※2019/01/25にnoteに投稿したものを再掲

 

 

 第三部まで読了。第四部残すところあとちょっと。以下妹ドゥーニャの婚約者ルージンからの手紙を読んだラスコーリニコフのセリフ。

 

「〈…〉ところがね、ぼくはこの文体を見ているうちに、いまの場合、かなり本質的な考えに思いあたったんだよ。手紙には、「自業自得」とかいう言いまわしがあって、しかもそれにことさらはっきりと意味をもたせてあった。それだけじゃない、ぼくが出かけて行ったら、即刻席をたつという脅迫まであった。この席を立つという脅迫はね、母さんときみがもし言うことをきかないようなら、いつだってふたりをほうり出す、もうペテルブルグまで呼びだしたいまとなってもほうり出してやる、という脅迫にひとしいんだぜ。」
〈…〉
「これは裁判所式の書き方でね、裁判所式だとこうしか書けない。つまり、自分で考えているより乱暴な感じになってしまうんだな。しかし、きみを少し失望させることになるかもしれないがね、この手紙にはもうひとつ、ぼくに対する抽象、それもかなり卑劣な中傷ととれる言いまわしがあるんだな。ぼくは昨日、肺病やみで、ぶちのめされたような未亡人に金を渡して来た。それは、「葬儀代の名目」なんかじゃなくて、はっきり葬式代に渡したものなんだ。しかもその金は、この手紙に書いてあるように、「いかがわしき生業をいとなむ」娘に渡したんじゃなくて(だいたいこの娘を見たのが、ぼくは昨日がはじめてなんだがね)、ちゃんと未亡人に渡して来たんだ。つまりこうした点にだね、ぼくのことを中傷して、きみや母さんと仲たがいさせようとする意図が露骨に見えすいているんだな。しかもその言いまわしが、またしても裁判所形式でさ、あまりにも目的の見えすいた、素朴なくらい性急なものなんだな。〈…〉」(ドストエフスキー著 江川卓訳『罪と罰(中)』岩波書店 1999年 pp. 90-91)

 

 ドゥーニャが「兄さんの批評はうまかったわ。思いがけないくらい……」(p. 91)と言っているように、母親からの手紙といい、ルージンからの手紙といい、異様な批評能力を見せるラスコーリニコフ。批評ではなく推理と言ってもいいかもしれない。ポルフィーリイと張り合うだけのことはある。ただラスコーリニコフの勘ぐりすぎな性格が表れているとも言える。逆に言えば、批評や推理は勘ぐりすぎな奴じゃないとできないってことかもしれない。
 ちなみに金を渡した相手がソーニャになっているところ、最初読んでいて作者の間違いじゃないかと思ったが、こういう細部にも気を配っているところを見るとドストエフスキー作品においてはより精読が必要とされると言えるかもしれない。作家によっては時系列とか細かい辻褄とかが混乱している場合もあって、それはよほどじゃない限り作家の腕というよりも特性みたいなものなので、読者に求められる読みの精密さは作品によって変わるのかなと思うし、その大雑把さがかえって作品の良さになっている場合もあるだろう。無論同じ作家であっても作品によって、あるいは同じ作品であっても場面によって、読みの精度の度合いは変わってくるはず。

 次はラスコーリニコフが、犯罪者の心理に関する自身の論文について、ポルフィーリイと議論するところから。やっとポルフィーリイが出てきてくれて嬉しい。

 

「〈…〉ただぼくは自分の根本思想を信じているだけです。つまり、その根本思想というのは、人間は自然の法則によって、大別してふたつの部類に分けられる。ひとつは低級な(凡人の)部類で、自分の同類を生殖する以外なんの役にもたたない、いわば材料にしかすぎない部類と、もうひとつは、自分の環境のなかで新しい言葉を発する天賦の才というか能力を持っている人間です。もちろん、この分類は細分していけばきりがないでしょう。しかしふたつの部類を区別する特徴はかなりはっきりしています。第一の部類、つまり材料となる部類は、だいたいにおいて、その本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務であって、それが彼らの使命でもあり、それでひとつも卑屈になる必要はないんです。第二の部類は、つねに法の枠をふみ越える人たちで、それぞれの能力に応じて、破壊者ないしはその傾きを持っています。この人たちの犯罪は、むろん相対的だし、千差万別ですが、彼らの大多数は、さまざまな声明を発して、よりよき未来のために現在を破壊することを要求します。しかも、その思想のために、たとえば、もし屍をふみ越え、流血をおかす必要がある場合には、ぼくに言わせれば、彼らは自分の内部で、良心に照らして、流血をふみ越える許可を自分に与えることができるのです。〈…〉第一の部類はつねに現在の主人であり、第二の部類はーー未来の主人です。前者は世界を維持し、それを数的にふやして行く。後者は世界を動かし、それを目的へ導いて行く。そのどちらも完全に平等な存在権を持っている。要するに、ぼくの理論では、みなが同等の権利を持ち、Vive la guerre éternelle(永遠の戦い、万歳)なんです。もちろん、新しきエルサレム(キリスト教でいう未来の天国)までの話ですがね!」(pp. 145-147)
「だが、いまの話のなかで、本当に独創的なこと、本当にきみひとりに属していることと言えば、恐ろしいことだが、それはきみが究極において、良心に照らして流血を許している点なんだな。しかも、失礼だが、非常に狂信的にね……してみると、きみの論文の根本思想もここにあるわけだ。だがね、良心に照らして流血を認めるというのは、これは……これは、ぼくに言わせれば、公に、法律でもって流血を許可するより、もっと恐ろしいことだぜ……」
「まったくそのとおり、はるかに恐ろしいことですよ」とポルフィーリイが合いの手を入れた。(p. 152 強調部は本文では傍点)

 

 超越は悪魔的であるが、悪が超越であるとは限らない。悪と、超越したいという精神は、区別されなければならないのにも関わらず、非常に結びつきやすく混同されやすい。不適応者であることよりも、適応することに絶望してしまう精神の方が問題である。後者が極まると、適応/不適応という水平運動が、凡人/非凡人の上下運動にすり替えられる。その上昇の頂点に据えられるのが神であろうと悪魔であろうと、水平運動を上下運動にすり替えるという点において同じ過ちを犯している。適応/不適応が強者/弱者という垂直軸に位置付けられることは避けがたいが、凡人/非凡人の上下運動はそれを転倒させるものとして機能する。この転倒のためには新たな価値体系が必要であり、現在ではなく未来、現実ではなくヴィジョンとして提示されなければならないが、それは空間的にも時間軸上においても局所的な需要に応えるものに留まり、恣意的かつ独善的にならざるをえない。しかし、それは未来、ヴィジョンとして提示されることで普遍性を擬態しており、また普遍性それ自体に対する信頼にも吟味がなく、何重にも安易な欺瞞を必要とする。

 

…途中から別のことが頭に浮かんできたせいで結局ニーチェみたいになってしまった気がする笑。

 

ラズミーヒンはまとも。

 

 

今回の本はこちら↓