≪ 胆力::肝っ玉 ≫
 
生きている以上、
眠らなければ体力は回復しない。
だからたとえ危機的状況でも、眠らなければならない。
明日への力を充電するために、眠らなければならない。
いろんな想いが後から後から押し寄せるだろうが、
すべてを忘れて眠りに専念しなければならない。
だがその場面で眠るには肝っ玉の太さが必要である。
だから普段から、肝っ玉を太くする修行をしなければならない。
茶を飲むときには茶に専心。
飯を食う時には飯に専心。
眠る時には眠りに専心。
そうすると茶が飯が眠りが、最大の効果を生む。
 
肝っ玉が小さいと視界が極端に狭くなる。
そして余計なことばかり考えるようになる。
余計な詮索で頭が一杯になる。
そして一番肝心なことを忘れてしまう。
そして当然、パニックになる。
そしてさらに大きな危機を呼び込む。
さらに危機を呼び込めば、今度は他者を恨むようになる。
どこかに感情をぶつけないと自分を保っていられないからだ。
そして当然、争いが勃発する。
そうならないために、肝っ玉を太くしなければならない。
普段からそれを太くする鍛錬をしなければならない。
 
肝っ玉が小さいと、他者を想う余裕が生まれない。
いつも自分のことで精一杯になるからだ。
そして怖くてたまらないから猜疑心で一杯になる。
疑うことばかりを考えるようになる。
他者を色眼鏡で見る習慣となる。
だから他者の真情が見えなくなる。
奥に秘められた真意が見えなくなる。
そうなれば当然、対話など生まれない。
対話どころか、対話の姿勢にも入れないのである。
結局そこに生まれるのは、妬みや恨みばかりとなる。
そうなれば当然、やがて争いが起こってくる。
そうならないために、肝っ玉を太くしなければならない。
普段からそれを太くする意識を持たなければならない。
 
だが実は、肝っ玉を太くするのは容易では無い。
相当に修練しないと、太くならないのである。
だが諦めてしまえば、そこで終わる。
だから目指していくしかない。
毎日毎日目指していけば、
徐徐に徐徐に、太くなっていくのである。
いざという時に、大いなる胆力を発揮するために、
普段から修練を続けていくことが肝心だと思うのだ。
 
ところで、自分は気弱で臆病だと思い込んでいる人がいる。
だがその人が他者を想う優しさに溢れていれば、
その人は実は大度量で大胆力の持ち主なのだ。
そうでなければ他者に優しくはなれないのである。
だからそういう人は、自分に自信を持つことだ。
もし自信が持てなければ、修練を始めてみよう。
そういう人ならば、早期に効果が現われるはずである。
 
簡単に言えば、
「禅」は肝っ玉を太くするためにある。
大度量の肝っ玉を養うために「禅」があるのだ。
禅というと固定観念の視線で見られるかも知れないが、
禅は普段の日常の中でこそ重大至極なのである。
月に何度か禅道場に通うのが禅では無いのである。
毎日毎日の一瞬一瞬を、禅心で生きようと目指す。
禅心で生きようと目指すのが「禅」なのである。
目指せば必ず、そこに近付いていくのである。
「到達」とか考えるのは余計な雑念である。
ただひたすら目指していくのである。
実はその姿が、すでに「禅」なのである。
その時すでに、肝っ玉は相当太くなっているのである。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:03:16::