「では、今日の親たちが、教育をサービスとして捉えるようになったのはなぜでしょうか。生まれもった人間の本質はずっと変わらないという感覚を、子どもだけでなく親も抱いているとしたら、新たな知識や素養を身につけつつ成長していくことに対して、積極的な意味を見出すことはできなくなるでしょう。教育という営みは、新たに能力を育んでいく「指導」ではなく、生まれもった素質を開花させるための「支援」にすぎないと感じられるようになるでしょう。」(『キャラ化する/される子どもたち』土井隆義)
若者を理解するために読んでいた本の一節に、こんなことが書いてあった。指導も支援も働きかけという意味では共通しているし、指導と新たな能力、開花と支援という言葉の組み合わせも納得できるようでできない。指導を指示に近い言葉として使えば外にある力を子どもに授けるという意味合いになるかもしれないし、能力を価値観、考え方という意味合いで使えば、外にあるとは限らない、自分の中の価値観を育むことも支援ではなく指導によって開花するかもしれない。
そういう細かいことは横に置いておくと、教育への考え方が変わること自体は当たり前だし、成長観も変わっていくのだ。
子どもを対等な一人の人間として捉える、ということは好ましいことだ。対等ということをはきちがえさえしなければ。対等と考えることによって、指導はしない、ということはどういうことだろう?私自身が以前体験したことだが、ある大学の海外ツアーに同行させてもらったとき、先生は学生へ「指導」していた。初めての海外の体験で、どんなふうに相手に対したらいいか、どうふるまえばいいか、などを「指導」しているというふうに私は感じた。私はまず体験して、そこから自分で考える方がいいと考える人間だった。でも先生は、そして相手はそのとき限りの出会いで、相手に不快な思いをさせたり、失礼なことがあってはいけない。指導を事前にするのは当たり前という考え。私は現地で全くその先生の気に入るようにふるまえなかった。
どちらが正解なのだろうか?