職場で小耳にはさんだのだが、巷では就職率の悪い人文学部を廃止しようという動きがあるらしい。僕としては、それが正しい選択なのか間違いなのか、ちょいと分かり兼ねているところだ。中の人ではないので良く分からないが、事実、人文学部の就職率は低いらしい。だとするなら、経済的観点から見て、自業自得の借金地獄に陥っている日本政府が、助成金をカットとか言い出すのも頷ける。


そのような現実があるものだから、僕としては非科学的な学問最後の砦である人文学部を擁護するようなことを書く気にはなれない。大学という場所そのものが、所謂エリート層の養成という役割をすて、技術職生産工場になってから久しいからだ。民間企業同様、大学の価値を決めるのは、いまや種々の数字であり、コンテンツではないのだ。卒業生の就職率という数字は、学生を勧誘し、学費という大学運営の大半をまかなう収入源を確保するための重要なファクターとみなされる。このビジネスモデルは、実のところ、近代的な大学というよりは、現代の学習塾に近いものだ。


そして、往々にしてこのファクターは学生本人より保護者や教師によって気にされるに違いない。学びたいことを学ぶ――これはエリート/金持ち学生の姿勢である。現在、学生の大半を占める下層階級の学生にはそんな贅沢は許されていないのである。社会システムおよび伝統的価値観に基づく社会的プレッシャーは、学生本人の「学びたいという意欲」を前面に押し出しつつ、裏側から「就職率」というナイフを突きつける。これは、実のところ学生本人が自分の学費すら、奨学金という借金を背負うことでしか支払えないという現実からの要請でもある。このように保護者、国家制度に依存した状態では、学問などにうつつを抜かしている余裕などないのだ。要するに、この国における進学は(途上国のそれとは違い)成功への切符などではなく、必要な投資、職を得るための必要経費となっているのである。そういったことに敏感な学生は、学問ではなく技能としての知識を学ぶことを選ばざるを得ないので、将来的に人文学が衰退していくことは間違いない。


以前は、大学を出てから投資が始まった。その頃は裕福なものしか大学に行かず、彼らは大学に行かなくとも成功を保証されたも同然だったので、そんなことが可能だったのだ。今では、貧乏人ですら、なけなしの財産を投資して大学に行かなければ、商品価値を持ちえなくなってしまった。そういう意味で、純粋な労働者というものは、もはやほとんどいない(海外では、それは移民を意味する)。我々は生まれた瞬間から資本主義のゲームに付き合わされることになっているのだ。休み時間はない。そういう意味では、学ぶのが難しくとも、一度路線に乗れれば成功が約束されている、進学率の低い途上国の人々のほうが学びによって得られる対価は大きいだろう。我々にとって学問とは、履歴書の一行に過ぎない。教育機会の均等化というのは、見方を変えれば押しつけでもある。学問という資本主義的活動に参加することで、学歴というコードを得られるわけだ。それがなければ、子供を育てることすら難しい(なぜなら、親として、彼らに投資しなければならない資本の量は年々増加していくだろうから)。もはや、知力や個性の問題ではないのだ。これは、投資機会の問題である。


ようするに、学問の定義が変わったのだと思う。旧来、学問というのは「まだ知られていないこと」を知るためになされるものだった。現代においては「すでに知られていること」をどれだけ知識として持ち、使いこなせるかということに重点が置かれるようになっている。これは、進学者数がある一定の量を超えた場合、避けられない変化だ。以前「まだ知られていないこと」を知ろうとする努力は続けられているが、それらはもはや大学ではなく企業の仕事となりつつある。


グーグルはこの世界でもっとも先進的な企業の一つだが、彼らがどれだけの予算を研究開発につぎ込んでいるか、調べてみるといい 。この数字を見れば、大半の大学など到底太刀打ちできないことがわかると思う。こういった点から見ると、理系の分野が文系に比べて明らかに優位なのはすぐに分かる。こういった大企業が持つ資本のおこぼれに預かるためには貢物が必要だが、それはグーグルやマイクロソフトのような企業が受け入れるコードに従っている必要がある。出版社や新聞社が株価を率いていた1930年代は過去の話だ。日経平均のに含まれる株式の比率をみれば、今現在、資本がけん引している(そう、主体は資本なのだ)のはITであり、バイオであり、製薬会社だということがわかるだろう。


では、出版社とIT企業のコードはどのように異なっているのか?これについては、残念ながら面白いデータを持ち合わせていない。が、直感的に分かるのは、前者が言論をリードする存在だったのに対し、後者は言論をフォローする存在だということだ。重要なのは、追いつくことであり、追い越したり、さらには率いたりすることではないのだ。この世界に、リーダーは存在しない。かつての新聞王とは異なり、マークザッカ―バーグは言論を作り出したりはしない。われわれの背中を優しく押し、不特定多数の言論の中へと放り込むだけだ。そう言った意味で、二十世紀を通して支配的だった個人という概念は、急速に薄れつつある。もし、一部の人文学が、まだ個人を研究の対象としているのなら、それはもはや時代錯誤のノスタルジー以外の何物でもない(と見做されると思う。それが真だと言うつもりはない)。


恐らく、これからはアイデンティティーをもった個人というより、集団の構成要素であるモナドとしての人間(単数)に関する研究が支配的になるはずだし、そのような視点から見れば、伝統的な人文学より科学のほうに分があるのは明白だ。結局のところ、人間の研究というフィールドすら、人文学から科学に移行しつつあるのだろう。それらの学問は、統計的数字を用いて、人間をフォローするという観点から行われるに違いない。人間かくあるべし、というのはある瞬間から次の瞬間にわたり、集団の言論によって、無意識的に定義される(フェイスブックという鏡をみたまえ)。ゆえに、特定の個人というものが研究対象としての価値をもつことは、もはやあり得ない。かつて、人文学者はヒトラーの個人的トラウマについての研究したものだが、ビンラディンについて同じことを行った人間がいるだろうか?ようするに、ヒトラーは個人だが、ビンラディンは現象なのである。


結論からいえば、人文学が淘汰されつつあるのは、上記のような時代の変化があったからだと僕は思っている。そして、その時代を読むことができなかったのだとしたら、そんな「人文学」に一体何の価値があるのだろう?ようするに、人文学部の廃止という決定そのものが、人文学が間違った方向へと進み続け、ついに現実に到達することができなかったという事実に対するイエローカード(あるいは、レッドカード)なのではないだろうか?


果たして、この人文学の惨状は日本や韓国に固有のものなのか?ほかの国における「人文学」はどのようにして生き残りの道を探っているのか――このあたり、もうすこし調べてみたいのだが、どうやら海外では少し事情が違うようである(日本のマスコミと海外のマスコミ、あるいはジャーナリズム、ブログというメディア、その立ち位置や姿勢が明らかに何かが違うというのは、皆さんも感じているのではないだろうか?)。もしかすると、そう言った海外の報道、出版のあり方、受け入れられ方を研究することで「人文学」復権への糸口がつかめるのではないだろうか――ここが、このエントリの終着点だ(ずいぶんと脱線が多く、まとまりもわるいけど)。ただ、それには二三の困難が付きまとう。


ここで紹介されている、調査結果 を見てほしい。世界の読書量のランキングなのだが、文学部廃止を唱えている日本や韓国の読書量が他国に比べて低いことは、まあ、当然予想される結果だが、この差はいったい何を意味しているのか。おそらく、人文学がわれわれに供給する最大の成果は、依然、書物として供給されているに違いない。だとするのなら、日本と韓国におけるこの書物に対する需要のなさは、両国の文化的類似点によってもたらされたものに違いない。そして、それは宗教文化に端を発する企業文化にあると僕は考えているのだけど、その辺は調査がまだ終わっていない。そのうち、機会があったらちゃんとまとめてみようと思っている。