東京からいちばん遠い場所

東京からいちばん遠い場所

これ意外としゃべりたいと思ってるんだろうなー、ということを吐き出す感じ。

 

桜が咲いた。

 

桜が咲いたら思い出そうと決めていることがある。

 

母の命日だ。

 

 

私は、母の命日をすぐ忘れてしまう。

ただでさえ年度末というのは毎年慌ただしい。

 

いや、そうでなくても常に慌ただしいので、4月のフレッシュな気分が完全に底を突いている3月にそんなセンチメンタルなメモリアルデーを思い出す余地が私の脳ミソにはほとんどない。

 

 

 

 

私の母は、私の誕生日をよく忘れる人だった。

 

「誕生日」というのが大人よりずっと重要な行事である小学生にとって、それはかなり腹立たしいことだった。

 

 

もしかしたら、何かのサプライズのつもりでわざと忘れたふりをしているのかとか、プレゼント的なものをいちいち買う経済的ゆとりがないんだろうかとか、小学生なりに勘繰ってみていた。

 

けれど、そんなことを予想しながら今日が自分の誕生日だということをじんわり言ってみると、本当に忘れてたっぽい様子が見て撮れた。

 

なんだよマジ忘れかよ。

 

や、ボキャブラリーとしては当時そんなんじゃなかったけど、気分としてはそんな感じだった。小学生としては心の中で舌打ちしたい心境だった。

 

さらに言えば、母よりだいぶ後にこの世を去った父もまた、誕生日にプレゼントを買ってくれる、ということをしなかった人であった。

 

や、両親とも私に対する誕生日イベントが全くなかったわけではないが、私記憶統計では50 %ぐらいの確率で思い出す。思い出したとしても、そうハイテンションに祝ってくれるとかはなかった。なんかこう、季節のイベントとかアニバーサリー系とかに対する反応が薄い親だった。

 

 

 

しかし育ちというのは恐ろしい。

 

 

 

そういう私も、すっかり記念日・アニバーサリーに関心がない人間に育った。

そもそも私も両親の誕生日を祝うという習慣が育たなかった。母の日・父の日しかり。

 

知人友人同僚の誕生日はほぼ覚えられない。兄の誕生日ですら、実を言うとよくわからない。月ぐらいはさすがに知っているが、日の記憶が2つぐらいあって、正解がどっちか、何度聞いても忘れてしまう。なので、家族の誕生日を書く書類には虚偽の記載があったかもしれない。

 

 

 

facebookが全盛だった頃、誕生日おめでと〜🎵投稿が誕生日に相次いでいた。

 

 

いま正直に言うと、あれに

 

 

ありがとう〜🎵

 

 

という返信をするのが苦痛だった。

なんで自分の誕生日に苦痛なことに時間を割かねばならないのかと思い、その翌年は日付が変わった夜中以降に

 

 

ありがとう〜🎵

 

 

とコメントを入れた。

でも、夜中からそれをやるのもまた苦痛だった。

 

なのでさらにその翌年は、個別ではなく

 

 

お祝いコメくれたみなさんありがとう〜🎵

 

 

と、一括お礼を入れるという策をとった。

しかし、それですらちょっと鬱陶しかった。

 

 

あれほど自分の誕生日を忘れる両親にチッ!と心の舌打ちをしていたのに、誕生日を祝われるとめんどくさいと思う、この精神構造こそめんどくさいな、と思ったが、めんどくさいものはめんどくさい。

 

 

その翌年、ついに返信コメを一切せずにスルーするという思い切った策をとった。

 

 

それでも翌年また誕生日おめでとうコメを入れてくれる優しい人たちで溢れているが、私のアニバーサリー欲の薄さが濃く変わるわけでもなかった。

 

まあ、そうこうしている間に世の中はインスタへと移行していったのでもはや悩む必要もなくなったが、私はSNSを「友人とつながる」ツールとして使わなくなっていった。「誕生日を祝う」と言うグルーミングのような絡みがどうしても苦手なのだ。

 

 

そして、誕生日のみならず母の命日も、桜を見ないと思い出せないぐらいになった。

 

まあ、それは私だけではない。兄ともども命日を忘れて、住職に怒られながら一年遅れの法要をやったりする、人としての何かにユルい人生を送っている。

 

 

あまりに忙しいと、桜が咲いても明日のことを思い出せなかったりする。

 

それは、母が私の誕生日を思い出す確率と大して変わりない。桜並木がすっかり緑色になってから「アッ!」と思い出すこともある。割と近年亡くなった父の命日ですら、かなり過ぎてから「アッ!」となる。私よりかは命日を思い出す能力がある兄のリマインドでかろうじて法要はやったが、その兄もそろそろ忘れ出す時期だと思う。

 

 

でも、宗教行事を軽視しているつもりはない。

むしろ、お経を聞いている間は、こういった宗教行事の意味をすごく考えている。その意義も、自分の中ではかなりはっきり答えがある。

 

 

人間、亡くなった人に対する悲しみを抱えている時間はできるだけ少ない方がいい。

生きている人は生きていることに集中できた方がいい。

 

でも、死んだ人に向ける心の痛みが全くないようでは、人間の社会が快適にはならない。

 

 

そのバランスがあんまり偏ってるとまずいかな〜?

 

と思いつつどこかでバランスを取ろうとしている自分はいるが、逆アニバーサリーな人間であることには変わりない。それでもかろうじて社会で適応はできている、のかな?

 

 

今年もまた、母の命日を数日過ぎてから思い出した。桜は数日前から咲き始めていて「満開はいつかな?」ぐらいは思っていたのに。

 

まあ、思い出しただけでもまだマシか。あとは、いつお墓参りに行くかに悩むのみである。
 
ちなみに、昨年1年、自分の年齢を間違って認識していたことに最近気づいて一人で爆笑したところだ。
 
 
もはや、誕生日とか記念日を思い出す能力が低くてもどうでもよくなった。それでもそれなりに濃い人生を送っている。
「やさしい」と言われると「それはどうかな?」と思いつつも、私をそう思う人が周りに結構いるらしい。
 
アニバーサリー欲が低い分、日々生きることに集中しているのだ、ということにしておく。
 
 
てなことを、桜が咲くたびに思いつつも、結局やることはスマホを向けてパシャパシャと撮りまくることだ。
 
 
心の平和なんて、それぐらいユルい基準でいいと思う。