今回は米教の解説とは少し離れます。

さて真我と聞けば、胡散臭い宗教的な物であるとイメージする人が多いかもしれません。

ヨガとか仏教などでは、自我(執着や愚かさ)やカルマを超えた存在を真我と
呼びます。五井正久氏もそれと同じような説明をしている思います。

米教が仏教的な解脱を目指すかは置いといて、解脱の説明をします。

まず、この世は苦界です。
この世は喜びに満ちあふれて見えるように見えますが、それも苦の原因です。
愛しい存在にあえばその愛に執着し、その別れに苦しみ、
憎んでいる存在に会えばあれば、それに苦しみます。
これらの原因はエゴです。

喜びがあればそれに執着し、それがなければ苦しみます。
苦しみがあれば、それに対して怒りや恐怖に苦しみます。それも執着の一つです。
すべての存在が無常であるにも関わらず、それに執着する愚かさが
人間の苦しみの元です。

これらの執着や人愚かさを煩悩と呼びます。

煩悩をなくせば、一切の苦から離れることができるというのがヨガや仏教です。
それが解脱です。

そのための修業なのですが、

真我への道
↑のページはヨガのページですが、功徳や懴悔について書かれています。

修行といえども、山に篭ったり瞑想するだけが修行ではなく
己の行いや心を振り返ってみて、悪い所があれば懴悔する、
というのも行です。
上記のページはクンダリニーヨーガについても説明されていますが、
独学での試みは危険とされています。


自分の罪業のカルマを消すためには功徳を積むのが良いらしいです。
陰徳と呼んで、人に知らせずひそかにする善行です。
匿名の寄付などです。

ヨガは解脱(執着や愚かさ)のために功徳をつんだり、
悪いカルマを作らないように悪業を積まない = "戒律"というような
一種、利己的見えるような目的で善を行うということがあるようです。

しかしながらその思想は人に褒められて、名誉欲を満たしたいから善をするとが
根本的に離れていて、解脱するため(執着、自我を超えるため)のプロセスとして
功徳や戒律があると考えられているようです。