1週間前、近所をうろうろしていた子猫が家に入ってきた。
妻は早速「ちーこ」と名づけた。
「ちーこ」というのは、妻と知り合う前に付き合っていた相手の愛称である。
いささか複雑な思いもして、わたしはまだ子猫を「ちーこ」と呼べずにいる。
1週間前、近所をうろうろしていた子猫が家に入ってきた。
妻は早速「ちーこ」と名づけた。
「ちーこ」というのは、妻と知り合う前に付き合っていた相手の愛称である。
いささか複雑な思いもして、わたしはまだ子猫を「ちーこ」と呼べずにいる。
「マダム、水浴びの時間でございます」。
執事がそう言うので、わたしは露台の揺り椅子から立ち上がる。
たん、たたん。
庭はすっかり夏空だ。
澄みきった青。白い雲。
夏だ。
わたしは芝生へ続く踏み台を降りる。
たん、たたん。
プールサイドには誰もいない。
きっと彼がいると思ったのに。
でも、いいわ。ひとりで泳ぐのは好きだから。
服を脱ぎ捨て水際に立つ。
ふくらはぎに力をいれて、かかとを上下させてみる。
たん、たたん。
空を見上げる。
どこまでも続く青。もこもこした白い雲。
わたしの国はあそこにあったのだったかしら?
「マダム、旦那さまが!」
執事の声にわたしは決して振り向くまいと決める。
両手を肩から高く空へ差し伸べ、わたしは膝を高く上げて足踏みをはじめる。
たん、たたん。たん、たたん。
「マダム、旦那さまがただいまお戻りに」。
執事の縋るような声が庭に響く。
うふ。知るもんですか。もう知らないの。金輪際、知らない。
たん、たたん。たん、たたん。
空へ舞い上がってみせるわ。
あなたたちが追ってこれないところまで。
それ、いくわよ。たん、たたん。
いまよ、いま、いま。たん、たたん。
「旦那さま!奥さまが!」
執事の哀れな声を聞くのもこれが最後。
いい気味よ。いい気味よ。いい気味ったら、ありゃしない。
と思ったら、もう、どっぽん水の中。
たん、たたん。たん、たたん。
水際の足音が水の中では鼓動に変わる。
たん、たたん。たん、たたん。
結婚記念日の朝、まだ寝ている妻の枕元にすり寄って、
耳元に息を吹きかけるようにそっと囁いてみる。
「○×回目の結婚記念日の朝だよ」
蒲団のすき間から妻の腕が伸びたかと思うと、
すかさず鉄拳が飛んでくる。
私は額をしとど撃ち抜かれ、どうともんどりうって倒れこむ。
私は呆然と・・・しない。「思ったとおりの仕打ちだわい」とほくそ笑む。
急に空腹を感じ、私は妻に告げるともなく「お腹が空いた」と独語してみる。
「朝ごはん、食べる?」と妻が飛び起き、「うん」と私が答えて、日常が始まる。