どうも、玄音です。
ここ2ヶ月程、更新が出来ず、皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。
ここからは私情になりますが、僕が企業内高校に入って早50日が経とうとしています。
ここまで更新を伸ばした理由を挙げるとすればまず、入社以降急激に変わった環境に順応することに根を詰め過ぎだったということ、同時に3.11大震災に対して、自分はどういった対応を採るべきだったかという後悔でしょうか。
時間が取れなかったということも十分理由に成り得ます。しかしやはり、急激な環境変化による精神面の負担による部分の方が大きかったように思いました。
震災直後に各マーケターが個々のメルマガ等で散々に挙げた、「自粛はプラスにはならない」という標語の意味を、芯から理解出来るまでの余裕が今になってようやく出来たのだと思います。
さて、最後の評論から数ヶ月を経て、記述の通り、僕自身のライフワークは随分と変容を遂げてしまいました。
次に評論を上梓出来るのはいつだろうか?ひょっとしたらもう既に、評論文なんて書けないような思考回路になっているかも知れません。環境に適応する事だけを考え、自分の考え、思想を巡らす余裕が随分となくなってしまっていたから。
さらに僕はもう、一中学生ではなく、一高校生です。
これは格付け、肩書きによる優越などでは全くない、単純に、時間に妥協してしまった為に、またひとつ自分のハードルを上げてしまったのだな、という失意の念。
次に評論を書くとすればそれはおそらく、自分が自分自身に決別した証になるのだと確信しています。
今だけ言えること。
中学生の頃の自分と今の自分を比べた時、今の自分は明らかに余裕が足りません。本当にあの頃の自分は恵まれていたのだな、と、身に沁みて痛感しています。
しかし今後、この余裕を再び取り戻す事はまず不可能です。身を削る日々は順々に激化していくばかりのものだと確信しています。
僕がこの数ヶ月で学んだことは、失意そのものに他なりません。
自分の思考を巡らす余裕が全く無いのです。
失っていくものは大きい。
だから今の自分を繫ぎ止めて行く事は、この先の自分にとって一番の安心に成り得る。
失意に変わる何かを求めなければなりません。
手段はありません。感じ取れる余裕を。