潰瘍性大腸炎になって10年経ちました その4 | たまに書きます

たまに書きます

基本的に無益な情報を。12年に渡る中国の黒龍江省暮らし(うち3年ちょい北京)に終止符をうち帰国、次の一歩(台湾方面)に踏み込もうとするタイミングでコロナ蔓延、鎖国により足止め。困り中。どうにもならん。

思い出シリーズ4回目です。

 

(前回までのあらすじ)

衆人環視での内視鏡検査の結果,病名が潰瘍性大腸炎と確定するも

その頃には誤診で制限された食事の結果立ち上がるのもままならない状態へ・・・・

 

さて。

検査が終わり,いったん部屋(街はずれの伝染病のための隔離病院)に戻り

もろもろ結果を病院へ報告(このあたりのことは会社の同僚にやってもらっていました)

んで。

 

全く考えていなかったのですが

いままでここに入院していたのはあくまで診断が赤痢だったから。

現在は潰瘍性大腸炎という診断が下ったため,この病院から出ていかなければならない、と。

一人しかいないし、快適だからここがいいんだけどダメ?と打診をしたのですが

ダメなもんはダメ、とお断りされてしまいました。

まあ仕方ないですけどね。

 

んで、仕方ないから検査をやった病院に転院すりゃいっか、と考えていたのです。軽く。

これが・・・・

甘かった・・・・。

 

転院先は普通の大部屋。

8床くらいの部屋だったでしょうか。

地獄でした。地獄でした。

 

何が地獄かというと。

中国の医療制度が日本のそれと大きく違うことからくるストレスです。

(地域性などもあると思いますので必ずしも全国的にそうだとは言えないかも。以下あくまで自身の経験です)

日本って,基本看護師や職員の皆様が医療行為から始まり,食事の用意,ある程度の生活の補助も

行ってくれるじゃないですか。

面会時間なんかも割と細かく制限されてますし。面会に訪れる人もみんな病人の邪魔にならないようにふるまうじゃないですか。

 

中国の看護師や職員はあくまで医療行為に関することしか行いません。医療行為といってもせいぜい注射程度です。

診察でた薬は処方箋が出されて、それを自分で買ってきて決められた時間に飲むことになりますし

点滴ですら、液は自分で買わないとなりません。それを看護師に渡すと打ってくれる感じ。

食事も基本自前で準備しないとなりません。

つまり、生活にかかわることについては、看護師の方のサポートはほぼ受けられません。

そもそも入院してベッドに寝てる人間に薬を買ってこい、なんて言われても無理です。

 

で、その結果、どうなるかというと

入院者を支援する人間が必要になります。

病院の周囲にはそういうことを生業とする方々のお店があり、そういう方々を雇って

身の回りの世話をしてもらうわけです。

が。

基本的には家族にやってもらうということが多いようです。

 

つまり、一般人が病室に時間関係なしに(さすがに深夜はいなくなっていましたが)

病室にいずっぱりっていうことになります。

さらに言うと、中国の家族や親族の概念というのは日本人のそれとはずいぶん認識が違っており

もう、人によっては『一族郎党がひっきりなしにやっては食べ物をもってきて見舞う』という状態になります。

で、『見舞う』という概念が生きているうちは良いのですが

そのうち病人ほったらかしに大騒ぎを始めます。彼らとしては普通に話をしているだけなのかもしれませんが

もうやかましいったらありゃしない。周りに病人がいることを忘れて盛り上がります。

そのうち備え付けのテレビを鑑賞し始めてまた騒ぎます。

中国人は他人との距離が短いため、同じ病室の違う家族同士が仲良くなったり騒いだりします。

もうほんと、お前ら早く帰れと。

こっちはもう体を起こすことすらしんどいというのに、朝から晩まで病室に入り浸って

ギャーギャー猿のように騒いでは

絶え間なく何喰ってるか知らんけど臭ぇし

 

と、とにかく病院が病人を治癒させる施設であるという前提を軽く吹き飛ばしてしまうような地獄の施設だったのです。

隔離病棟にいたときは、まあ大丈夫かなあと思ったのですが

転院翌日、見舞いに来てくれた上司に

『この環境さすがにもう無理帰国して治療させてくれください頼む』

と訴えて、快くOKをいただきました。

 

が、不幸は重なるもんで

数日大雪が降ったおかげで

帰国便が飛ぶハルビンまで、飛行機は飛びません。

高速道路は閉鎖しました。

夜行の鉄道ならもしかしたら走るかもしれないし走らないかもしれない。

という。笑うしかないですが、残念ながらそんな余裕はもうなくなっています。こちらも。

帰国便の運行日程の都合上,その日の夜出発はどうしてもできないため

とりあえずもろもろチケットの手配をお願いし、

死に物狂いでもう一泊。翌日夕方前に一度部屋に戻してもらいました。

雪でしたねぇ。

 

とりあえず準備をしなくてはなりませんが、荷物なんぞ持って帰る余裕もありません。

それよりも風呂!と思ったのですが、温水器があったまるころには出発していなくてはなりません。

仕方ないので、這いつくばりながらガスで鍋に湯を沸かし、(本気で一人で立ち上がれない)

なんとか風呂場までもっていき、これまたひいひい這いつくばりながら何となく体を吹き、顔を洗ってひげをそり

髪の毛を洗い、引き続きひーひー言いながらなんとか服を着てパスポートとお金をもって出発しました。

さすがに一人ではどうにもならないので(一人で歩けない外人が中国で寝台車になんて乗れない。)

職場から二人補助でついてきてくれました。ありがとう!

 

なんとか雪に邪魔されることもなく無事ハルビンに到着。(このころはまだ空港のターミナルは国内国際離れてませんでした)

ハルビンの空港についてとりあえず顔をあらい、チェックインを行い、連れてきてくれた二人と別れ

なんとか待合室までたどり着き、そこでやっと一息付けました。

 

幸い、おなかの調子もそこそこ安定(そもそも)

 

飛行機に乗り込み(生まれて初めてのビジネスクラス!)気分的に安心したせいなのでしょう

なんと何日かぶりできちんとした食事(機内食)が取れました。

あの時の機内食はずっと忘れられませんね。やっと人間らしい食べ物が食べられた、と。

恐る恐るだったのですが、食べてゆくうちに食欲が刺激され結局完食です。

 

ハルビンからの入国は当時はまだ新潟のみでしたので、父親が心配してわざわざ新潟まで迎えに来てくれたのですが

到着するころには見違えるほど回復。食事って大事です、本当に。

 

そしてその後、自宅に戻り何日かぶりに風呂に入り

すぐに近所の内科に行って診察、紹介状をもらいすぐに近隣の総合病院へ行き入院。

 

それが2010年の12月24日でした。

 

という話。

 

なお、24日は院内でクリスマスっぽいイベント(サンタコスっぽい看護婦ちゃん)をやってましたw

『こんな日に入院なんて運が悪いですねぇ(笑)』と言われたことを覚えています。

 

ちなみにですが、

幸い会社の方で海外旅行の保険をかけていたため

中国での医療費、勤務地から自宅までの往復の交通費、日本での医療費など

すべて保険でどうにかできました。

 

海外旅行、保険かけとくといいと思います。

 

以上、当時の思い出でした。