巡礼おやじのブログ

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次世代の日本人のために日本人の物語を伝えていこうと考える大人の方々、そして日本人の歴史をもっと知りたい若者たちへのメッセージ

かつて歩いた暑く乾いたスペインの大地

真っ青に晴れわたった空と見渡す限り続く麦畑やひまわり畑

すれ違った各国の巡礼たちとの束の間の語らい

その巡礼の旅を思い出しながら、日本と日本人を考える

次の世代に語り継ぐべき日本人の歴史について

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 次に「隣人と共生する能力」を日本人は取り戻すことができるのかについて考えてみたいと思います。

 

 ご存知のように、阪神大震災、東日本大震災といった未曾有の災害に遭遇した際の被災者の落ち着いたそして協調性のある対応や、全国から駆けつけるボランティアたちの献身的活動は、「隣人と共生する能力」が日本人の中に厳然と受け継がれているという自信を我々に取り戻させてくれました。


 危機が訪れれば自然に助け合う気持ちになるという意味で、日本人の根源的にもっていた共生の心性はまちがいなく現代の日本人の中に息づいていると言えるでしょう。


 一方で、日常生活のレベルにおける過剰な傷つけ合い、例えば、学校におけるいじめの深刻化、会社における派遣社員の使い捨て、自暴自棄を動機とする無差別殺人の続発、生活保護受給者の孤独死、モンスターペアレンツの暴走、など学校、職場、地域などの共同体における相互扶助の輪があちこちで壊れてきているという事実があります。


 もちろんこれらの問題を解決するためには政策的に政府や自治体が対応すべき事項も多々あるでしょう。


しかし、少なくとも江戸時代末期には幕府や大名といった支配階級の人間は庶民の生活にほとんど関与することなく、地域共同体や職業共同体がその構成員の問題にそれぞれ対処し、生活弱者が飢えたり、孤独になったりしないようなケアが当たり前になされていた社会があったことを思い出したいと思います。


 日本社会は、いつの間にか弱者のケアは行政がやることで、個人はそれぞれ自分の利益の追求だけをすればいいんだという価値観になっています。



ところで、どうも現代は自分を愛することが大変むずかしい時代になっています。たとえば、学校におけるいじめの原因をひとつに特定することは困難だと思いますが、恐らくいじめる側の生徒の多くは自分自身の存在自体にいら立っている、自分自身を愛おしい存在として肯定できないことが他者を傷つける行動に繋がる要因のひとつだろうと勝手ながら推察します。


自分を愛せない人間が他者を愛することは到底、困難です。


 自我が肥大化した今日、現代人の陥っている苦しみがここにあります。自分はもっとすばらしい何かができるはずだという気持ちは向上心に繋がっています。その向上心自体は、まちがいなく素晴らしいことです。


一方で、いつまでたっても自分に満足できない、自分を好きになれない、常にいらいらしている、そんな人間が他人にやさしくできるわけがない。


 社会から疎外されたと感じた若者が無差別殺人に安易に奔ってしまうことの背景にも類似した感情の流れを感じとります。弱者になるとろくなことにならないから必死で競争し続け、いつも忙しくいらいらし、最終的に疲れ果てる。


日本のように安全、安心が確保された社会では個人はそれぞれ自分の利益追求にその能力の全てを投入することができます。その考えを推し進めると、ほしいものがあれば一生懸命働けばいい、落ちこぼれた人間は本人の責任なんだからほっておけばよいという価値観が拡大していきます。


一旦、社会から疎外されたものを救い上げるネットワークが脆弱になっています。誰でもやがて老い、病を得て、社会の弱者になるんだという厳然たる事実に気づく必要があります。



 常に飢えや戦乱の恐怖に晒されている地域では、必然的に人々は寄り添い助け合うようになります。ひとりで生きていくことの困難を構成員の誰もが痛感しているからです。

 

 みんなが自分のことだけに集中できる現代の日本社会は世界的に見てほんとうに幸せな環境です。このことは素直に喜ぶべきことです。


 このように、一見、幸せに見える日本社会の底にある脆弱さを何とかしない限り、みんなが穏やかに笑って過ごせる社会に戻ることはできないということを確認したいと思います。

 

 自分の利益追求にしか関心のない学校秀才が有名大学を経由して国家官僚や公務員、あるいは政治家になっていけばどんな政策が立案されるのかは推測がつきます。


 ノブレス・オブリージュの欠けた人間が国民の生活を左右する仕事につくことが国民にどんな弊害をもたらすかは、昭和の軍人たちの行動の結果が物語っています、そしてそのことをきちんと反省せず戦後の官僚体制に残してしまった我々日本国民は今同じ過ちを繰り返そうとしています。


国のためという表現を使うとアレルギーを起こす方々が多いかもしれませんが、弱者も含めて日本人全体がそこそこ楽しく、もちろん安全、安心に生きていけるようにしようと思う気持ちを持っていることが国や自治体の政策に関わろうとする人たちに最低限求められる素養です。


 ちょっと話が仏教と離れてきてしまいました。話を戻しましょう。



 ここでは、人間が生きていく、この世に生を受けた宇宙の寿命から見ればほんのわずかな時間を生きていく際の身のふるまい方について、宇宙の実態を見通した釈尊が何かヒントを示しておいてくれたのではないかということについて検討してみたいと思います。


ダライ・ラマはこの我々が生きている宇宙の構造がわかれば、すなわち悟りの境地に達すれば、自ずから慈悲の心が生まれると語ったことはすでに紹介しました。


 仏教の境地の根本であるこの世界は相互依存あるいは関係性によって成り立っているということの意味についてもっと考える必要がありそうです。


 例えば、いじめる側に回る生徒が抱えているいら立ちは自分のために何かをするというのは空しいという事実によって出口のない懊悩となっているのです。


先ほど「自分を愛せない人間が他者を愛することは到底、困難です」と書きましたが、実はこれは逆なのです。


 いじめる側の生徒が彼の抱える懊悩から脱出するには、人のために何かをして喜んでもらうという行動によってしかなされないだろうということを、ダライ・ラマが語ったことに関する私なりの解釈として提示させてもらいます。


 つまり、自分を愛せるようになるためには、まず先に他者を喜ばせることから始めればいいのです。他者を喜ばせることができる自分を発見することで、人は自分を好きになるのです。これは、私の大したことのない経験と照らし合わせてもまちがいありません。

 

 これは、自分のことにしか関心がない状態を続けている限り、いつまでたっても自分を好きになることはできないと言い換えられます。


 他者に対して何ができるかを考え、行動することで、自分自身が救われる。この世界は、こういう順番になっているのではないかというのが、仏教の境地の説くところのようです。(なるほど、ふむふむと自分で書いて納得する)


 同じように、弱者になりたくないという心情、あるいは飽くなき物質的幸福の欲望によって走り続ける現代日本人の抱えるストレスも同様なのかもしれません。


 そのストレスからの脱出は、弱者になっても安心して暮らせる支え合う社会をみんなで再構築すること、まだ足りないと思う気持ちをしっかり見つめ直し、もう十分ではないかと思うことによってなされるのです。


 後ろから追い立てられるような競争社会を一度、立ち止まって横から見つめ直してみると、違った世界が見えてくるのではないでしょうか。

終り・・・