<<野性界>>
「野性界」という言葉について書くことにする。
これは人間が見る「野生世界」のことではない。
野生世界の奥に隠された未知の領域のことである。
この「未知」というのは人間にとって未知ということだ。
単なる「生態観察」を続けても知ることのできない領域のことだ。
それが単なる生態観察ならば、
そこはただ過酷なサバイバル世界にしか映らないだろう。
確かにそこは、凄絶過ぎる過酷世界なのである。
だがそこには、人人の知らない別の一面が隠されている。
生態観察では知ることのできない別の一面が隠されている。
それが「野性界」のことである。
狼の太郎は、その領域を教えてくれた。
野生動物記録映像には映らない領域を教えてくれた。
その領域は、あまりに深すぎて、言葉にはできない。
野生世界の狼は、猛獣の立場である。
その精神も肉体も極限まで研ぎ澄まされた闘士である。
生死を賭けた野生環境では、それは事実である。
だがその世界を離れた時、隠された別の姿を見せる。
誰にでも見せるわけでは無い。
魂で共感できる者だけに見せるのだ。
支配意識が心に一片でも残る者には見せないのだ。
「人間の驕り」を心に隠し持つ者には見せないのだ。
魂で共感した者だけに、狼は別の姿を見せるのである。
その別の姿とは、海よりも深い心魂のことである。
太郎は私に、野性界の心魂を教えてくれたのだ。
だから私は山で熊や猪を見かけても、
その迫力の身体の奥に、荘厳な心魂を直感する。
あらゆる動物たちに、いつも荘厳な心魂を直感する。
昨日は夕方に、森で猪家族と至近距離で出逢った。
目の前を、大きな母猪と子猪たちが横断していった。
母猪の直後に四頭くらいの子猪が連なっていた。
もう子猪たちの被毛は茶褐色になっていた。
子猪たちは私の想像どおりに成長していた。
痩せてはいなかった。健康状態は良好だった。
なんと可愛かったか!言葉にできないくらいだ!
あの猪家族に囲まれて寝れたら、どんなに幸せか!
彼らの純情無垢な心魂が、この胸にありありと伝わった。
猪たちは山の調和の維持に絶大な貢献をしている。
どれほど貢献しているかを人間が知らないだけだ。
猪に限らず山獣たちはそれぞれに、
自然界の維持に絶大な貢献をしている。
その自然界を人間が利用し尽しているのである。
そろそろ人間は「真の貢献者たち」を知るべきだろう。
貢献しているのは「人間ではない」ことを知るべきだろう。
人間たちは、ただただ「消費」してきただけなのである。
それは消費というよりも、莫大な「浪費」である。
貢献者たちの命懸けの努力も知らずに、
好き放題に浪費してきたのだ。
山獣たちは、ほんとうに慎ましく暮らしている。
それに較べて人間たちの、なんと贅沢な暮らしか。
私はテレビが無いから普段は見ないが、
たまに仕事先で見ることがあるが、
テレビに溢れる好き放題の贅沢に唖然とする。
ひたすら消費を煽る番組ばかりではないか。
テレビを見ていつも思うのは、
山獣たちの慎ましい暮らしと命懸けの生涯だ。
その山獣たちを、人間社会は敵視している。
山獣を見かければ、「危険だ!駆除しろ!」と言う。
あるいは、「食っちまえ!追い詰めろ!」と言う。
いったい、どこに「愛」があるというのか?
それとも人間は、人間しか愛せないのか?
ところで狼は、犬とは違う。
犬と似ていると思うかも知れないが、全く違う動物だ。
「似たようなものだ」と思う人は、狼を知らないということだ。
もしも狼が犬と似たようなものだとしたら、
狼はとっくに「犬:伴侶動物」になっていたのである。
だが未だに狼は「狼」として現存しているのである。
ある種の狼ファンたちは、狼に「フレンドリー」を求めるが、
さらに「万人受けするフレンドリー」まで求めるようだが、
私にはその狼ファンたちの心境がさっぱり分からない。
狼にフレンドリーを求めるということは、
狼に「犬」を見ようとしているだけであり、
実は狼を否定しているようなものなのだ。
狼には、人間に隷従する義務など一片も無いのである。
もし狼が相対する人間に「警告」すれば、
その「警告」だけでも、人間にとっては脅威になる。
その人間は「攻撃された!」と勘違いするだろう。
周囲には「襲われた!」と報告するかも知れない。
狼の警告レベルでさえ、人間にとっては恐怖なのだ。
おそらくその狼ファンたちは、「狼の警告」すらも嫌うだろう。
だがそこまでいけば、単なる人間の身勝手である。
それならば最初から「犬:伴侶動物」を選ぶべきなのだ。
それなのに、狼を利用して「狼犬」を作ろうと試みる。
世界には、そういう種類の狼ファンも多いようなのだ。
もちろん狼は、愛情に満ち満ちた動物である。
だがそれと同時に、闘士であり猛獣である。
そして人間に隷従する義務など無いのである。
狼に「服従フレンドリー」を要求する心境とは、
人間特有の支配意識から生まれるものだと思うのだ。
狼が「別の姿」を見せる相手というのは、
狼が魂で共感する相手というのは、
狼に八方美人のフレンドリーなど期待しないのだ。
もし狼との真の共感が理解できれば、
ほかの動物たちとの共感もできるはずだ。
もちろん「犬」との共感もできるはずである。
だが狼に身勝手な要求を発想する人は、
ほかの動物にも身勝手な要求を発想するだろう。
もちろん「犬」に対しても同様な発想をするだろう。
そして大自然に対しても、同様な発想をするだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:01 ≫