2011年3月11日なにしてた?ブログネタ:2011年3月11日なにしてた? 参加中

きのうに引き続き、

きょうも東日本大震災をモチーフにした朗読劇にでかけてきました。

考えてみたら、美術館のコレクショントークも「萬鉄五郎」だったので、
「地震の印象」という絵があったんですね。東日本大震災ではなく、関東大震災なのですが。
そういうものにふれていると、自分の3月11日を思い出します。

3月11日の東日本大震災、私は盛岡市にいました。

町なかのレストランの帰りで、県庁前のバス停でなかなか来ないバスを待っていました。
県庁から黒っぽいスーツ姿のひとたちがわらわら飛び出してきて、どうしたんだろう、と思いました。
地震があっただろう、と言われそうですが、たしかに地震はあったのですが、そこまで大きな地震だとは感じられなかった。

それからバスはずっと来なかった。
私はバス停の椅子に座って待っていた。
ケータイが不意に鳴った。



「もしもし、菅ちゃん?大丈夫?いまテレビ見てたら大変なことになって…、」
それは大阪の赤阪さんからの電話だった。阪神淡路大震災を体験している赤阪さんは、ほんとうに心配だ、といい、なにかあったら電話して、と言った。
バスは物凄く遅れてやっときた。
そして少し走っては止まった。
電柱がぐにゃぐにゃにみえた。
四角いはずのカメラやの壁も波打っていた。
信号が消えていた。
鈍い私もだんだん、息子を迎えに行けるんだろうか…と心配になって来た。

バスから降りて、自宅まであるく。家の中のものは特に落ちたり、毀れたりしていなかったように見えた。

大きな柱時計だけが止まっていた。この時計はボンボンなる時計だったが、地震のあとは進み方が早くなったり遅くなったり、
3時に4回鳴ったりしたので、12時に13回鳴るかと思ったがそれはなかった。いまだに直らない。直さなくてもいい気さえする。

息子を迎えに行った。車に乗せて、コンビニに寄ってお弁当を買うことにする。食料の不安というより、ひとがいっぱいいるところにいたほうが心配が減る気がしただけかもしれない。お弁当を買って、家に帰って、そのときはファンヒーターしかなかったので、電気がないと手も足もでなかった。

寒かったはずだが、非常時のハイ状態というものもあり、蝋燭をつけておしゃべりをして、ふとんをありったけ重ねて寝た。夜寝る前に友達から電話があった。電話が終わったら、ケータイのバッテリーも切れて(当時はいまみたいに外付けの充電バッテリーをいくつももっていなかった)、そこから電力が回復するまで連絡は一切取れない状態になった。でも連絡が取れてもなにもできないし。

この日はまだ地震がそこまで大変なものだとは思っていなかったから、あしたになればきっと停電は終わっているだろうと思って、そんなに押しつぶされるような不安はなかった。

大変だったのは、灯油もガソリンも不足して、それを買いに並ぶ時間も人手もないという、そこから1か月くらいの間だった。
いつまでつづくかわからない非常事態は、気持ちが落ち着かない…。
3月11日に息子を迎えに行くことができて、その日の夜から家族と一緒にいられて、
今思うとそれは非常に心強い、ありがたいことだった。


5年前を振り返ってみました。
東日本大震災では岩手福島宮城の3県がクローズアップされますが、
岩手といっても私は内陸なので、八戸や千葉や茨城の海沿いの人の方が大変だったかもと思ったり、
都心でも帰宅困難者になったひとたちがいて、大変さは地域だけでは塗り分けられるものじゃないよなあと思う。