一旬驕話(や):累卵の危うさ志賀原発の実情:「原発知っちょる会」通信1月号紹介

 

  残念なことに   

  残念にして不幸なことですが、地震と聞くと原発とアウトプットせざるを得ない方がたくさんいらっしゃいます。これを過剰な反応と笑えないところが「残念にして不幸」の二乗でもあります。拙ブログで何度か紹介してきました福岡県飯塚市で「原発知っちょる会」通信を発行されている山口輝夫さんはまさにこの「残念にして不幸」の中にいらっしゃいます。

 

  通信の内容は…  

  「原発知っちょる会」通信1月号は能登地震と聞いたとたんに多くの方が心配されていたでしょう志賀原発についての記事で埋まっています。この通信の分量は多いので全部は紹介できません。一つの記事は原子力規制委員会の110日の定例記者会見の一部です。これについては当ブログ子の感想とコメントを申し上げます今一つはラジオ放送の文字起こし原稿です。これはエネルギーを割いた記事です。多くに方に知っておいていただきたい情報ですので、全文を転載いたします。

 

  原子力規制委員会の110日の定例記者会見   

  「原発知っちょる会」通信の記事のタイトルは「避難計画は破綻!屋内退避は住民を被ばくさせる 」です。下記はその一部です。

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  「屋内退避とは原発事故発生となった時、大気中に流れ出た放射能から身を守るために、家の中に閉じこもること。そのためには、エアコン、換気扇などは止め、家屋に隙間があれば塞ぐなどして外気を遮断することが肝要です。能登半島地震のマグニチュード7.6は多くの家屋を倒壊させした。仮にこの状況下で原発事故併発となれば、「屋内退避」は被爆につながります。このことから、原子力規制委員会はこの「屋内退避」の一部見直し、指針の改正を検討せざるを得なくなりました。

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  現在の多くの原発裁判では地震や火山、活断層の視点で争われていますが、避難も大きなテーマの一つです。能登半島地震のニュースに接しますと避難計画による避難訓練は画餅の感がありますが、この屋内退避も問題点の一つとして挙げられています。

 

  東京新聞の記事との齟齬    

  131日夜配信の東京新聞記事(https://www.tokyo-np.co.jp/article/306518)によると「能登半島地震で家屋倒壊や道路寸断が発生し、原子力災害対策指針が定める屋内退避や避難は困難として、国際環境NGOなどは31日、指針を策定した原子力規制委員会などに対し、全国の原発を動かさないよう求める要請書を提出した。……)規制委の山中伸介委員長はこの日の記者会見で「今回の地震を踏まえた指針の見直しは必要ない」と従来の見解を繰り返した。」とあります。

 山口通信によりますと、規制委員会の山中委員長は1月10日の会見では「今回の状況をきちっと分析したうえで、(屋内退避について)どういう方法をとるべきなのかを検討してまいりたい…」と述べています。1月31日の会見では「見直しの必要はない」と述べているのですから平仄を欠いています。首尾一貫していません。オヤオヤ、どうなっているの? と思いました。

 

  規制委員会は見直すようです  

  トコロガですが、2月1日の国際環境NGO FoE(<=Friends of the Earth)からのメールによると「117日の原子力規制委員会の議事録を確認してみました。https://www.nra.go.jp/data/000466975.pdf p.34以降がこの話題になります。

「能登半島地震を踏まえて原子力災害対策指針を見直すことはない」というような委員の発言はなく、むしろ屋内退避を含め複合災害時の対応を検討すべきだというような発言が複数あったように読めます」とあります。

 

  記者会見や説明会などでは発言者の意見が錯綜していたり、記録者の手違いがあったりして、新聞記事でさえ頭から信ずるのは注意! というところです。

 

  ともあれの記事は正鵠であり、規制委員会での見直しはあるようです。

 

  「西谷文和 路上のラジオ」165回目放送 

 皆さんはすでに西谷文和 路上のラジオ」(https://www.youtube.com/@user-nx1lf6kw5n)はご存じと思います。1月19日の165回目のタイトルは「能登半島地震で、志賀原発はどうなった? ふたりの専門家に聞く」二人のお一人は小出裕章さん、今お一人は原子核工学研究者森重晴雄さんです https://www.youtube.com/watch?v=DP9d22tPUJw )。

  お二人の報告を聞くと能登地震が志賀原発の大事故に及ばなかったのはまさしく僥倖だったことがよく分かります。山口通信1月号に上記森重氏へのインタヴュウの一部を文字起こしをして掲載しています。長文ですが文字起こしのご苦労を思いまして全文掲載いたします。文中にオヤ? と思われる個所がありましたら、それは文字起こしをされた方のミスではなく、転載者(ブログ子)の入力、転換ミスとお考え下さい。 

 

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文字起こし:西谷文昭 路上ラジオ 165

「能登半島地域で志賀原発はどうなった?

 

  前説 

  11日に起きた能登半島地震。地震発生となれば条件反射のように不安に取り憑かれる。「原発は?」と。今回もそうで、「志賀原発は?」とテレビにかじりついていた。なかなか原発についての報道は出てこなかった。たまにあつでも「変圧器からの油漏れ」「使用済み核燃料プールからの水漏れ」など、ナントカなったトラブルについてのものばかり。

私の危機感を呼び起こしてくれたのがこの番組。多くの方たちにお伝えしたい、と文字起こしをしました。何度聞いても聞き取れなかったり、また、知らない専門用語があったりなど、理解不足の所も多々あります。十分なものではないのですが、読んでもらえたら幸いです。

 ゲストの森重さんは原子力の耐震構造を研究し、原発の主要耐震構造の設計に携わっておられました。志賀原発の基礎には森重さんの考えた耐震構造が入っているそうです。

  ご覧になって実態を広げていただきたいと思います。

 

 

なぜ情報は消えた?   

西谷:森重さん、11日元旦に地震起きましたよね。ぱっと出た情報が消えたり、また数字が変わったりしているのは、これはどういうことなんですか?

森重:私は神戸に住んでいるんですけど、あの震度7の地震の時、神戸も少し揺れたんですよ。驚きました。大阪は震度4だったんです。

西谷:京都も揺れましたよ。

森重:気象庁は津波が来るか来ないかきちんと判断しないといけません。気象庁にはスーパーコンピューターがあるので一斉に観測地点のデータを解析するんです。津波は早い時には23分後には来ます。12分で解析は終わるんです。それをすぐには公開しなかったんですけど、12日に気象庁は発表したんです。志賀原発のちょうど北側は、今最も揺れていると言われる観測点から2キロぐらい東側、と。私、その図を見たんですよ。12日に。ちょうど志賀原発の北側。

西谷:要は志賀原発からめちゃめちゃ近いところが一番ひどい揺れであったと。

森重:12キロぐらいです。ほぼ直下型です。原発の目と鼻の先です。震源の深さが16キロと言われていますから。

西谷:浅いですね。

森重:もともと浅いんですけど、その震源の深さよりももっと近いんですから原発は。直下型地震ですから。

西谷:気象庁はその12日に何を発表したんですか?

森重:12日に、前日にもうすでに分かっていたことでしょうが、最も揺れていると言う地点を地図に示してくれたんですよ。志賀原発の真北12キロくらいです。それを受けて各社報道したんです。NHK、東京新聞も地方の新聞も一斉に2826ガルを公表した。これは強烈ですよ。

西谷:ちなみに、大飯原発は最初400ガルガルー地震動の大きさを表す単位。大きくなるほど揺れは激しいくらいだったかな。原発は400ガルとか600ガルとかで設計されている。2826ガルと言ったら47倍じゃないですか。これで想定外と言われたら腹が立ちますけど、ともかく2826ガルがきた、と。

森重:私も驚いたんです。で、報道機関も当然、原発のある志賀町内で起こったから志賀原発のことに言及するかと思ったら殆ど報道しなかったんです。その後13日以降、データがこつ然と消えたんです。

西谷:地図が消えたんですか?

森重:地図は残っていたんですよ。気象庁がすべての観測点から最も揺れた所を計算して割り出すんですよね、スーパーコンピューターで。12日はその地点を地図に示してくれていたんですよ。3日は消えていたんです。なんでなくなってるの?ということなんです。あちこち探したけど結局なかったんですよ。

 

原子炉は1000分の1傾いてもダメ 

西谷:原子炉というのは1000ガルを超えたら大ピンチとするならば、今回は近所で2000ガルを超えているわけですよね。

森重:設計上は大飯原発にしてもどこの原発にしても、1000ガルは持つ耐えられるということになっています。志賀原発もです。

西谷:大丈夫なんですか?

森重:原子炉は壊れるんです。例えば傾くとか、ずれるとか。そうなると、次に運転始める時運転できないんです。原子炉は1000分の1傾いたらダメなんです。ポンプが高速で回ってるから。もう動かせないんです。

西谷:そういうのは森重さん、伊方原発を造っておられたから一番詳しいと思うんですが、素人考えでは1000分の1くらい大したことないと思うんですが。

森璽:1000分の1は厳しいです。地震で変形を受けて、地震の後は特に問題ないかもしれませんけど、再度原発を動かそうとしたら、それは根本的に致命的な損傷ですよね。傾いたらダメなんです。

 

原発は配管のお化け  

西谷:原発というのは素人から見ても"配管のお化け"みたいなもので、あちこち毛細血管のようにぐじゃぐじゃと配管があるわけですよね。そこへ2000ガルが来たら配管がポロッと取れたり、ずれたり、ヒビ入ったり。そんなことあり得ますか?

森重:まあ、あり得ますけど、そういった周辺の小口径の配管はずれたり、サポートの所のコンクリートが取れても、そういうのは後で復旧できるんですけど、問題は原子炉周りの大きな配管ですね。

西谷:原子炉本体?

森重:原子炉本体の周りが損傷すると復旧が非常に難しくなります。場合によっては原子炉を一旦つり出して補正とか、あるいは原子炉本体を取り替えないといけないくらいなんですよ。

西谷:致命的?

森重:まあ、配管はそこを1メートルとか3メートルとか取り替えることができるんですけど、原子炉はそんなに簡単にはいかない。

西谷:吊り上げるだけでも莫大な費用が掛かりますよね。ということは、これは廃炉しかない。

 

志賀原発には2007年にも震度6弱の地震が 繰り返す原発へのパンチ 

森重:まあ、特に1号機についてはその可能性が高いですよね。そのことが何でわかったかと言うと、志賀原発は2007年にも震度6弱の地震を受けているんです。

西谷:初耳です。確認ですが、能登半島は2007年に震度6弱の地震を受けていたんですね。

森重:それが志賀町のちょっと海側の方。それが震度6弱だったんですよ。その時に志賀原発は292ガルの地震を受けたと北陸電力は発表しているんですけども、その後、北陸電力はかなり詳細に地震評価をしているんですよ。で、今でもネット上には130ページの報告書があります。かなり詳細に解析をしているんですけど、一応すべての機器、配管は無事ということになっています。ただし場所によっては、材料の持っている強さの8割くらいを、2007年の時にくわれている結果、弱くなっているんですよね。

一応、もった耐えたということになっているけど、それは292ガルの時なんですよ。それが今回は399ガル。約3割くらいアップしているんです。

西谷:原発そのものは399ガル 原発は硬い岩盤の上に作られているので周りに比べて揺れは小さい――✻✻)の問い合わせに対する北陸電力の説明 

森重:今回は399ガル。だから2007年の地震の揺れよりも3割以上はアップして揺れているんです。

西谷:ということを例えますとね、ボコボコにどっかれたボクサーがフラフラしている、そこへもう1回パンチのキツイのが来たと言う感じですね。

森重:その後耐震補強は配管を中心にやっているんです。

西谷:でも補強というのは原子炉そのものにはできないんですよね。

森重:そうなんです。ですから、殆どの場合、原発の耐震補強というのは小さな配管が主なんです。

西谷:今のお話を伺っていたら、原子炉本体は無理なんでしょう?

森重:大きな所とか、原子炉関連の耐震サポートとかありますけど、それはあまりできてないんです。現実に、あまりにも揺れが大きいから建屋そのものを改造するとか、そこまではできないんです。

西谷:原子炉そのものが1000トン以上もある巨大なコンクリートと鉄のかたまりじゃないですか。こんなもん修理できませんわねえ。

森重:1号機は昔の原発です。最新の耐震の対応ができていないんです。

 

志賀原発は廃炉しかない    

森重:私は志賀原発(沸騰水型)に多少関係しているんですよ。

西谷:三菱重工(加圧水型原発を造っている)におられた時に?

森重:三菱は沸騰水型を造っていないんですけど、私が若い26才の時に耐震構造を考えたんです。沸騰水型を造っていたのは東芝と日立で、ゼネコンは鹿島なんですが、鹿島が私の耐震構造を見つけて、一緒に研究しようということになりました。私の考えた耐震構造が志賀原発の原子炉の基礎に入っているんですよ。だから、どういう状態になったら原子炉にとってよくないか分かるんですよ。だから今回のように地震を受けて、志賀原発も非常に心配なところですね。

西谷:これまだ余震が続いてるじゃないですか。熊本地震なんかは最初に余震で後に本震だったでしょう。もしかしたら、次にまた大きな地震が来るかもしれない。

森重:ああ、来るかもしれませんねえ。さっき言いましたように、もともとは2007年から始まっているんですね。

西谷:2007年に1回だけパンチ受けてるわけですよね。

森重:その後、2020年から頻繁に起こっているんですよね、あの辺りでは。

西谷:能登半島、珠洲市は去年の5月のゴールデン・ウィークも震度6弱で家も壊れているんですよ。そこで被災された方もあるんですよ。

森重:今回震度7ということで志賀原発が襲われたんですよね。それが今後どこまで続くかどうかわからないんです。

西谷:これ、ここで廃炉にしとかないとクレージーなことになりますよね。

森重:1号機は間違いなく廃炉だと思います。

西谷:2号機もダメでしょう。

 

制御棒(車で言ったらブレーキ)は効く? メルトダウンの可能性は?  

森重:2007年の耐震解析でも2号機の解析しているんです。そしたら制御棒回転?が弱いんですよ。

西谷:制御棒というのは原発が暴走した時に核反応を止める棒ですよね車でいえばブレーキ)。

森重:今回は幸運にも、原発は1号機も2号機も止まっていたから良かったんです。もし運転中に地震が来たらすぐに止めないといけないんです。

西谷:その制御棒が入らなかったら?

森重:多分地震で曲がってしまうんじゃないか、曲がると制御棒が入らないんです。沸騰水型の場合、下から上へ突き上げるんです。突き上げるのにそのまわりの配管が曲がっていたら、あるいは制御棒自身が曲がっていたら入らないんです。

西谷:そうすると制御できない。

森重:そういう危険性はあったんです。

西谷:ということは暴走してメルトダウンということ?

森重:そういう危険性はあったんだけど、今回は停止していたんで制御棒を入れる必要がなかったから良かったんです。

西谷:良かったですねえ。停止していて良かったです。

森重:停止していなかったら、本当、福島みたいに炉心溶融する可能性はあったと思うんですね。

西谷:下手したら、福島以上ではないですか?福島の時はとりあえず止まったんでしょう。止まってから津波でダメになったけど、止まらなかったらもう

森重:もうストレートにそのまま暴走ですね。特に制御棒が入らなかったらね。

西谷:福島の場合は日本で一番東にあって、放射能は太平洋に行ったけど、志賀原発の場合は、放射能は新潟、秋田、岩手へいきますよね。

森重:大阪、名古屋もです。福島事故のときは東京へも行きましたから。

西谷:風向きがぐるぐる回ってたら

これ、しかしね、福島原発事故の教訓があったのに廃炉にしないで、もう一回また爆発したら、世界中から非難ゴーゴーでしょうね。

 

今回は399ガル、2007年の震度6弱の地震時は292ガル 

森重:そうですね。まあ、北陸電力も2007年の時に耐震解析しているんですけど、今回も当然明らかに直下型の地震が来ているので、それに対して、どういう被害を受けたかということを報告されると思いますけど、2007年と比較してどうだったのか、軽々な報告は作れないと思います。

西谷:2007年より今回の方が地震の規模は大きいですよね。

森重:大きいです。ストレートに単純化したら2007年の時は292ガル、それが今回は399ガルになっています。地震というのは3方向から来るのですが、水平方向が東西方向、南北方向、そして垂直(上下)方向。今回の地震は直下型なので、東西南北だけじゃなくて上下の動きがかなり来ているんです。今一番揺れた観測点が1000ガルを超えているんですよ。1000ガルを超えていたら、そこに立っていた人が飛び上がるんですよ。

西谷:阪神大震災の時そうでした。最初の揺れがドーンと来て、僕、飛び上がりましたもん。跳ね上がるんです。

森重:そのぐらいの上下動が入っているから、本来の解析では直下型だったら上下動を入れないといけないんですけど、2007年の時はちょっと直下から離れているので、上下動を入れてなかったんです。でも今回は確実に上下動が入っているんで、それを入れて評価しなければいけないんです。

西谷:これね、例えば上下動が入ってくると、原子炉を支えているペデスタルなど原子炉の士台は大丈夫ですかね?ドーンと来たら

森重:土台は大丈夫でしたけど、1号機の2007年の解析結果を見ると、原子炉の上に振れ止めのスタビライザーがあるんですが、2007年の時もそこはかなり厳しい状態だったんです。その材料の持っている強度の8割くらいが縮んでしまって。そこまで力が掛かってしまったんですよね。そこは(振れ止めのスタビライザー)2007年の時はなんとか持って(耐えて)来たけど、多分改造工事をしていなかったんです。非常にやりにくいんでしょうけど。

西谷:さっきから僕、ボクサーのたとえ話してますけど、ボカーンとどつかれて何もしてなかったら、もうフラフラ状態ですね。その状態でまたポカーンとやられたみたいな

森重:原子炉そのものが変形する可能性があるんですね。

西谷:今言われたように、1000分の1以上傾いていたらそれはもう致命的。

森重:ええ。確かに、地震としてはその後の災害は沈静化するかもしれませんけど、次に原発を運転しようとしたら、いろんな高速のモーターなんかが付いているんです。1000分の1も傾いていたらもうそれは飛んでしまうんです。

西谷:北陸電力って東京電力と比べたら、ものすごい小さい電力会社じゃないですか。ここがお金かけてもう一回直して、とか。そんなの無理でしょう。財政的にも。

 

-----ここから話題は「北陸電力は原発止めて、元々の水力発電に戻るべき」に移るのですが、話題は再び原発の危険性へ戻ってきます----

 

まだ出されてない情報がある  

西谷:変圧器からの油漏れ、危なくないですか?

森重:火災の原因になりますね。ただ一番下の階ですから揺れが少ないんですね。上の階に上がっていくに従って加速度が23倍になってくるんです。当然、上の方が被害は大きいはずなんですけど、それが発表されていないんです。

西谷:あっそうなんですか。

森重:23階の方が被害は大きくなるんです。

西谷:そりゃそうです。ビルでも上のほうが揺れます。

森重:配管があちこち破断していると思います。放射線が漏れていると思います。それは一切発表されていませんから(臨界事故の発表は8年後とのこと)。

西谷:それは早く発表してほしいですよね。さっきのデータも隠されたけど、これも意図的な臭いがしますよね。後から後から出すというのは

森重:2007年の報告書でもタービン建屋の中でさえもコンクリートが飛んでいるんですよ。2007年にあったことですよ(2007年は292ガル、今回は399ガル)。

西谷:1516前にそこでパンチを受けてるんだ。

森重:今回最低でも3割以上アップの力が掛かっています。激しいはずです。

西谷:これは皆が忘れた頃に、風化した頃に出そうとしているんでしょうか。今言うたら大変だから。-----後略----

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 ✻ 1   配管のお化け 原発の配管の総延長は原発の大きさとか型などによって違うが、大小含めてだいたいl50キロ。直線距離で飯塚から広島と山口の県境くらいまで。沸騰水型原子炉の中は70気圧、そこを300度前後の熱水が物凄い勢いで駆け巡っている。この悪環境下に耐えてきた配管は地震にも耐えられるだろうか。大口径配管破断が起こればメルトダウンになりかねない。

 ✻ 2 (これはブログ子の注です)文字起こし当該原稿では小見出しや起こした方が付けているようです。またその方のコメントは「(文面)」として示されています。ここでの「私」はラジオでの発言ではありません。文字起こしの方が北陸電力に直接電話して確認された内容をここに記載しています。

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 長い記事ですが、お読みいただきまして有り難うございます。文字を起こされた方の「志賀原発のこの現実を知ってもらいたい」という思いを感じます。

 

  はじめに  

  先日拙ブログ「庭のツツジに野のスミレ」のタイトルを見ながら「少し変えてみよう」とあらぬ思いが頭を横切りました。「こんなものかナ~」などと手を加えているうちに何かのはずみで今までとは異なった手順を踏んでしまいまして、最初の間違い手順で気が付けばまだ元に戻れたのですが、これで間違うはずはないと深みに入り、アレ? 之ハ誤テリと知った段階では元の形に戻す手順は私には不明でした。エキスパートでしたら対応は可能だったのかもしれませんが、見様見真似の素人の当方にとりましては、結局のところブログ全体を削除せざるを得なくなりました。小人閑居の(好かどうかを好くは分かりませんが)例ではあります。

 

  4,5年前に開いて数回働いてもらったもののもっぱら「庭のツツジ……」に忙しく、押し入れに入れたままでしたこのブログ「月にむらくも」を思い出しました。そう言えば、と引っ張り出してみました。まだ使えそうなのでサッパリと更地にして当シリーズ「一旬片話」に働いてもらうことにしました。

 

  という訳で今までの「庭のツツジ……」に代わり、今後はこのブログをご覧ください。

 

一旬片話(く):長野県泰阜村の『古老は語る』第三集

 

  村民の10%が関与した大部な本です 

  昨21年暮れに大部な本が郵便受けに入っていました。泰阜村古老は語る実行委員会の編集・発行による600ページもある『古老は語る』第三集です。巻頭の泰阜村村長の祝辞によると第一集発行は33年前、第二集は28年前です。同じく泰阜村教育長の刊行祝辞によると「古老は語る実行委員会」が主体となり、約3年かけて刊行にいたったとのことです。泰阜村の人口は1935年は約5800名、1950年は4600名で以降減り続けて、現在は1500余名です。第三集の語り手、書き手は135名、実行委員会関係者が35名記載されています。合計すると170名ですから、村民の11パーセント強の方が関与しているのです。語り手、書き手は古老ですし、泰阜村以外に在住の方も執筆しているので、村民の約10パーセントと言ってもたいした意味はないのではありますが、多くの村民が記憶を掘り起こし、後世に伝えようと協力していることは確かです。なお、https://turns.jp/32353によると泰阜村には「コンビニもスーパーも、国道も信号も新幹線も」ないのだそうです。

 

  「今残したい記録と記憶」 

  上記の実行委員会委員長大越慶氏の「あとがき」によると、原則として65歳以上の方に執筆をお願いしたり、聞き取りをさせていただいたそうです。生年が1950年代前半(昭和30年ごろ)以前の方が「語り」手ということかと思います。内容を見ますと生年は昭和5年、6年はおろか、2年の方も大正14年、15年の方もいます。90歳を越える方々です。

ウイキペディアの泰阜村の記述( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E9%98%9C%E6%9D%91 )には「1939年(昭和14年) - 満蒙開拓移民の分村が現地に成立」とあります。多くの村民が満州に渡って行っていたのです。そこでの生活や歴史についても何名かの方が残しています。そのような歴史があり、1980年代に中国残留邦人の肉親捜しが始まる前に1972年に泰阜村には中国から14名が引き上げて来ていて、翌年には小学校で帰国子女の日本語教育を始めています。また78年には満州開拓団慰霊碑、86年には中国帰国子女記念碑が建てられています。

 

  大越氏はそれやこれらの泰阜村の記録や記憶を「今残しておかなければとの思いで編集を進め」(600ページ)たとのことです。法政大学国際文化学部の高柳俊男教授によると、泰阜村周辺の阿智村、阿南町、高森町、南信濃村、天龍村、飯田市内でも「地域に暮らす高齢者が、地元の歴史や文化あるいは自らの体験を若い世代に語り継ごうとした記録で、地域の姿を庶民の視線と生の声で再現する貴重な存在」(427ページ)としての同種の「語る」が公刊されているそうです。長野県南部にはそのような伝統があるのかもしれません。

 

  多彩な内容 

  130余名の約60年間の、身辺のだけではなく、育ってきた地域の事情まで含めた記憶が記述され、語られているのですから、内容は多岐にわたっています。いくつか取り上げてみます。

 

  秘境駅:昭和10年生まれの方の報告(344ページ)から:

周辺に民家がない、駅に通じる車道はない、もちろん無人駅、これを秘境駅と言うそうですが、泰阜村には田本(たもと)という秘境駅があります。プラットホーム横から、人もまれにしか通わない登山道然とした高低差5,60メートルの山道を20分ほど「登山」して人家の見える道に行き着くのです。事情を知っている人でも久しぶりに駅に下ろうとして道に迷って駅に出そこなうケースもあるほどの秘境駅です。

 

  中国に渡った人の記述(160、172、189ページ)から:満州に行く途中で3歳の弟が亡くなった。現地でお母さんは「子どもと帰る」と言い張った。開拓団の本部から人がきて、「他の人に続かれては困る」と盛んに説得されて残った。/親戚は長男以外はみんな満州へ行った。5家族、35人。そのうち16人ほどは満州で死んだ。父は手に職があって生活に困るわけではなかったのだが、義理で行かなければならなかったのかもしれない。泰阜村の次男坊、三男坊はみんな満州へ行けということで送り出された。/「大八浪(ターパラン)泰阜村開拓団」7区で生活した。中国人から取り上げた住宅や耕作地もあった。

 

  男子厨房に入る:泰阜村出身で名古屋在住の昭和17年生まれの方の記述を私は「えっ? 」と思って読み直し   ました。「清々しい元旦には男子が朝食の支度をする習わしで具沢山のお雑煮で新年を祝い、歯固めには暮れに出来上がった干し柿を自家製の緑茶と共に賞味し」(419ページ)とあるのです。元旦のお雑煮は男子が手助けをして、または男子が料理をする慣習に驚いたのです。私は九州の寒村で育ちました。昔の自家製干し柿が固かったことは覚えていますが、正月には男性は火の近くには近づかないようにしていました。私の家のしきたり、すなわち父の方針だったのか、地域周辺の慣習だったのかは不明ではあります。

ともあれ、1950年代までの「だった」のか、21世紀の現在も「だ」なのかは不明ですが、お正月には信州では「男子厨房に入った」のは事実のようです。

 

  連絡先  

  嫁入り、結婚式、お葬式、出産、火事、水害、助け合い、工事の塩梅、学校でのいたずら、優しい先生と厳しい先生、ケガや家族、平和への思いや将来への願い等などが満載の600ページです。多くの方々に読んでいただきたいと思います。

 

  ご関心のある向きは編集・発行の長野県下伊那郡泰阜村3236番地1「泰阜村古老は語る実行委員会」に連絡してみては如何でしょうか。とは言いましても私には残部があるのかどうか、頒価と送料が受け取り手に発生するのかどうか、発生するとして如何ほどかなどは不明なのではありますが。

 

  『古老は語る』第三集については以上です。以下は泰阜村の「だいだらぼっち」についてです。

 

  「だいだらぼっち」  

  これが正式の名称なのかどうか分かりませんが、泰阜村には山村留学を実践している団体があります。1984年に羽場睦美さんが中心になって都市の子どもたちに自然の体験をさせるプロジェクトを立ち上げました。夏の1ヵ月合宿に各地から子ども10名ほど参加することになり、事前にスタッフと保護者と子どもたちが方針や作業について話し合いました。このプロジェクトの名称が「だいだらぼっち」です。これは身内の呼び方、俗称で正式には別の名称なのかもしれません。さらに関係者は日本語の伝統に従い「だいだら」と4文字に短縮しています。

 

  翌年は春休み、夏休みに規模を大きくして合宿を行っています。一方では「だいだらぼっち」と泰阜村との間では「だいだらぼっち」で生活する生徒を村の学校に入学させる計画が進められました。村役場としては過疎による生徒数減が進行していたので計画には乗り気でしたが、村の人の間では都会の子どもへの否定的な考えが強かったので、関係者は苦労されました。

 

  翌86年4月からの受け入れ準備を進めていたのですが、諸事情でプロジェクトの生徒受け入れは二学期からとなりました。生徒は小学3年、5年、6年、中学1年の4名、相談員(と言う名のスタッフ)3名での出発でした。「だいだらぼっち」から小学校、中学校に通うのですが、村に人たちには素直な子どもと評判で親切にしてもらい、村の生活になじんでいきました。

 

  以来35年になります。生徒数は増減がありましたし、今はNPO法人グリーンウッド自然体験教育センター (https://www.greenwood.or.jp/index.html )と衣替えをしていますが、泰阜村の活性化に大きな役割を果たしています。

 

  「だいだら」エピソード  

  85年の夏合宿から参加し、通年合宿(と言う名の生徒受け入れ)、宿舎の建設や組織の変更などのすべてに関与したスタッフの方が『古老は語る』に寄稿しています。以下はその一部です。

  1985年ごろの泰阜村の人口は2500人くらい(2020年の人口が約1500人ですから、35年間に約40パーセント減少していることになります)。当時は村に小学校は南北の2校、同じく中学校も南北2校あった。南部地域の小学校の生徒数は52名、中学校の生徒数は35名だった。現在は南北は合併して小学校、中学校ともに1校。

  子どもは朝はご飯からを作り、掃除をして、洗濯を終えて登校、帰りは気まま。下校途中で車にはねられてタヌキがいて住まいに持って帰った、骨折していることが分かりお医者さんに診てもらって玄関で飼っていた。治ってきたら挨拶もしないでいなくなった、すなわち山に帰って行った。恩返しはなかった。子どもたちはどんな恩返しを期待していたのでしょうか。

  参加者が多くなって自分たちの住まいを作ることになった。貰ってきた木の皮剥きも子どもたちがした。土台や柱の水準も子どもが取った。

 

  35年間続き、現在は各地に見られる山村留学のハシリである「だいだら」の精神を受け継いでいるグリーンウッド自然体験教育センターですが、コロナ禍で本来の作業である山村留学が滞り、悩んでいるようです。