Willow’sのこれまでの活動に迫るルポ企画、今までの4回楽しくお読みいただけたでしょうか。楽しくお読みいただけてるはずだ。お読みいただけてたらいいのに。改めてこうして振り返ってみると、やはりWillow’sの公演は劇場で楽しく観てそれで終わりという類のものではなく、観劇の帰り道に、はたまたこうして少し時間を置いてあれこれあることないこと「考え」自分なりに「思う」ことに最大の魅力があるとわかります。そしてそれを誰かと「話し」「共有」することはなんて素敵で楽しいことなんだと教えてくれます。願わくは今回含めこのルポ企画が、そんなWillow’s公演の最高楽しみ方の入り口になってますように。はい、前回までの4回お読みいただけましたね?
まだお読みでない方は楽しい気分で①へ
お読みいただけた方は自信を持って②へお進みください。


ふりだしに戻る。(是非、前4回もお読みくださいm(._.)m)


このルポ企画も早5回目。5回目ともなるとだいぶ自由になってきます。何卒ご容赦を。今回は2020年東京学生演劇祭参加作品、Willow’s特別公演「私はどこから来たのか 私は何者か 私はどこへ行くのか」についてです!
 この特別公演、今までと違う「特別」な点が大きく分けて2つある。まず1つ目は、これまでのようなシェイクスピア戯曲を1本通じて上演・再構築する作品ではないという点。そして2つ目は、この公演がコロナ禍という背景で、対面公演ではなく配信アーカイブ公演という形態をとっているという点だ。この作品は本公演と比べより実験的な試みであり、時勢により強制的に配信という媒体で演劇作品を作らなくてはいけないという前提からスタートしている。以上のことを踏まえて今回のルポを進めていく。

 素舞台に近い空間に、クッションと小さな椅子が設置されており、1人の俳優(高橋拓己)が椅子の近くにペットボトルや台本を置きアップをしている。どうやらここは稽古場である。そこへ演出家(木川流)がやってくる。2人は今日の天気やニュースなど他愛のない雑談をし、次第にシェイクスピア「ジュリアス・シーザー」二幕一場のブルータスの長台詞の稽古を開始していく。そして、この二幕一場の1つの長台詞に対し俳優と演出家がどのようにアプローチをしていくのかを、ただ淡々と見せる、いや見てもらうという芝居である。
 大筋としてはこんなものだが、この公演は2日それぞれで撮影された40分を2本ともアーカイブで配信していて、2つを見比べるとこの作品の意図がよりはっきりとする。つまり大筋や設定は同じであるが、公演ごとに細かな内容や会話の流れは全く違うというインプロ的な性質を多分に含んだ作品なのだ。配信公演という特性も相まり、観客は舞台公演を見ているというよりも、本当にブルータスの台詞をその日その日の流れやプロセスの中で立ち上げていく瞬間を目撃する感覚に襲われる。これこそ、「生」であるということと切り離せない「演劇」という表現をコロナ禍のアーカイブ公演という枠組みの中で成立させるという一見矛盾したお題に対するWillow’sなりの答えだったのではないかと思う。ここまでずっとシェイクスピア戯曲という詩的で練り上げられた台詞をさらに解釈して深め再表現していくことを志し続けたWillow’sがインプロという全く別方向の表現に走ったことは一瞬戸惑うかもしれないが、このように考えてみると、その場で言葉を生み出し紡いでいくという表現方法としては過去のWillow’sの台詞に対する意識の向け方と通じる部分があり、「演劇」に向き合う姿勢として非常に好感がもてる。なにより、ブルータスの長台詞を題材にWillow’sがこのように台詞を立ち上げて行くのかというプロセスを観れるということは贅沢な時間であり、とても観ていて楽しいものだった。
 俳優はブルータスの台詞を読み、その台詞を読み感じたことや疑問点についての話を演出家にする。演出家は時にその疑問に答え、また感じたことに対するフィードバックを行い、さらに俳優の言葉を引き出すことにより俳優が台詞を丁寧に噛み砕き自分の中に落とし込めるように導いて行く。ここで重要なのが、演出家は決して俳優の話すことについて反対意見を述べたり、読み方や感情について要求をするのではなく、あくまで俳優が台詞を身近にしていく手助けをすることに終始している点である。台詞をその場でクリエイトし表現するのは役であり、その役を演じる役者であるという強い意志が感じられる。そして、このプロセスを2、3回繰り返していくことで、観客は最初は俳優から遠かったブルータスの大業な台詞がどんどん俳優と近づいていく瞬間をまざまざと見せつけられる。そしてその流れはその日にあった出来事やその瞬間に俳優や演出家が感じたこと、またそこから導いた言葉とコミュニケーションにより左右され、一度として同じように語れる台詞はない。まさに、演劇的な瞬間である。

 Willow’s特別公演「私はどこから来たのか 私は何者か 私はどこへ行くのか」。このように非常に実験的な作品であるが、それゆえに考えるべき要素で溢れ奥が深い。それを裏付けるかのように、ブルータスの長台詞の稽古を終え、演出家と俳優は以下のように語る。

演出家「ここまで考えて、全部伝わんのかね?」

俳優「ここまでやんなきゃ、お客さんに見せられないだろ。」

演出家「うん。そうだな。」

この最後のやりとりが皆さんにはどう響くだろうか。僕にはこれはWillow’sからの招待状であるように思えてならない。このやりとりの、そしてこの公演に流れる時間のサブテクストとして、「みんなもよければ一緒に考えない?」という声が響いているような気がする。そしてまた、この強い思いはWillow’sの「祈り」でもあるのだろう。この公演において、作品を完成させるのは観客の役目であり、観客が何を感じ、何を思うかがこの作品の方向性を決め、この作品を観た観客の数だけそしてその時間の分だけの作品が生まれていく。そして、演劇が閉じ込められたコロナ禍という時代を背景に、観客が作り上げたこれらの作品はWillow’sの時代と社会に対する「祈り」と融合していくのではないかと思う。


出演
俳優、ブルータス役/高橋拓己(Willow's)
演出家役/木川流(Willow's)

 

(文章・芝原れいち)