<2011年1月11日>
連日、山は厳しい寒気に覆われている。
冷凍庫の中のようなものである。
皆さんの家の冷蔵庫の中に「冷凍室」があると思う。
その冷凍室の中に小さな山が入っているような状態である。
その世界に、山の命たちが生きている。
どんな命も、懸命に生きている。
どれほど精一杯かは、彼らの姿を見れば一発で分かる。
彼らは「光」に包まれているのである。
野ネズミも。野ウサギも。カモシカも。イノシシも。黒熊も。
黒熊はもう冬眠しているようだが。
冬眠といっても、眠りこけている訳ではない。
身体が極端な「省エネモード」に入っているだけである。
だから意識は僅かにあり、半眠状態のようなものである。
だが、冬眠前に栄養補給できなかった熊は、
あまりの空腹で、何度も目を醒ますだろう。
だが、目を醒ましたところで、冬山には熊の食糧など無いだろう。
熊はただ、飢えの世界を漂白するしかない。
そのまま巣穴で餓死していく熊もいるだろう。
そんな結末は、その熊自身が容易に予測していただろう。
だから冬眠前に、食糧を求めて山を駆けずり回ったことだろう。
冬眠に備えての充分な食事ができなかった熊の胸中を想えば悲しくなる。
山の命たちは、ただただ懸命の生涯を送る。
だが人間たちは、好き勝手に批評非難する。
山の命が人里に降りてくれば目の敵にする。
自分たちはぬくぬくと暖かい家で暖かい食事を食いながら。
自分たちはテレビを観ながら酒を飲みながら談笑しながら。
自分たちが自然界からの恩恵で生きてこれたことを忘れて。
山の命たちがその自然界を成立させてきたことを知らずに。
人間の長年の営業行為の影響で山が本来の姿を失ってしまった。
それで山の命たちが困り果てた挙句に人里に近付くケースも多い。
だが人間は、自分のことは棚に上げて、山の命だけを責め立てる。
それまでの永きに亘り、山の命たちが豊かな自然を維持してくれたのに。
それへの恩義など打ち忘れて、ただただ山の命を責め立てる。
ネットなどで山の命に冷酷な言葉を浴びせる連中も多い。
そういう連中は、独りで山で十日二十日を過ごしてみればいい。
そこで現実に、山の命たちの姿を目にすればいい。
どこに「贅沢」があるのか??
どこに「驕慢な生活」があるのか??
どこに「浮かれた態度」があるのか??
そんなものはどこにも存在しないことが分かるはずだ。
独り眼前に山の命の姿を見れば、未知の何かを感じるはずだ。
人間世界では感じることのない何かを、人間世界とは異質な何かを感じるはずだ。
山の命の生きる姿勢が、彼らがどんな想いで生きているかが、分かるはずだ。
彼らがいかに邪欲を持たない命であるかが、ありありと分かるはずだ。
それを知れば、山の命への見方が変わるはずだ。
それを知れば、根本から視座が変わるはずである。
ただし、独りでなければ、感じることは難しいだろう。
十日二十日と独りで山に佇んでみれば、きっと何かを感じるだろう。
素手で入れば、山界の一端を実感できるはずだ。
だが、たとえば鉄砲でも持てば、心は無意識に鉄砲に頼るだろう。
鉄砲に頼り、鉄砲を利用する魂胆が湧いてくるだろう。
己の本来の姿を見失い、傲慢意識で山界を見ることになるだろう。
「カメラ」も持たない方がいい。
カメラを構えた時点で、真の出逢いからは遠ざかる。
カメラを構えた瞬間に、無意識に雑念が混じるのである。
「己の目」そのもので相手を見る。自然体のままに見る。
そうでなければ、相手の真の姿を見逃すことになるのである。
写真に残さずとも、相手の姿は己の心に刻み込まれるのである。
心に刻まれた映像は、永遠に忘れることが無いのである。
もし写真を撮りたければ、
それは己の心に刻み込んだ以後の機会に撮ればいいのである。
・・素手の状態というのは、実に意義深い。
己の全身で、己の全感覚で、山の命を心観できるのである。
我我、つまり私と犬たちの棲む場所には、山の命の訪問者が多い。
ここに食糧を求めて来るのではない。
ここに彼らが立ち寄る理由など無いはずなのである。
彼らは、まさしく「訪問」してくれるのである。
カモシカやイノシシの足跡が真近まで来ている。
犬たちは彼らと顔見知りのようである。
どうも犬たちと彼らとは、不思議な友情で結ばれているようである。
山の命が近付くと、犬たちは哀愁のホウル:遠吠えの歌を歌うのである。
今の家族には、昔のような大型の猛者たちはいない。
大きな野性たちは、みんな寿命で他界した。
だから今は、小中型クラスの犬たちである。
昔は山の命たちは、ここまで真近まで来なかった。
必ず距離を置いた間合いを保っていた。
だが今は、その間合いが格段に狭まっている。
おそらく、今は気軽な気持ちで来れるのだろう。
それは我我にとって新たな展開であり、新たな世界である。
我我はまた、新たな学びを学んでいくのだ。
私は何度か、熊とも真近で遭遇した。
イノシシの家族とも、真近で遭遇した。
だがいつも、何事も起こらずに別れた。
私はいつも素手のままに山を歩いている。
「熊除けの鈴」など持ったことが無い。
世間ではいろんな「事件」が起こるようだが、
なぜ我我は山の命から攻撃を受けないのか??
運が良かっただけなのか??それだけだろうか??
山の命たちは、つまり「山の命:山の心」である。
山の命たちと自然体で対峙すれば、どういうことになるのか・・・・
それを私はこれからも、この身で体験していくつもりである・・・・
※「対峙」とは、対立のことではありません。
「互いに全存在で正面から向かい合う」ということです。
■南無華厳 狼山道院■
連日、山は厳しい寒気に覆われている。
冷凍庫の中のようなものである。
皆さんの家の冷蔵庫の中に「冷凍室」があると思う。
その冷凍室の中に小さな山が入っているような状態である。
その世界に、山の命たちが生きている。
どんな命も、懸命に生きている。
どれほど精一杯かは、彼らの姿を見れば一発で分かる。
彼らは「光」に包まれているのである。
野ネズミも。野ウサギも。カモシカも。イノシシも。黒熊も。
黒熊はもう冬眠しているようだが。
冬眠といっても、眠りこけている訳ではない。
身体が極端な「省エネモード」に入っているだけである。
だから意識は僅かにあり、半眠状態のようなものである。
だが、冬眠前に栄養補給できなかった熊は、
あまりの空腹で、何度も目を醒ますだろう。
だが、目を醒ましたところで、冬山には熊の食糧など無いだろう。
熊はただ、飢えの世界を漂白するしかない。
そのまま巣穴で餓死していく熊もいるだろう。
そんな結末は、その熊自身が容易に予測していただろう。
だから冬眠前に、食糧を求めて山を駆けずり回ったことだろう。
冬眠に備えての充分な食事ができなかった熊の胸中を想えば悲しくなる。
山の命たちは、ただただ懸命の生涯を送る。
だが人間たちは、好き勝手に批評非難する。
山の命が人里に降りてくれば目の敵にする。
自分たちはぬくぬくと暖かい家で暖かい食事を食いながら。
自分たちはテレビを観ながら酒を飲みながら談笑しながら。
自分たちが自然界からの恩恵で生きてこれたことを忘れて。
山の命たちがその自然界を成立させてきたことを知らずに。
人間の長年の営業行為の影響で山が本来の姿を失ってしまった。
それで山の命たちが困り果てた挙句に人里に近付くケースも多い。
だが人間は、自分のことは棚に上げて、山の命だけを責め立てる。
それまでの永きに亘り、山の命たちが豊かな自然を維持してくれたのに。
それへの恩義など打ち忘れて、ただただ山の命を責め立てる。
ネットなどで山の命に冷酷な言葉を浴びせる連中も多い。
そういう連中は、独りで山で十日二十日を過ごしてみればいい。
そこで現実に、山の命たちの姿を目にすればいい。
どこに「贅沢」があるのか??
どこに「驕慢な生活」があるのか??
どこに「浮かれた態度」があるのか??
そんなものはどこにも存在しないことが分かるはずだ。
独り眼前に山の命の姿を見れば、未知の何かを感じるはずだ。
人間世界では感じることのない何かを、人間世界とは異質な何かを感じるはずだ。
山の命の生きる姿勢が、彼らがどんな想いで生きているかが、分かるはずだ。
彼らがいかに邪欲を持たない命であるかが、ありありと分かるはずだ。
それを知れば、山の命への見方が変わるはずだ。
それを知れば、根本から視座が変わるはずである。
ただし、独りでなければ、感じることは難しいだろう。
十日二十日と独りで山に佇んでみれば、きっと何かを感じるだろう。
素手で入れば、山界の一端を実感できるはずだ。
だが、たとえば鉄砲でも持てば、心は無意識に鉄砲に頼るだろう。
鉄砲に頼り、鉄砲を利用する魂胆が湧いてくるだろう。
己の本来の姿を見失い、傲慢意識で山界を見ることになるだろう。
「カメラ」も持たない方がいい。
カメラを構えた時点で、真の出逢いからは遠ざかる。
カメラを構えた瞬間に、無意識に雑念が混じるのである。
「己の目」そのもので相手を見る。自然体のままに見る。
そうでなければ、相手の真の姿を見逃すことになるのである。
写真に残さずとも、相手の姿は己の心に刻み込まれるのである。
心に刻まれた映像は、永遠に忘れることが無いのである。
もし写真を撮りたければ、
それは己の心に刻み込んだ以後の機会に撮ればいいのである。
・・素手の状態というのは、実に意義深い。
己の全身で、己の全感覚で、山の命を心観できるのである。
我我、つまり私と犬たちの棲む場所には、山の命の訪問者が多い。
ここに食糧を求めて来るのではない。
ここに彼らが立ち寄る理由など無いはずなのである。
彼らは、まさしく「訪問」してくれるのである。
カモシカやイノシシの足跡が真近まで来ている。
犬たちは彼らと顔見知りのようである。
どうも犬たちと彼らとは、不思議な友情で結ばれているようである。
山の命が近付くと、犬たちは哀愁のホウル:遠吠えの歌を歌うのである。
今の家族には、昔のような大型の猛者たちはいない。
大きな野性たちは、みんな寿命で他界した。
だから今は、小中型クラスの犬たちである。
昔は山の命たちは、ここまで真近まで来なかった。
必ず距離を置いた間合いを保っていた。
だが今は、その間合いが格段に狭まっている。
おそらく、今は気軽な気持ちで来れるのだろう。
それは我我にとって新たな展開であり、新たな世界である。
我我はまた、新たな学びを学んでいくのだ。
私は何度か、熊とも真近で遭遇した。
イノシシの家族とも、真近で遭遇した。
だがいつも、何事も起こらずに別れた。
私はいつも素手のままに山を歩いている。
「熊除けの鈴」など持ったことが無い。
世間ではいろんな「事件」が起こるようだが、
なぜ我我は山の命から攻撃を受けないのか??
運が良かっただけなのか??それだけだろうか??
山の命たちは、つまり「山の命:山の心」である。
山の命たちと自然体で対峙すれば、どういうことになるのか・・・・
それを私はこれからも、この身で体験していくつもりである・・・・
※「対峙」とは、対立のことではありません。
「互いに全存在で正面から向かい合う」ということです。
■南無華厳 狼山道院■