<< 文明の羅針盤 >>
人類は70億人に達したようである。
地球はこの人口を抱えて生きていけるのか。
もはや限界を超えているのではないのか。
よほど深く賢明に考えなくては、
どうにもならなくなるのではないのか。
「おまえも生きているだろうが!」と言われるだろうが、
それは確かにそうである。
任務を終えたら、早早にこの世界と別れよう。
任務を終える前に、その時が来るかも知れないが。
だが生きている間は、できるだけ地球に負担は掛けたくない。
自分にできる範囲で、なるべく負担を掛けないようにしたい。
とりあえず自分の場合は、非肉食生活と絶食習慣である。
人類の肉食生活が地球の負担をエスカレートさせているからだ。
ほかの人は知らないが、とりあえず自分は非肉食である。
あとは週に二日くらいの絶食を実践してきた。
だいたい平均すると、それくらいの割合である。
もちろん仕事などの日課は、平常通りに活動する。
白銀の酷寒冬期でも、そういう生活である。
ほかの人のことは知らないが、
とりあえず自分のできることを実践するだけだ。
ところでこのような生活でも、身体に全く支障は無い。
支障が無いどころか、全くの健康体である。
零下22度の寒気の中で重労働する生活でも大丈夫だ。
そういう年月をずっと続けてきたのだが、大丈夫である。
地球が抱える負担は尋常では無いだろう。
だからよほど真剣に考えなくてはならない。
そういう今こそ人類の知恵を発揮すべきである。
その中には、もちろん「科学」もある。
科学の本当の真価が問われる時が来たのだ。
科学の本来の意義が問われる時が来たのだ。
本来の意義と本当の真価を考える時が来たのだ。
そのためには「羅針盤」が必要である。
羅針盤が無ければ、科学は必ず暴走するのだ。
科学は羅針盤と一体となってこそ、
それで初めて本来の真価を発揮するのである。
それで初めて本来の意義を発揮するのである。
ところが科学は、その羅針盤を無視してきた。
それを否定し、対立の姿勢を続けてきた。
意識過剰と思えるほどに、それを蔑視してきた。
もちろんそうでない科学者もいたようだが、
そういう科学者は極めて少数派だったようだ。
なんでそこまで対立を意識するのか分からない。
なんでそこまで意識過剰になるのか分からない。
「科学が絶対だ!科学こそが真実だ!」という、
あるいは「科学が全てを解決する!」という、
そういう自負心が、強烈なのだろう。
自負心は結構なことだが、科学だけを盲信すると、
科学の真髄が分からなくなるだろう。
だから羅針盤を心得た上で科学を進めるべきなのだ。
これまでの科学界は、そういう意識に欠けていたと思う。
羅針盤を学べば、発想が変わるはずだ。
地球にとって、人類にとって、
真に有効な方向へと、発想が変わるはずである。
これまでは、方向が分からないままに科学してきたのだ。
それでは科学が本領を発揮できない。
科学は本領を発揮できずに、葛藤に苦しんできただろう。
もし科学を真に愛するなら、
科学の真意を分かってあげるべきである。
真の科学者ならば、それが分かるはずである。
それが分かれば、飛躍的に有効な発想が生まれるはずだ。
科学はいよいよ、本当の本領を発揮できるだろう。
いよいよそういう時機が訪れたと感じるのである。
「文化」についても然りである。
文化とは習俗のことでは無い。文化とは因習のことでは無い。
文化もまた、洗練の使命を与えられているのだ。
歴史に驕ることなく、人道的洗練を目指さなければならない。
羅針盤に則った、真の文化を目指さなければならない。
人類は進化の使命を背負っているのだから、
当然ながら文化もまた進化を続けるものである。
あるいは「伝統文化」を護ろうとする場合でも、
ただ闇雲に特有形態に固執するだけでは、
ただ漠然と外面的形態を懐古するだけでは、
それでは文化の真髄を護ることはできないのである。
人類進化の視座で洗練を続けてこそ、文化の意義を持つのだ。
文化とは外面的形態ではなく、その奥の内面のことなのだ。
かく言う自分は、山で野営に近い生活を続けた身である。
だがそれが自分の文化だとは思っていない。
それは自分にとって必然的環境であるが、別に文化ではない。
ただその環境で得た「学び」を書いているに過ぎないのだ。
自分の場合は、ただそれだけの話である。
文明とは何か??
便利さを追求してもいいと思うが、
快適さを追求してもいいと思うが、
決して欲望をエスカレートさせずに、
あくまでも「程度」をわきまた状態だと思う。
大自然を侵略することなく破壊することなく、
異種族たちを支配することなく搾取することなく、
地球の異種の命たちに尊厳を認め、
異種の命たちに敬意をもって暮らすことだと思う。
それが本当の文明だと思うのだ。
文明の進化というのは、そういう状態に進むことだと思う。
だから、そういう状態に進むことを目指す意識が重大だ。
その意識に目覚めた時、人類の本当の進化が始まると思う。
はるか大昔から羅針盤には、そういうことが説かれていた。
ちなみに仏教は、科学を否定していない。
それどころか、自然体で科学を包含している。
ただしそれは、真に有効な科学のことである。
あくまでも地球調和から逸脱しない科学のことである。
そして肝心なことは、この世には「可思議」の領域と、
そして「不可思議」の領域があるということだ。
科学はあくまでも、「可思議」の領域に属するものだ。
「可思議」の領域に属するものを、科学と呼ぶのだ。
科学はそれをわきまえておかねばならない。
科学がそれをわきまえずに「不可思議」を否定すれば、
その時点で科学は科学領域を逸脱することになる。
科学は「科学宗教」へと逸脱するのである。
そうなると世の中は荒廃するだろう。
「可思議:不可思議」も了解できないとなると、
進むべき道から脱線するのは当然の話なのだ。
だから科学は、自らの領域をわきまえるべきである。
羅針盤の声に耳を傾ける姿勢を忘れてはならない。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:05:20 ≫