<2010年9月3日>
犬は、主人の「声」から微妙な心理を読み取っている。
彼らは何気なく聞いているようで、実は深く聴いている。
彼らは、主人の声の内側の「声の心」を聴いているのだ。
私は犬たちの世話が終わり、皆が犬舎で落ち着いた頃合に、一頭一頭に声をかける。
静かに歩き、その犬舎の前に立ち止まり、その犬の顔を見つめる。
その犬は静かに私の顔を見つめ返す。
そして私は、その犬に語りかける。
その犬は、じっと聴いている。
澄んだ瞳で私を見つめ、ただただじっと聴いている。
だから、適当なことなど言えない。
いい加減な気持ちで話すことなどできない。
父として親心で、誠心誠意で語りかける。
それは、当然のことだ。
相手は、真剣に聴いているのだ。
相手は「異種族の言語」に対して、心で聴こうとしている。
それに対して、なんでいい加減になど話せるだろうか。
私は父として、彼らの成長を願い続ける。
彼らの成長を願って語りかける。
私のその声の心を、犬たちは心で聴く。
耳で聞いているだけではなく、心で聴いているのである。
もちろん、「無言の対話」も重大だ。
沈黙の中にも、深く濃密な対話が隠されている。
だがそれとは別の形として、声で語ることも意義深いのである。
※父だ我が子だと、大袈裟に聞こえるかも知れない。
「思い込みが激しいよ!!」と笑われるかも知れない。
だが、犬たちは私を「父」と思っているのである。
彼らが私を父と信じてくれるなら、私は父を全うしたい。
彼らが私を父と信じてくれるのに、
「知らないよ!!俺は飼主様だよ!!お前は犬の分際だよ!!」などと思えるか??
相手のその純心に対してそこまで薄情にはなれない。それだけの話である。
そこまで薄情になれる人ならば、当然ながら私を気狂いと思うだろう。
だがそこまで薄情になれる人は、何十年犬と暮らしても犬の心は分からない。
犬の精神の表層部分は観察によって多少は分かるだろうが、
その先の深い領域は絶対に見ることができない。
見ることなく知ることなく信じることなく、表層部分でしか判断しないのである。
だが、そもそも動物たちは深い情感に彩られている。
その情感領域を否定すれば、動物の実像など何も分からずに終わるのだ。
彼らの情感、彼らの感性を知るには、心眼で心観する以外に無いのである。
「声」は、さまざまな姿を持つ。
その時その時で、まるで違う姿に変わる。
そして犬たちは、それを鋭く感知している。
声音や声量だけではなく、その声の表現を深く聴いている。
だから彼らは「演技の声」など容易に見抜く。
もし彼らが演技の声に反応したとしても、
それを演技だと察しながらも受け入れてくれたのである。
優しい声・静かな声・穏やかな声・厳しい声・烈しい声・大音声・胆からの一喝・・・・・
その時その時で、主人の声の表現も変わっていくはずだ。
その声の表現と声心を、犬たちは鋭く判読していく。
だから声の表現は重大なのだが、街に住む飼主はこの点で大変だと思う。
なにしろ隣近所が近接しているだろうし、思うように声が出せないと思うのだ。
そこでは常に声を殺して犬と接しているのだと想像する。
常に隣近所に気を使い、神経を擦り減らして暮らしているのだと想像する。
そこでは飼主も犬も、双方ともに実に大変だと思うのだ。
そのような場合には、小さな声の中に全てを込めるしかない。
その小さな声に全てを託し、声心を伝えるのである。
そして飼主と犬の双方が、その対話様式を練磨していくのである。
その小さな声に託された微妙な意思を、犬は注意深く読み取るようになるはずだ。
もちろん無言の対話も重大だ。
身体を使ってのサインやジェスチュアも重大だ。
そのように声もまた、ひとつの重要な要素である。
だが、もし声を出せない人の場合には、他の要素が研ぎ澄まされるはずだ。
声を出せない代わりに、他の感覚が格段に練磨され、新たな対話様式が生まれるはずだ。
盲目の人も、耳の聞こえない人も、そのように他の感覚が飛躍的に発達するだろう。
そして独自の新感覚の対話世界が展開されていくだろう。
犬はそのとき、必ずその新対話世界に応えてくれるはずだ。
だがもし声が出るのなら、その声の力を存分に使った方がいいと思う。
それを意識するだけでも、いろんなことが変わってくるはずだ。
※ところで盲目の人は、相手の声に極めて敏感だと思う。
相手の声に潜む感情を、おそらく見事に察知するはずだ。
見えない世界に生きるとき、「聴く力」は素晴らしく研ぎ澄まされるだろう。
そして聴く力のみならず、「シックスセンス」も開花するに違いない。
どこかが支障をきたした場合、身体全体がそれをカバーしようとする。
身体全体がカバーして、総合力としての生命力を達成しようとする。
だからたとえば盲目の人は、視覚以外の感覚が著しく深化するはずだ。
社会は、そのような人が持つ深化した感覚から、新たな何かを学ぶべきだと思う。
その人たち独自の感覚を尊重し、その人たちから学ぶという姿勢が必要だと思うのだ。
■南無華厳 狼山道院■
犬は、主人の「声」から微妙な心理を読み取っている。
彼らは何気なく聞いているようで、実は深く聴いている。
彼らは、主人の声の内側の「声の心」を聴いているのだ。
私は犬たちの世話が終わり、皆が犬舎で落ち着いた頃合に、一頭一頭に声をかける。
静かに歩き、その犬舎の前に立ち止まり、その犬の顔を見つめる。
その犬は静かに私の顔を見つめ返す。
そして私は、その犬に語りかける。
その犬は、じっと聴いている。
澄んだ瞳で私を見つめ、ただただじっと聴いている。
だから、適当なことなど言えない。
いい加減な気持ちで話すことなどできない。
父として親心で、誠心誠意で語りかける。
それは、当然のことだ。
相手は、真剣に聴いているのだ。
相手は「異種族の言語」に対して、心で聴こうとしている。
それに対して、なんでいい加減になど話せるだろうか。
私は父として、彼らの成長を願い続ける。
彼らの成長を願って語りかける。
私のその声の心を、犬たちは心で聴く。
耳で聞いているだけではなく、心で聴いているのである。
もちろん、「無言の対話」も重大だ。
沈黙の中にも、深く濃密な対話が隠されている。
だがそれとは別の形として、声で語ることも意義深いのである。
※父だ我が子だと、大袈裟に聞こえるかも知れない。
「思い込みが激しいよ!!」と笑われるかも知れない。
だが、犬たちは私を「父」と思っているのである。
彼らが私を父と信じてくれるなら、私は父を全うしたい。
彼らが私を父と信じてくれるのに、
「知らないよ!!俺は飼主様だよ!!お前は犬の分際だよ!!」などと思えるか??
相手のその純心に対してそこまで薄情にはなれない。それだけの話である。
そこまで薄情になれる人ならば、当然ながら私を気狂いと思うだろう。
だがそこまで薄情になれる人は、何十年犬と暮らしても犬の心は分からない。
犬の精神の表層部分は観察によって多少は分かるだろうが、
その先の深い領域は絶対に見ることができない。
見ることなく知ることなく信じることなく、表層部分でしか判断しないのである。
だが、そもそも動物たちは深い情感に彩られている。
その情感領域を否定すれば、動物の実像など何も分からずに終わるのだ。
彼らの情感、彼らの感性を知るには、心眼で心観する以外に無いのである。
「声」は、さまざまな姿を持つ。
その時その時で、まるで違う姿に変わる。
そして犬たちは、それを鋭く感知している。
声音や声量だけではなく、その声の表現を深く聴いている。
だから彼らは「演技の声」など容易に見抜く。
もし彼らが演技の声に反応したとしても、
それを演技だと察しながらも受け入れてくれたのである。
優しい声・静かな声・穏やかな声・厳しい声・烈しい声・大音声・胆からの一喝・・・・・
その時その時で、主人の声の表現も変わっていくはずだ。
その声の表現と声心を、犬たちは鋭く判読していく。
だから声の表現は重大なのだが、街に住む飼主はこの点で大変だと思う。
なにしろ隣近所が近接しているだろうし、思うように声が出せないと思うのだ。
そこでは常に声を殺して犬と接しているのだと想像する。
常に隣近所に気を使い、神経を擦り減らして暮らしているのだと想像する。
そこでは飼主も犬も、双方ともに実に大変だと思うのだ。
そのような場合には、小さな声の中に全てを込めるしかない。
その小さな声に全てを託し、声心を伝えるのである。
そして飼主と犬の双方が、その対話様式を練磨していくのである。
その小さな声に託された微妙な意思を、犬は注意深く読み取るようになるはずだ。
もちろん無言の対話も重大だ。
身体を使ってのサインやジェスチュアも重大だ。
そのように声もまた、ひとつの重要な要素である。
だが、もし声を出せない人の場合には、他の要素が研ぎ澄まされるはずだ。
声を出せない代わりに、他の感覚が格段に練磨され、新たな対話様式が生まれるはずだ。
盲目の人も、耳の聞こえない人も、そのように他の感覚が飛躍的に発達するだろう。
そして独自の新感覚の対話世界が展開されていくだろう。
犬はそのとき、必ずその新対話世界に応えてくれるはずだ。
だがもし声が出るのなら、その声の力を存分に使った方がいいと思う。
それを意識するだけでも、いろんなことが変わってくるはずだ。
※ところで盲目の人は、相手の声に極めて敏感だと思う。
相手の声に潜む感情を、おそらく見事に察知するはずだ。
見えない世界に生きるとき、「聴く力」は素晴らしく研ぎ澄まされるだろう。
そして聴く力のみならず、「シックスセンス」も開花するに違いない。
どこかが支障をきたした場合、身体全体がそれをカバーしようとする。
身体全体がカバーして、総合力としての生命力を達成しようとする。
だからたとえば盲目の人は、視覚以外の感覚が著しく深化するはずだ。
社会は、そのような人が持つ深化した感覚から、新たな何かを学ぶべきだと思う。
その人たち独自の感覚を尊重し、その人たちから学ぶという姿勢が必要だと思うのだ。
■南無華厳 狼山道院■