魔女のささやき
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Whisper.9インターネットの憂鬱その2

一時期オークションにはまっていた時期があった。偽物をつかまさたのがきっかで、足を洗うことが出来た。騙された時はショックだったけれど、今にして思えば授業料。人間、一度は痛い目をしてみるものだし、以来、ネットショッピングをする時は、慎重になった。文字だけ羅列しているようなサイト、買い物カゴの設置のないサイトは疑ってかかる。お金をかけていないサイトは怪しい。

しかし、最近、本サイトと見分けがつかないサイトで、カードの暗証番号など個人情報を入力させるファーミング詐欺というのもあるらしい。他にも、個人情報流出、ウィルスメール、ワンクリック詐欺、個人攻撃、集団自殺等々、インターネットの弊害は多い。チャットやBBSなども恐ろしい。匿名性を良いことに、言いたい放題。得体の知れない巨大なアメーバ怪獣が暴れているような印象を受ける。対照的に、自分の趣味である写真、絵画などを披露したり、素材や壁紙を無償で提供している人のサイトを見ると、つくづく、インターネットの二面性を感じる。他人の悪口を書き込んでいる暇があったら、その人個人しか持ち得ない才能を磨けばいいのにと思う。

魔法のランプの使い方を間違えれば、明日にも地球最後の日がやってくる。

Whisper.8インターネットの憂鬱その1

インターネットをはじめて8年になる。当初の希望はというと、インターネットを通じて知り合った人たちと何か創造的なことをしたいというものだった。サークルに入会したり、映画関係のサイトでボランティアスタッフ(この言い方は変。無料奉仕つうだけのこと)エッセイを書いたりした。

この経験で実感したのはメールのみでのコミュニケーションの難しさ。誤解を招いてしまったり、不満を抱いてしまったりしたことが何度かあった。「面と向かって話しすること」って重要なことなのだ。

余談だが、声をミュートで字幕スーパー付の映画を観ても、つまらない。

「音」によって伝わる臨場感、「声色」による感情表現の果たす役割は大きいのだ。

人間の体調や言葉の裏にある心理などは、メールでは計り知ることは出来ない。

顔色、声のトーンなどは相手を知る上での重要な情報源となる。

現代は隣に居るのにメールを送るような時代。無口なのにメールだと別人のように流暢な文章を書く人もいる。いつでもどこでもメールに興じる人の多さは、人恋しいけれど、自分のテレトリーは守りたい、一線を引いたコミュニケーションに満足する現代人気質を露呈している。

メル友からの連絡が突然途絶えた経験ありません?

私は、二、三回ある。新しい友人を得たと思い、相手もいろいろ話してくれていた。新しい友人が出来たと喜んでいた。それなのに、ある日突然メールの返事が来なくなってしまう。何度かメールしても返事は来ない。何か気に障ることを書いてしまったのだろうか、鬱陶しくなってしまったのだろうか。意見するのも面倒くさいし、「うざい」とも言えない。なら、返事をせずにうっちゃっておくのがベストと相手は結論づけたのではないか、と想像する。

それは面識のある人間関係では、有り得ない事だ。意見が対立したとしても話をして誤解を解き、交際を続ける努力をする。気に障ったことが何なのか聞きたいと思う。

でも、そういうのが嫌なのだろう。面倒なこと、余計なことに関わりたくない、これも現代人気質。責めることは出来ない。自分がそうならないとは言い切れないから。

 

Whisper.7しょせんカマキリ

「いつでも恋をしていたい。」

と言う女性は多い。

その願望は、男が欲しいというよりも、「自分がより美しくあるために」という心理が働いている。

 

「いつまでも若くあるため」「いつまでも美しくあるため」に男の存在は必要なのだ。好きな男がいれば、女は美しくなろうと努力するし、おしゃれにも気を使う。

女優は見られることで美しくなる。女は恋することで美しくなる。どちらも鑑賞者(対象者)の存在抜きは考えられない現象だ。

整形よりも「きれいになるぞ心理」のパワーの威力の方が勝っているのだ。

分泌される物質は「不老長寿の薬」並みの効力があるのではないかと思う位。

 

綺麗になるため、子孫を残すために利用されてしまう男性、もっと大切にしてあげるべきかもしれない。三歩下がって歩き、三つ指ついてお出迎えくらいしてあげなくちゃ。しかし、夫は380円の昼弁、妻は友人と3000円のランチというのが現実。おまけに休日は粗大ごみ扱い。

しょせん女はカマキリなのか。

 

Whisper.6「女の子」と「おばさん」

「おばちゃんにお礼を言いなさい。」

と主婦が子供に言っている。そういった情景に出会うたび、疑問に思う。

若ければ「おねえさん」年配なら「おばさん」顔見知りでも、「○○ちゃんのおかあさん」というような呼び方をしてしまう。世間というものが、個人ではなく、その人の年齢的外見や置かれている立場で判断してしまう傾向は、そんな呼び方にも反映されている。人間対人間において個人名で呼びあうのは大切なことだと思う。見知らぬ人なら兎に角、「鈴木花子」さんとか個人名で呼ぶようにした方が良いのではないだろうか。自己主張しない国、日本を形成しているのはこんなことが原因していると思うのは考えすぎかもしれないが。若い時は「女の子」と呼ばれ、ある日を境に「おばさん」と呼ばれ、「花子さん」とは呼ばれずに終わる。そんな人生は味気ない。


「よーく考えよ。名前は大事だよ。」

 

Whisper.5-結婚の錯覚

出来れば、人はいろいろな経験をした方がいい。結婚も経験のひとつ。しないよりはした方がいいような気がする。たとえ失敗に終わっても。でも、最近、結婚は若いうちじゃないと出来ないのではないかと思うようになった。その恋が運命の恋と信じて、自らの情動に身を任せて突っ走ることが出来る若さがあるうちでなければ。年をとればとるほど、悲しいかな、情動は薄れてゆくし、守りに入ってゆく。相手が「より良い半身」であるという保証も無いし、自分の時間や生活に他人が介入してくる煩わしさとか、余計な事を考えてしまうからだ。恋愛感情というものは持続が難しい。結婚してニ、三年して、子供が生まれ、お互いパパ、ママと呼び合うようになれば、その呼び名のとおりになり、男女ではなく、肉親的な存在へと変化してゆく。恋愛対象を求めるとすれば、妻や夫以外の人間になってしまうだろう。新しい恋をしたって、それが醒めないとは限らない。そもそもエロスの介在する男女間の情愛に、アガペー(精神愛)なるものを永遠に求めることには無理がある。恋愛感情が無くなってしまうことは寂しい。しかし、愛情が時間の経過とともに姿を変えてゆく現象は、ごく自然な成り行き。
熱情は醒めても、同士愛は普遍。幾つかの試練を乗り越えた夫婦は、運命の恋でなかったとしても、究極の同士愛が生まれるのではないだろうか。それは結婚の錯覚を補って余りある。老人になっていたわりあう夫婦の姿ほど、羨ましいものはない