**猛き純情**
 
「一代一主」という言葉がある。
昔は日本犬世界でよく使われた言葉だ。
この意味は深いので軽軽しく説明はできない。
単に「主人にしか懐かない」とか、
単に「主人だけに忠実」とか、
それだけでは言葉不足になってしまう。
もっともっと奥深い意味が隠されているのである。
 
今の世間はやたらと「社会性!」と叫ぶ。
犬に対しても「万人受け!」を求めている。
どこの誰に対しても、どんな扱いに対しても、
いかなる状況でも「従順」であることが求められる。
理不尽な仕打ちに対して「抗議」さえも許されない。
そんな素振りを見せただけで「悪犬!」の烙印を押される。
そこで「社会化訓練!」なる言葉が登場してくる。
「犬愛護」の世界でも、そういう言葉を頻繁に見かける。
「誰にでもフレンドリーな良い子!」に仕立てようとする。
そうすると人間側には見えない悲劇も生まれてくる。
本物の愛情があれば、主人に懐くのは当然だが、
だがそれを「どんな誰に対しても!」と拡大解釈するから、
だから起こらないはずの問題も起こってくるのである。
 
犬は本来、信じた相手に忠義を尽くす。
「信じた相手に」・・ということだ。
信じることのできない相手に、
なんでフレンドリーになれるのだ。
ましてや犬は人間よりも感覚が鋭敏だ。
相手の内面を格段に鋭く見抜くのである。
たとえば相手の邪険な気配を見抜いたとして、
それでも相手に「しっぽ振り振り」できるというのか。
そんなことができるとしたら、それは逆に異常である。
そういうことまで世間が犬に求めるから、
いろんなアクシデントも起こってくるのである。
無理矛盾を平気で犬に求めるから問題も起こるのだ。
そろそろ、そういうことを、真剣に考えた方がいい。
 
たとえば人人は犬に「番犬性」を求める。
犬は家というテリトリーと家族を、外部から護ろうとする。
だから本来は、外来者に対して警戒を続けて当然なのだ。
その「警戒を続けた状態」を、家人が認識すべきなのだ。
これは大袈裟に構えるという意味ではなく、
自然体で犬と外来者の間の気配を観察するという意味だ。
もしも気配が危うくなりそうなら、即座に「間合い」を離すことだ。
あるいは、時には犬を「ケージ」に隔離する場合もあるだろう。
人人が少しでも犬に「番犬性」を求めているのなら、
そういうことならば、これくらいの認識と配慮は必要なのだ。
ところが近頃では、この程度の認識と配慮も忘れられている。
テレビや商売人の妄言虚言を鵜呑みにして、
あたかも犬を「お人形さん」のように考える人が増えたようだ。
だから起きなくてもいいことが起こってしまうのである。
インターネットでも「いい子自慢!」が花盛りのようだが、
実は犬にとっては「いい迷惑」な光景も一杯あるのだ。
犬は愚痴などこぼさないから「困惑」と呼んだ方がいいだろう。
ところが、もしも犬が侵入者に対して何も対処しなければ、
人人は「なんてバカな犬だ!」と呆れるのである。
人人は犬に対して、いつも矛盾を突きつけているのである。
犬に矛盾を突きつけていることに気づかないのである。
 
基本的に犬は、信頼できる者に心を許す。
その人だから、だからこそ、心を許すのだ。
その犬の信義の重さを、人間は軽く見すぎている。
あまりにも人間は、犬の信義を軽軽しく扱っている。
「その人だからこそ・・」という心境を全く見ていない。
犬にしてみれば、それは本当に悲しいことだ。
確かに、誰にでもフレンドリーな犬はいる。
近頃は、そういう犬が多いのかも知れない。
だが、そうではない犬もいることを、知った方がいい。
これは「狂暴」という意味では無い。
他人に攻撃的な犬のことでも無い。
そんなことは当たり前の話である。
狂暴ではなく、「信義に生きる犬」という意味である。
己の信じた人間だけに心を許す犬も、いるのである。
そしてそういう犬は、正真正銘に、命を賭けて主人を護る。
何の訓練も受けなくとも、命を賭けて主人を護るのだ。
彼らの信義とは、そういう信義なのだ。
人間が思うような軽軽しい信義とは、わけが違うのだ。
そういう犬の心境を知らずして、犬と対話することはできない。
全身全霊で犬と対話していけば、
軽軽しく「誰にでもフレンドリー!」などとは言えなくなる。
 
「日本犬標準」に次のような言葉がある。
日本犬ファンなら誰でも知っている言葉である。
**悍威に富み良性にして素朴の感あり**
「気迫と威厳に満ち忠実であり虚飾と無縁」という意味だろう。
だがこの「良性」という解釈は非常に難しいのだ。
人間の都合主義による勝手気ままな解釈だと、
この「良性」の意味がどんどん歪められていく。
飼主がどれほど理不尽で冷酷な仕打ちをしても、
日本犬は絶対に飼主に牙を剥かない、
などと解釈するなら、
その人は永遠に日本犬と対話できないだろう。
日本犬のみならず「犬」と対話できないだろう。
というか理不尽で冷酷な仕打ちをする人間は、
そもそも飼主でも主人でも無いのである。
たとえば日本犬にとっての主人とは、
「信じることのできる人間」なのである。
今は亡き我が家族の北極エスキモー犬たちは、
この「悍威に富み・・・・・・」という特徴を、
おそらく日本犬以上に強烈に備えていた。
それは本当に強烈だったのである。
だが彼らは私を信じてくれた。
私を父と仰いでくれた。
私は彼らの「猛き純情」を忘れない。
 
 
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**POLAR・ESKIMODOG:北極エスキモー犬**
「王嵐:OLAN」 1994年。1歳前。まだほんの子供である。
この成長期で「43kg」くらいだった。骨格はどんどん重厚になっていく。
 
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1996年。朝の運動を終えて。犬ゾリ運動の時にはハーネスを着用する。
 
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2003年。10歳の頃。まだまだ元気満満で運動した。
太っているように見えるかも知れないが、これは筋肉である。
実際に見ると、筋肉体というのは、格段に迫力が違う。
普段は彼は犬舎にいたが、気温的に犬舎の方が快適なのだ。
なにしろ氷点下20度でも、彼には「いい感じ!」なのである。
しかし時どき家に入れて一緒に寝た。
私が彼の犬舎に入って一緒に寝ることも多かった。
「同じ空間で一緒に眠る」というのは非常に大事なのだ。
大きな彼を家に入れると、まるで熊さんがいるようだった。
彼はいつでも落ち着いていて、私との約束を守ってくれた。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:02:28 ≫