こんばんは
あの日から一年が経ちました。
高校を卒業して、第一志望の大学へ合格してこれからというときに起こった地震。
思い返してみるという意味で、いつもより長く書いてしまうのでお許しください。
私の実家がある場所は震度6強を観測しました。
発生の約5分前、私は母と大学へ書類を出しに郵便局に行きました。
それから近くの祖父母の家に向かいました。
祖父母の家に到着し、車を降りた瞬間自身は起こりました。
最初はちょっとした地震だろうと思っていたのですが、揺れが激しくなり立っているのも困難で必死で車にしがみつきました。
周りの家が揺れ、道路が波を打っているのが目に見えて、早く収まらないかそればかりを考えていました。
祖父母は幸いにもケガはありませんでしたが、家の中は棚の中の道具が倒されぐちゃぐちゃになっていました。
少ししてケータイで地震についての情報を見ると、宮城では最大で震度7を観測したとあって、ただ事ではないと感じました。
祖父母宅のテレビは揺れの衝撃でテレビが付かなくなり、ずっとラジオを頼りに情報を集めていました。
その間にも、数えきれないほどの余震が続きそのたびに外へ出ていきました。
私は高校を卒業していたのですが、小学生の妹はまだ学校で授業を受けている時間帯です。
母は揺れが収まったのを見計らい、妹を迎えに小学校へ行きました。
学校から帰ってきた妹は上履きのまま、ランドセルは学校へ置いたままで手提げだけ持っていました。
妹が帰ってきたので、祖父母の家をあとにし自宅へ戻ろうと車に乗りました。
祖父母の家と私の実家は、車で片道10分もあれば着くのですが信号は止まり道路は大渋滞。家に着くまでに相当の時間が必要でした。
夜になり父が帰宅し、やっと家族の無事がわかったところで、ライフラインはすべて断絶。
確か復旧したのが電気が2日、ガスが5,6日、水道が一週間少しでした。
電気が通った日、ケータイを開くとそこにはたくさんのメールが受信されていました。
ほとんどが地震発生直後に送られた、高校の友達からの無事の確認のメールでしたが、大学で東京に住む先輩からのメールもあり、どのメールも無事だということがわかりほっとしました。
ただテレビを見ると、画面に映るのは東北の津波の映像ばかり。私の想像よりも、日本ではこんなに大変なことが起こっているのかと思い、ただただ唖然としていました。
テレビでは東北地方がメインで映し出されていますが、茨城でも津波で家を流されたかたはたくさんいます。液状化で地盤沈下した地域もあります。東北の被害を考えると声を大きくして言えませんが、茨城や隣の千葉も被災地だということ、そこも忘れないでほしいです。
どのチャンネルをつけても津波ばかり、そこに少し遅れて届いた新聞。開いてみると宮城の東松島市のことが大きく掲載されていました。
パソコンで見た情報がふと頭によぎりました。
パンサーの尾形さんが東松島市のご両親の安否がまだわかっていないこと。
ツイッターやブログを見て、尾形さんのご実家が津波で流されたこと、波が引いて跡形もなく流された場面、それを尾形さんはテレビで確認したこと。だけどご両親とは連絡がついていないこと。
そのほかにも、芸人さんだけではなく多くの芸能人のかたが、たくさんの人たちがご両親や親戚のかたや友達の安否がわからないことを知りました。
家族がいて、近所の人も、友達も無事である私がどれだけ幸せなことか思い知らされました。
今はこうして地元を離れ一人暮らしをしている身ですが、この間にあのような大地震が起きたら私はどうしているか予想できません。
どれだけ家族や周りの人たちのつながりが大切なのか……誰かがいるからこそ今の自分がいること、そう気づかされた一年でした。
大学で私のいる専攻は、たくさんの留学生が在籍しています。
震災以来放射能などで母国のご両親や友人に帰国しろとたくさん言われた、と留学生の友達は言っています。
それでもあちこち出回るデマに流されず、日本で生活する留学生の友達には頭が上がりません。
これで日本人がへこたれたらどうするんだ、と大学へ入ってからたくさん思い考えるようになりました。
震災から一年、私の周りはめまぐるしく変わりました。
それでも負けたくないという気持ちは変わりません。
今できることを、これからも何年先も継続していきます。
震災で亡くなられたかたにご冥福をお祈りします。
少しでも希望が見えますように。
そしていつの日にか、日本が復興する日を信じて。