ルポ企画ももう4回目である。なんだかWillow’sの歴史をワッと追いかけているようで楽しい。案外さらっと読めるルポになっているので、ぜひ過去3回も読んでもらえたらうれしく思う。と、いうわけで、「シェイクスピア、なんとな~く内容がわかる作品はいくつかあるけど、ぶっちゃけどの作品にも詳しくないし愛着もない」観客としてルポを執筆している花香みづほと申します。今回はWillowsの第4回公演「ヴェニスの商人」を取り上げていく。
 「ヴェニスの商人」はシェイクスピアの喜劇として知られる。タイトル通り、イタリアの街・ヴェニスが舞台。人格者として知られる商人・アントーニオのもとへ、友人のバサーニオが求婚に出向くための費用を貸してほしいと相談にくる場面から物語ははじまる。アントーニオは財産のほとんどすべてを船団での交易に費やしていたため、やむを得ず、ユダヤ人の商人・シャイロックから金を借りることに。このシャイロックはユダヤ人であることからアントーニオをはじめとしたキリスト教徒の商人たちに虐げられており、その復讐として「決まった期限に金を返せなければ、保証人であるアントーニオの体から肉を1ポンドもらう」という誓約を持ちかける。期日までに財産が戻ってくる予定だったアントーニオはそれを承諾するが、その後アントーニオの財産を積んだ船はすべて沈没してしまう。さらにシャイロックの娘・ジェシカがアントーニオたちの友人であるキリスト教徒と駆け落ちしたことからシャイロックはキリスト教徒への恨みを深めており、肉1ポンドの誓約を遂行すると宣言する……というのが大まかなストーリーである。これだけみると、これって喜劇なんだっけ? と思わされるような内容だ。実際、ヴェニスの商人には俗に「シャイロック問題」と呼ばれるような論争が絶えない。シャイロックは戯曲上、悪役として描かれている。物語の最後にアントーニオが誓約から逃れ、シャイロックが財産や信仰を失って失墜するシーンは観客にカタルシスを覚えさせるだろう。だが、現代において信仰による差別感情には抵抗が強く、シャイロックは悲劇的な描かれ方をすることも多くなっている(余談だが、日本人はシャイロックが好きらしい。わかる気がする)。そんな、殊更カンパニーの考えが反映される作品をWillow’sはどう描き出したのだろうか。
 そのヒントは、さっそく舞台の上に見つけられる。「ヴェニスの商人」はWillow’s作品の中でも具象物の多い舞台のように思う。舞台前面にはオフィスデスクが3つ横並びに配置されており、舞台奥の一段あがったスペースにはアトリエを想起させる空間がある。美術机に工作椅子、木製のイーゼル、ペンキ缶、作中でも使用される電子ピアノなどが置かれているのだ。ぱっと見ただけでも、舞台前面と奥の装置のちがいは印象的である。開場中、舞台にはスーツに身を包んだ俳優が登場し、オフィスデスクでPCと睨めっこをはじめる。これが「ヴェニスの商人」だと知らなければ、ごくごく平凡な日本のビジネスマンたちに見えるだろう。物語が始まれば、同じくビジネスマン然とした姿のアントーニオが登場する。16世紀の商人たちを現代のビジネスマンに置き換えるのは、実にWillow’sらしい演出だ。数百年前の時間、海の向こうの場所、遠くの物語は、私たちの身近にぐっと引き寄せられる。さて、アントーニオがビジネスマンだとすれば、彼と同じく物語の中心となるシャイロックはどうかと気になってくるだろう。シャイロックは、全身黒い衣装に身を包んで登場する。遠目にみればスーツ姿のアントーニオたちとそう大きな印象のちがいはないるが、よく見れば彼はビジネス調の姿ではなく、ゆるやかな印象の私服姿である。と、なれば、改めて舞台前面と舞台奥の装置の対比に意識が向くだろう。舞台前面はオフィスのような空間、舞台奥はアトリエのような空間。当時の演出挨拶では「資本主義」について触れられていた。ヴェニスの商人の中に強く描かれるキリスト教徒とユダヤ教徒の対立のことを思えばつまり、資本主義=キリスト教、芸術=ユダヤ教、と置き換えられるのではないか。……と、思いたくなる。
 だがここで、前回のルポでも書いた「楽しく頭を抱える」瞬間の到来である。ちなみに観劇当時の私は、このようにウンウン唸った結果、わからん! と考察を投げている。繰り返しになるが、それでも面白いからWillow’sはいい。シェイクスピアもたぶんいい。ただ、今回はせっかくこうしてルポという機会をいただいているので少し粘って考えてみよう。一見わかりやすく成立しそうな資本主義=キリスト教、芸術=ユダヤ教、だがこれにはどこか違和感がある。まず、アントーニオたちはビジネスマン然としているが、対するシャイロック、ユダヤ教徒は芸術家然としているわけではない。前述したように、全身黒い衣装に身を包んだ彼の視覚的印象は、スーツ姿のキリスト教徒たちに近しくさえ見えた。また、そもそも資本主義と芸術の対比を、敵対するキリスト教徒とユダヤ教徒になぞらえるというのもどこか違和感があるのではないだろうか。資本主義と芸術はたしかに対なるものとしてとらえられることもあるだろう、だが、それを「敵対」と言ってしまうのはいささか乱暴にも思える。
 ここは素直に演出家の言葉もヒントにしてみたい。前段で簡単に触れた木川の演出挨拶には、これらの記載がある。「400年の時が経ち、それらのビジネス、言い換えてしまえば『資本主義』的な言葉の意味は肥大化していきました。近代化に伴い、人間はさらにマクロに集団的に行動を進めたと言えます」「この大きな世界の中で、私は何に縛られているのだろうか」。この、集団化、マクロ化、という言葉は、作中でシャイロックの娘・ジェシカがロレンゾーとの結婚に際してキリスト教へ改宗するシーンを想起させる。彼女はビジネススーツとはまた異なったリクルートスーツ姿、就活生の装いで登場する。就活、つまり資本主義社会へ主体的に飛び込む行為。彼女は改宗によって、たしかに集団の一部になったのだ。
 結局、Willow’sの描くヴェニスの商人の中で資本主義とはなんなのか、芸術とはなんなのか、それをズバリと表すのは難しい。ただ、この作品のタイトルは「ヴェニスの商人たち」であって「キリスト教徒の商人たち」ではない。私は、シャイロックまで含めて、「何か」に縛られている有様の象徴として描かれていたのではないかと思う。その「何か」は宗教でもあるだろうし、都市への帰属意識、家族、それらでもあるかもしれない。あげだせばキリがないさまざまなこの社会のしがらみが複雑に絡み合った何か。その中心に近い部分には資本主義が横たわっており、潮流の外にいるシャイロックは爪弾きにされる。だが、やはり、縛られているという一点で彼らは同じなのだ。そして、唯一その埒外にあるものこそが「芸術」なのではないだろうか。舞台上のアトリエに、登場人物たちは多くは干渉しないが、全く触れないわけではない。アトリエの中の俳優がPCを開いて閉じたり、あるいは「資本主義」然とした人物としてそこを出ていくこともある。だが、だれがいなくなっても変わらずそのアトリエは舞台上に存在しているのだ。アントーニオとシャイロックをはじめとした彼らの物語が紡がれるそのなかで悠然と。それは、現代にも或る「何か」ではないもの。そうである、というよりは、そうであってほしい、そうでありたい、という祈りのように私は感じた。ちがうかもしれません。ちがっていても楽しいからいいの。
 さて、上記の考察に引用した要素は、実は作品のほんの一部である(当時の観客にはわかるだろうが、私はひとつかなり大きな特徴的演出についてを省いている)。ヴェニスの商人を現代のビジネスマンになぞらえる、など、Willowsの作品には一見わかりやすい特徴的な要素が登場することが多い。だが、その1モチーフに依存するのではなく、物語が展開するにつれて印象的な演出は数多く登場するのだ。なかにはもちろん、結局わからない、で終わるものもある。だが、わからなかったとしても、私たちがそこに生きる人物の存在を感じ、心に触れ、現代に結びつけて自らの感覚を呼び起こすためにそれらはいずれも大きく寄与しているのだ。そういったものに触れて心を震わせる瞬間こそ、まさに芸術を通じて現代を縛る何かの外側を覗く瞬間なのではないか、と私は思う。


▷出演

アントーニオ/西山斗真
バサーニオ/高橋拓己(Willow's)
シャイロック/中條玲
グラシアーノ/小林駿
ポーシャ/宮西桃桜子
ネリッサ/神林純太朗
ランスロット/田中心太(喜劇のヒロイン)
サレーリオ/浦野朋也
ソラーニオ/家入健都
ロレンゾー/太田佳佑
ジェシカ/長山侑生

 

(文章・花香みづほ)