今も助手席にはゴンがいます。
父はいつも後部座席、
菜々ちゃんはお留守番、
なので、
助手席はこれからもゴンの指定席です。
今日は父の透析日でした。
病院に送った帰り市役所に用事があり菜々ちゃんを連れて行こうかとも思いましたが、12月に入ったというのに20度近い気温、ほんの少し車を離れた時間がありましたが、戻ったら車内はかなり暑かったので、まだまだ外が本当に寒くなって曇りのような天気の時に菜々ちゃんを乗せて出かけようかと考えています。
いつになるかは分かりませんが。
2023年10月19日のゴンブログをコピペしました。
ゴンと別れ10日後に書いたブログです。


いつもとなりに。

母は父と結婚する前、少しの間結核を患っていました。
晩年の母のレントゲン写真にはいつも肺に石灰化した小さな影が映っていました。
その時の名残りです。

母は知多半島の南端に浮かぶ篠島の出身です。
母には、はたち離れた兄がおりまして、そのお嫁さん(ゴン兄の伯母)がとても気丈な人で、母は起きてから寝るまでその伯母に色々と仕込まれました。伯父伯母夫婦には7人の子供がおり、母は常に彼らの子守をさせられておりました。近所のおばさんが、あんたの背中が空いているのを見たことがない、と哀れんでくれたそうです。父が母と見合いをするため母の実家を訪れたとき、母を8人姉妹の長女だと勘違いしたそうです。
当時、22歳の母は島の中では売れ残り、はたち前にはお嫁に行く、そんな時代だったのです。24歳だった遊び人の父が周りから身を固めろと言われ、母と見合いをすることになりまして、母の実家は漁師の網元をしており、祖父は当時島のまとめ役でしたので、そこの次女であれば間違いないと勧められ、一緒になったそうです。
母は島から連れ出してくれるのであれば誰でもよかったそうです。
父は当時、名古屋の会社に勤めておりましたので。
話を戻します。
過労もあり母が結核になった時、祖父は知多半島南端にあった山田病院に母を入院させました。
せがれの嫁に日ごろからきつくされている娘を見かねて、母を島から離れた場所で静養させてやりたかった思惑もあったようです。
当時の病院長が祖父の友人で、わかった、そういうことならお前の娘を預かろう、そう言ってくれたそうです。
今は南知多病院と名前を変えたその病院の前を通る時、母はよくその話をしました。
あの1ヵ月は、本当にゆっくりできた、のんびりできた、と。
その病院に差し掛かる少し手前のまっすぐな国道がゴン兄は好きです。
左手に丘、右手には知多湾を望む、どことなく北海道を思わせるようなまっすぐに伸びた一本道。
ほとんどが岬と入り江を交互に走る半島のドライブにあって、ここだけはそうではない景色。
そして、母の思い出と、潮風と。
ゴンとの知多お遍路の折、ゴンにその話をよく聞かせました。
この病院にお母さん、若い頃入院してたんだって。
ゴンはじっとゴン兄の話に聞き入っておりました。
2年前の5月にスマホに変えてから、その1本道を通る動画を3本収録しました。
そのいずれの動画にも助手席にはゴンが写っており、今もその時々の記憶が鮮やかに蘇ります。

2021年10月15日


2022年12月1日。


2023年8月22日。