<2010年11月24日>
飼主は、常に愛犬の挙動を予測していくべきだ。
それが飼主の重大な務めだと思う。
飼主は愛犬の「個性」を把握しているはずだ。
だから予測できるはずなのだ。
自分がこう動けば犬はこう動く。
自分がこう移動すれば、犬はこう動く。
自分が身体をこう動かせば犬はこう動く。
こういう人が近づけば犬はこういう行動となる。
こういう犬が近づけば犬はこういう行動となる。
こういう状況になると犬はこういう行動となる。
などなどなど・・・・・・
それが家の中でも、あるいは外でも、どこでも予測できるはずである。
予測できれば、いろんな予防ができる。
余計な叱責も無くなるし、無駄な騒ぎも無くなる。
自然な流れのままにアクシデントを予防できるのである。
これらは、飼主側の任務である。
飼主自身に要求される能力である。
愛犬を家庭犬訓練などに出す飼主は多いと思うが、
犬が学ぶだけでは「共生」など不可能である。
むしろ飼主が学ぶことの方が何十倍も重大だと思う。
犬に訓練を入れても自分が未熟ならば、共生など夢想に終わるのだ。
だからむしろ、飼主が学びに行くべきだと思うのである。
確かに百頭いれば百の個性がある。百花繚乱だ。
だが犬という動物には、「およその共通部分」というものがある。
その共通部分の領域については、最低限に知っておかねばならない。
つまり犬という動物に特有の傾向性である。
それを知っておけば、たとえば散歩で他家の犬と対面しても、迅速に対応ができるのだ。
だが意外に、この領域に関する知識さえ持たない人も多いようだ。
しかし犬を飼っている以上は、「犬という動物」を知っておかねばならない。
だから犬を飼う前に、できる限りにそれを学んでおく必要があると思うのだ。
これだけ社会に多くの犬がいるのだから、それはもはや課題だと思うのだ。
ただし旧来の視座の犬学では無く、新たな視座の「新・犬学」が必要だろう。
家の外に出掛ける時には、愛犬と「手綱」で結ばれる。
手綱は単なる「綱」では無い。
それが単なる綱で終われば、愛犬とは結ばれない。
その綱に、命を吹き込むのである。
それはもはや綱ではなく、自分の身体そのものと意識すべきである。
その「命綱」で愛犬と交信し、協調を目指して進むのである。
その命綱に、愛犬からの意思が伝わる。
その命綱を通して、こちらの意思を伝える。
手綱が命綱になれば、その交信が可能になるのである。
そして先手先手で犬を制していくこともできるのである。
だから手綱は、どんな時でも、死んでいてはならない。
「僅かに緩んだ状態:張る手前くらい」が理想と思うが、
たとえ緩んでいても、手綱は生きていなければならないのだ。
だからたとえば、休憩の時の弛緩した状況でも、手綱を生かしておく。
手綱が絡んだり長長と余っている状態では死んでしまうから、
たとえどんな状況でも手綱を最適の状態に保持しておくのである。
そして手綱を生かすには、飼主自身の「姿勢」が重大である。
ここで言う姿勢とは、「身体の態勢と動作の全て」である。
指・手・肘・腕・肩・背中・腰・膝・足首・足裏・足指・・・・
・・つまり身体全部の態勢と動作である。
そして常に「全身力」を発揮できるように、身体の「軸心」で動くのである。
もし飼主自身の姿勢が未熟だと、手綱を生かすことはできないのである。
ところで手綱は、自分の手に合っていなければならない。
つまり「握り易い・力を入れ易い」ということだ。
因みに私は27年間、いつも手作りの手綱を使用した。
綱の太さや長さを自由に調整できるからである。
そしてその手綱を大事にした。命綱だからだ。
手綱の持ち方は、通常の長さの手綱は左手一本で操作するが、
緊急の際には右手を繰り出して素早く手綱を畳み込む時もある。
両手に別別の手綱を持つ時には、左右独自に素早く畳み込む。
長手綱の場合には、両腕を効果的に使う。
左手で握っても、右手は常に待機した状態となる。
いつでも右手が待機しているのであって、遊んでいる暇など無いのである。
昔昔、左手に巨狼の太郎の手綱を持ち、右手に大型北極犬のライの手綱を持ち、
毎日毎日4時間以上を散歩していた。途中は走りも入れるのである。
私もまだ体力溢れる頃だったが、それでもあの毎日は苦行であった。
山の奥にまで遠征したが、彼らが何かに傾注した際には背筋が凍る想いだった。
なにしろ彼らは両者ともに「怪物君」だったのである。
マスティフ族もパワフルだが、それとは異なる種類の、異常な瞬発力だったのだ。
だから散歩と言っても、それはまさしく命懸けの真剣勝負だった。
散歩を終えて帰宅すると、いつも全身に寒気が走った。
おそらく自分の限界以上の力を使っていたのだろう。
そして神経も疲労困憊していたのだろう。
当時は、今日も無事で帰って来れたと、心の底から感謝する毎日だった。
だが彼らの御蔭で、手綱を持った以上は、いつも真剣勝負の習慣となった。
<普段は彼らは、私に協調して歩いた。犬以上に穏やかに歩いてくれたのだ・・>
因みに太郎とライの単独運動は自転車を使った。
そうでないと一向に運動にならないからである。
ライは各種の走法を織り交ぜて、毎日10kmから20kmを運動した。
こう書いていると誇張に思われるかも知れないが、
仕事と食事と睡眠以外の全ての時間を、太郎とライの運動に費やした。
だから私は、当時からテレビを観る習慣が無い。人間との団欒も無い。
息抜きと言えば、週末に安酒を飲みに行くぐらいであった。
だが飲みに行っても、翌朝は夜明けの頃から運動であった。
※今の家族たちは、フリーランニングと手綱散歩が半半だが、
フリーランニングの時でも、彼らとは「見えない命綱」で結ばれている。
手綱を握った時よりも、さらに格段の集中力で交信しなければならない。
犬が行動を起こす直前に、必ず予兆がある。
それが表面に現われていなくとも、必ずサインが出ている。
それをキャッチできれば、事前に対応できる。
たとえば「突然、引っ張られた」という事態も防げるのである。
犬が行動を起こそうとしているのなら、機先を制するのである。
制止の命令を出すだけが対応策では無いのである。
犬の気分を瞬間に転換させる。その場の気配を瞬間に転換させる。
たとえば、さりげなく向きを変えるだけでも違うのである。
問題は、そのサインを見抜けるかということである。
普段から愛犬の挙動を洞察していれば、それが分かるはずである。
そして愛犬がどのような行動に走るか、それが予測できるはずである。
<そしてその行動の理由も、飼主は分かるはずである・・・>
予兆は、犬の身体上に示されることもある。
だが身体の表面には現われないこともある。
しかし必ず「気配」となって犬から立ち昇る。
その気配は、飼主ならば察知できるはずである。
そのために、普段の日常から、愛犬を深く見つめていくのである。
普段から洞察していけば、予兆の察知や挙動の予測や行動の理由などが素早く分かる。
そうすれば、いろんなことが自然体で予防できるのである。
その「姿勢:心構え」は、慣れれば習慣となり、なんの苦にもならないはずである。
■南無華厳 狼山道院■
飼主は、常に愛犬の挙動を予測していくべきだ。
それが飼主の重大な務めだと思う。
飼主は愛犬の「個性」を把握しているはずだ。
だから予測できるはずなのだ。
自分がこう動けば犬はこう動く。
自分がこう移動すれば、犬はこう動く。
自分が身体をこう動かせば犬はこう動く。
こういう人が近づけば犬はこういう行動となる。
こういう犬が近づけば犬はこういう行動となる。
こういう状況になると犬はこういう行動となる。
などなどなど・・・・・・
それが家の中でも、あるいは外でも、どこでも予測できるはずである。
予測できれば、いろんな予防ができる。
余計な叱責も無くなるし、無駄な騒ぎも無くなる。
自然な流れのままにアクシデントを予防できるのである。
これらは、飼主側の任務である。
飼主自身に要求される能力である。
愛犬を家庭犬訓練などに出す飼主は多いと思うが、
犬が学ぶだけでは「共生」など不可能である。
むしろ飼主が学ぶことの方が何十倍も重大だと思う。
犬に訓練を入れても自分が未熟ならば、共生など夢想に終わるのだ。
だからむしろ、飼主が学びに行くべきだと思うのである。
確かに百頭いれば百の個性がある。百花繚乱だ。
だが犬という動物には、「およその共通部分」というものがある。
その共通部分の領域については、最低限に知っておかねばならない。
つまり犬という動物に特有の傾向性である。
それを知っておけば、たとえば散歩で他家の犬と対面しても、迅速に対応ができるのだ。
だが意外に、この領域に関する知識さえ持たない人も多いようだ。
しかし犬を飼っている以上は、「犬という動物」を知っておかねばならない。
だから犬を飼う前に、できる限りにそれを学んでおく必要があると思うのだ。
これだけ社会に多くの犬がいるのだから、それはもはや課題だと思うのだ。
ただし旧来の視座の犬学では無く、新たな視座の「新・犬学」が必要だろう。
家の外に出掛ける時には、愛犬と「手綱」で結ばれる。
手綱は単なる「綱」では無い。
それが単なる綱で終われば、愛犬とは結ばれない。
その綱に、命を吹き込むのである。
それはもはや綱ではなく、自分の身体そのものと意識すべきである。
その「命綱」で愛犬と交信し、協調を目指して進むのである。
その命綱に、愛犬からの意思が伝わる。
その命綱を通して、こちらの意思を伝える。
手綱が命綱になれば、その交信が可能になるのである。
そして先手先手で犬を制していくこともできるのである。
だから手綱は、どんな時でも、死んでいてはならない。
「僅かに緩んだ状態:張る手前くらい」が理想と思うが、
たとえ緩んでいても、手綱は生きていなければならないのだ。
だからたとえば、休憩の時の弛緩した状況でも、手綱を生かしておく。
手綱が絡んだり長長と余っている状態では死んでしまうから、
たとえどんな状況でも手綱を最適の状態に保持しておくのである。
そして手綱を生かすには、飼主自身の「姿勢」が重大である。
ここで言う姿勢とは、「身体の態勢と動作の全て」である。
指・手・肘・腕・肩・背中・腰・膝・足首・足裏・足指・・・・
・・つまり身体全部の態勢と動作である。
そして常に「全身力」を発揮できるように、身体の「軸心」で動くのである。
もし飼主自身の姿勢が未熟だと、手綱を生かすことはできないのである。
ところで手綱は、自分の手に合っていなければならない。
つまり「握り易い・力を入れ易い」ということだ。
因みに私は27年間、いつも手作りの手綱を使用した。
綱の太さや長さを自由に調整できるからである。
そしてその手綱を大事にした。命綱だからだ。
手綱の持ち方は、通常の長さの手綱は左手一本で操作するが、
緊急の際には右手を繰り出して素早く手綱を畳み込む時もある。
両手に別別の手綱を持つ時には、左右独自に素早く畳み込む。
長手綱の場合には、両腕を効果的に使う。
左手で握っても、右手は常に待機した状態となる。
いつでも右手が待機しているのであって、遊んでいる暇など無いのである。
昔昔、左手に巨狼の太郎の手綱を持ち、右手に大型北極犬のライの手綱を持ち、
毎日毎日4時間以上を散歩していた。途中は走りも入れるのである。
私もまだ体力溢れる頃だったが、それでもあの毎日は苦行であった。
山の奥にまで遠征したが、彼らが何かに傾注した際には背筋が凍る想いだった。
なにしろ彼らは両者ともに「怪物君」だったのである。
マスティフ族もパワフルだが、それとは異なる種類の、異常な瞬発力だったのだ。
だから散歩と言っても、それはまさしく命懸けの真剣勝負だった。
散歩を終えて帰宅すると、いつも全身に寒気が走った。
おそらく自分の限界以上の力を使っていたのだろう。
そして神経も疲労困憊していたのだろう。
当時は、今日も無事で帰って来れたと、心の底から感謝する毎日だった。
だが彼らの御蔭で、手綱を持った以上は、いつも真剣勝負の習慣となった。
<普段は彼らは、私に協調して歩いた。犬以上に穏やかに歩いてくれたのだ・・>
因みに太郎とライの単独運動は自転車を使った。
そうでないと一向に運動にならないからである。
ライは各種の走法を織り交ぜて、毎日10kmから20kmを運動した。
こう書いていると誇張に思われるかも知れないが、
仕事と食事と睡眠以外の全ての時間を、太郎とライの運動に費やした。
だから私は、当時からテレビを観る習慣が無い。人間との団欒も無い。
息抜きと言えば、週末に安酒を飲みに行くぐらいであった。
だが飲みに行っても、翌朝は夜明けの頃から運動であった。
※今の家族たちは、フリーランニングと手綱散歩が半半だが、
フリーランニングの時でも、彼らとは「見えない命綱」で結ばれている。
手綱を握った時よりも、さらに格段の集中力で交信しなければならない。
犬が行動を起こす直前に、必ず予兆がある。
それが表面に現われていなくとも、必ずサインが出ている。
それをキャッチできれば、事前に対応できる。
たとえば「突然、引っ張られた」という事態も防げるのである。
犬が行動を起こそうとしているのなら、機先を制するのである。
制止の命令を出すだけが対応策では無いのである。
犬の気分を瞬間に転換させる。その場の気配を瞬間に転換させる。
たとえば、さりげなく向きを変えるだけでも違うのである。
問題は、そのサインを見抜けるかということである。
普段から愛犬の挙動を洞察していれば、それが分かるはずである。
そして愛犬がどのような行動に走るか、それが予測できるはずである。
<そしてその行動の理由も、飼主は分かるはずである・・・>
予兆は、犬の身体上に示されることもある。
だが身体の表面には現われないこともある。
しかし必ず「気配」となって犬から立ち昇る。
その気配は、飼主ならば察知できるはずである。
そのために、普段の日常から、愛犬を深く見つめていくのである。
普段から洞察していけば、予兆の察知や挙動の予測や行動の理由などが素早く分かる。
そうすれば、いろんなことが自然体で予防できるのである。
その「姿勢:心構え」は、慣れれば習慣となり、なんの苦にもならないはずである。
■南無華厳 狼山道院■