
少女の名はウータ。アダムやメリッサよりもふたつ年下だった。
初め、それでも彼女はふたりに対して警戒心と恐怖を露わにしていたが、ふたりとも自分に危害を加えるつもりがない事を知ると、ぽつりぽつりと自分の身に起きたことを話し始めた。
貧しくも幸せだった暮らし。敬愛していた兄の病死。日増しに激しくなる差別。両親の不当逮捕。
縋りつく手は解かれ、幾度となく殴られ、蹴飛ばされて、彼女の懇願はなにひとつ聞き入れられず、最後には道端に打ち捨てられた。
ウータの拙い英語と掠れた声では起きた出来事を詳細に知ることはできなかったが、それでも充分だった。残りは彼女が身につけていたボロボロの服が、蒼く腫れあがった瞼が、肩口に残された歯型が物語っていた。
はたして、彼らと僕とどこが違うというのだろうか? 彼らのなにが劣っているというのだろうか? 彼らからすべてを剥奪する権利は、いったいなにに起因するものなのか?
間違ってる! こんなの絶対に間違っている!
こんな世界が存在していて良いはずがない。
アダムのなかで、なにかが爆ぜる音がしていた。
「アダム? ねえ、どこに行くの?」
おもむろに立ち上がり、納屋の戸口へと向かう彼にメリッサが訝しげに声を掛ける。しかし、アダムはそれには答えず、振り向くこともせずに、
「メリッサ。ウータのこと、おねがい。ちょっと待ってて、すぐに戻ってくるから」
その一言を残して外へと駆け出していった。
人と人との間には、目に見えない結びつきや予想も付かない巡り会わせが存在している。時としてその巡り合せは当人たちですら気付かぬうちに進行していることもある。
いまだ寒さの厳しい冬の澄み渡った星空の下。恍惚すら覚えるほど怪しく輝く満月に照らされた街外れの納屋。一本の蝋燭を囲うように座る三人の少年たちの間にも、宿命的な結びつきが働いていた事を、当人たちは最期まで知ることはなかった。
メリッサとウータを納屋に残し、外へと飛びだしたアダムは自宅へは戻らず、そのまま街中にある教会へと足を運んだ。
古くはこの地の先住民や他国からの移民に改宗を勧め、人々の平和を願い祈りを捧げる場所だったが、いまはKKKのメンバーによって占拠され黒ミサが行われるようになっていた。
かつては周辺の住民が集い、世間話に花を咲かせるような教会だったが、いまとなっては普通に出入りする事も困難な閉鎖的な場所になってしまっていた。
しかし、両親がKKKの構成員であるアダムはここに詰めている人間には顔が利く。
「こんばんは」
「おや? ウォーグレイブさんところの坊ちゃんじゃないか。こんな時間にどうしたんだい?」
「じつは、このあいだここで読ませてもらった本が気になっちゃって。できれば貸してもらいたいんですけど、いいですか?」
その言葉に嘘はない。
教会の書庫には宗教書のほかにも神話や御伽話を収めた書籍が、キリストの教えを盛り込んだ物語がほとんどだったが、子供たちが読んでもおもしろいと思える本がたくさん納められていた。
なにより、アダムはこの教会図書館の常連でもあったので、
「ああ、構わないよ。お入り」と肩を軽く押されながら、容易に中に入れてもらうことができた。
閉じられた板戸の細い隙間から入り込む夕陽に照らされた薄暗い書庫。光のカーテンに照らされて小さな妖精たちが踊り戯れるように無数の埃が待っている。
目的の書物はすぐに見つかった。
タイトルは『グラーキの黙示録』。カモフラージュの為なのか、聖書の逸書を再編纂したかのような題名のその書物は、中身を見ると異界について記された魔道書であった。
なぜそのような書物が教会にあったのかは分からない。誰がいつこの教会に持ち込んだかについても記録は残されていない。
しかし、何故かそこに納められていた異界のグリモワールを基にして、アダムという名の少年が『新生の幻夜』なる秘術を使ったことは間違いない事実である。
目的の本を手にしたアダムは、メリッサとウータの待つ納屋へと向かい、そこで夜更けを待った。
そして、『新生の幻夜』を迎えた。
果たして、彼らがなんの始祖となったのか? 彼らがなにを願って『新生の幻夜』に臨んだのか?
後日、納屋の中で見つかったのは燃え尽きた蝋燭とグラーキの黙示録のみで、三人の消息は一世紀近く経ったいまでもわかってはいない。
彼らが行った事の詳細についてはどの資料にも、姫巫女のいる教団などが所持する資料にも記されてはおらず、グラーキの黙示録自体もいまは紛失してしまっているため秘術についても詳しく知ることはできない。
ただ、それでもグラーキの黙示録以外にも『新生の幻夜』について記した書物は現代に伝えられている為、わかることはいくつかある。
それは、『覚醒の夜』同様に、満月の夜に開く幻界の異質な力を必要とすること。
『覚醒の夜』とは違い、その秘術はひとりでは為し得ないこと。
それは誰でも良いわけではなく、生前からの巡り会わせが――幻界の力に目覚めた者には、それと瞬時にわかるほどの強烈な結びつきが術者の間にあること。
そして、もっとも重要な事実は――、
――『新生の幻夜』を行えば、世界規模の災厄を招くこと。
アダムたちが『新生の幻夜』を迎えたその年にもやはり、世界中に死が降り注ぎ人々を恐慌のどん底に陥れる災厄が起きている。
表の世界ではその災厄を「スペイン風邪」と呼んでいる。
六億人もの罹患者を出し、人々の間に死と恐怖を撒き散らした伝染病。人類を滅亡の危機に晒した病魔という名の悪夢。
その始まりがたった三人の少年少女によって齎されたという事を知るものは、あまり多くない。
人と人との間には、目に見えない結びつきや予想も付かない巡り会わせが存在している。時としてそれは人と物との間にも成り立つ事がある。
その本を彼がどこでどのようにして手に入れたのかは誰にもわからない。
グラーキの黙示録。『新生の幻夜』について事細かに記された、幻の魔道書。
いまその書物は、兄から届いた手紙と共に、浄園翼の机の中に眠っている。