魔女菅原のブログ-image


盛岡ゼミ、

カフェ・トーク「盛岡ゼミ2013」~盛岡に残したい文化と歴史~

vol.8「盛岡の建築家」、


今回で8回連続出席しておりまする。


途中、仕事を探そうと思ったり、父のことでこれから

先どうなるかわからない、と思ったりして、


続けられるとは思いませんでしたが、

よかった、続けられて。


私を含めて5人くらいが常連で、あとは1,2人ふえたり減ったり。



私は盛岡がすき!だいすき!と言ってここに

居ついたわけではなく、


9年前当時の配偶者が盛岡に転勤が決まったので、

のこのこついてきただけである。


盛岡は独身時代の後半、20代半ばから30代前半のあいだに、

友達が住んでいたり、映画や催事などで遊びにきていた町で、


(イザベル・アジャーニの「アデルの恋の物語」を見にきたことがあって、

「入れ替え制」という言葉を知ったはじめだった。入れ替え制、いまではふつーですよね)


自分がそこに住むことになるとは思っていなかった。


映画館は実家のある水沢でもあるにはあったが(いまはもう無い)、

「極道の女たち」封切とか、ちょっと昔の名画、たとえば「


盛岡に引っ越す前の半年ほどは、母の手術や自宅介護、

葬式などがたて続き、そこに引っ越しだったのでもう勘弁して、というのが

本音だった。


その前に住んでいた青森のことがだいすきだったので、

(冬の一日数時間の雪かきさえなければ、一生青森でもいい!

というくらいだいすきだったのである)


盛岡に転勤になって大喜びしている配偶者には冷ややかだった。

元配偶者は20代の頃に盛岡勤務だったといい、その頃がよほどいい思い出だったらしく、

盛岡に転勤になればいいことづくめだと思っていたらしい。


現実は若いヒラと中間管理職ではまったく違うわけで、

そのうち職場の愚痴がふえ、酒量がさらに(さらに!である)ふえ、

次第に夫婦間の溝も深まっていった。


34歳で結婚して38歳で息子がうまれ、43歳で社宅をおん出て離婚に向けて

別居した。


私が盛岡がすきになったのはその時からである。


盛岡劇場は私が家を出るきっかけのきっかけを与えてくれた

全日本わんこそば選手権の会場だった。


その盛岡劇場の設計が、辰野葛西設計事務所、

ありていに言えば盛岡出身の建築家、


葛西萬司である。


この旧岩手銀行中ノ橋支店の設計も

葛西萬司で、きょうは盛岡の建築家ということで、

葛西萬司、横濱勉、小野次郎が戦前の三大建築家だと

知った。


魔女菅原のブログ-image


横濱務設計旧第九十銀行。


現在はもりおか啄木・賢治青春館として

活躍中。




魔女菅原のブログ-image


きょうはクリスマスリースが出ていました。

ここのカフェ「あこがれ」はほんとうにすてきなので、

機会があったらぜひ!とお勧めしたいです。



魔女菅原のブログ-image



盛岡に住んで9年ですが、盛岡についてもっと知りたいと

思い始めたのはここ2、3年のことで、


マラソンの練習で町中を走っているからだと思う。


「盛岡の彫刻家」のときも、市内にある彫刻の数々について

知ることができてうれしかったけど、


もし私がマラソンをしていなかったら、目にすることのなかった

彫刻も多々あり、


また美術館ボランティアを思い切ってはじめていなかったら、

舟越保武さんの彫刻についても無意識だったと思われ、


ほんとうにいろんな偶然が重なって、

盛岡ゼミまで私を導いてくれたんだなあと。



魔女菅原のブログ-image