Willow’s第3回公演「ハムレット」。そして僕の記憶が正しければ、この公演はWillow’s初外小屋での有料公演だった。そんな背景も相まり、この第3回公演はWillow’sの歴史の中で新たな出発点だったと捉えることができるのではないか。過去2回の公演での経験を踏襲しつつ、新たな方向性でシェイクスピアを上演する。そんな意気込みが見てとれた。そもそも演目からして、4大悲劇の1つでもあり、シェイクスピア作品の中で最も有名な作品の1つでもある「ハムレット」。気合いは十二分である。今回はそんなWillow’sなりの気合いに満ち溢れた第3回公演を、僕なりに振り返り考察させていただきます。何卒最後までお付き合いの程…!

 先に少し触れたように「ハムレット」は演劇についての造詣があまり深くない人でも知っている役であり演目である。それは一重に、ヒーロー像の既成概念を打ち壊す「苦悩し続ける主人公」というキャラクター造詣の革新さと多面的な魅力、生や死を中心に人間の普遍的な問題を各所に散りばめた作品であること、また読み込み・演出により時代に合わせいかようにも変質する奥深さと柔軟さ、などによるものである。王子ハムレットの台詞を借りれば、まさに「自然を映し出す鏡」なのである。
 デンマークの城と王家を舞台に、先王の亡霊がその息子王子ハムレットの元に現れるところから物語は始まる。亡霊曰く先王(ハムレットの父)は弟クローディアスに殺され王位と妃を奪われたと。ハムレットは父を殺した叔父への復讐を誓い、狂気を装う。そして殺人の計画と苦悩を繰り返す中で宰相ポローニアスを殺害し国外追放などをされるが、友を死に追いやることで逃れ、恋人オフィーリアを狂気に追い込み、その兄レアティーズとの決闘を経て復讐に成功するが、最後には毒薬により自らも命を落とす。なんとも救いようのないまさに悲劇である。

 では、Willow’sは第3回公演にて、この救いようのない悲劇をどう解釈し、どう表現し再構築したのか。これはあくまで僕自身の解釈だが、人間の生と死・争いなどの壮大なテーマを社会の最小単位にまで立ち返って再構築したのではないか。つまり、政治や戦争などをも含む「ハムレット」のスペクタクル性を可能な限り排除し、一つのある「家庭」でのごく小規模な話として見つめ直そうと試みたのではないかと思う。Art Theatre上野小劇場という閉鎖的な劇空間を利用し、素舞台に近い簡素な舞台の下手側に木製の木枠を通路と部屋を仕切る壁のように積み上げ、導線を制限し閉じられた空間を生み出している。中央に積み上げられた木枠の上には木の天板が乗せられ机の役割を果たす。下手側には同じく木枠や天板で構築された腰掛け椅子のようなものやベンチのようなものが配置される。台詞を日常会話のように丁寧に新鮮に紡いでいく俳優達の演技術も相まって、観客はまるである家族の居間を除き見ているかのように錯覚する(「ハムレット」という壮大な古典劇を上演しているにも関わらず!!)
 俳優達の衣装もまた着飾りすぎず白系統や黒系統の衣装で統一され、質感もニットやダウンベスト、シャツなどのどこか家庭を思わせるような装いである。ここで注目したいのが白・黒の二色の使い分けである。ハムレットや先王の亡霊は上下とも黒の衣装で統一され、ハムレットの唯一の理解者であり真の友であるホレイショーとハムレットの写し鏡、第二のハムレットとも解釈することもできるレアティーズは上半身が白と黒を合わせた衣装で下半身が黒。それ以外の人物は基本上半身は白一色で下半身は黒の装いがなされている。例外としてオフィーリアだけは白・白の装いだ。Willow’s「ハムレット」での色分けは白・黒をただの対立関係ではなく、黒(ハムレット)を取り囲む白(その他の生者)として描いているのも印象的である。そして衣装に黒を含む人物は皆終幕では死という運命が待ち受けている(例外として毒薬にて死んだハムレットを抱き抱えるホレイショーの姿で幕切れがされるが、これもある種の象徴と言えるだろう)。これはあくまで個人的な解釈の一つだが、黒は「死の色」であり黒・黒でまとめられるハムレットと先王の亡霊は「死の象徴」として描かれているという見方もできる。このように衣装の色ひとつで観客に考察させ、様々な謎を散りばめ観客も共に思考していくという作品の在り方はWillow’s最大の特徴であり魅力であると言えるだろう。
 閑話休題。話を「家庭」という今回のテーマに戻す。この劇の幕開けでは、ハムレットが先王と共に「将棋」を指すという印象的なイメージシーンで始まる。このイメージは父と子という家族という関係や括りを観客に強く意識させる。そして劇の終盤、レアティーズとハムレットの決闘において用いられるのは、剣を使った殺陣ではなくこの「将棋」なのである。これこそWillow’s版「ハムレット」を象徴する演出であるだろう。剣を用いた大立ち回りや血の匂いがする争いを「将棋」という身近なものに代用させる。そしてその「将棋」は父から子に受け継がれた家庭的な繋がりの象徴でもある。なんとも小宇宙的な広がりを持つ演出である。壮大さを排してミニマムに閉じ込めることでより際立たせようという挑戦が見てとれる。

 今回は少し、演出的な考察に終始してしまったが(だってWillow’sの芝居を考察するのは楽しいから!)最後に印象的な俳優の演技に少し触れまとめとしたい。今回の公演で個人的に多大な輝きを放っていたのはオフィーリアを演じた小日向春平とその兄レアティーズを演じた家入健都の2人だ。小日向はオフィーリアというヒロインをクロスジェンダーな配役にも関わらず表現しきっていた。オフィーリアが悲しみから気が触れてしまう有名なシーンでは、通常は音楽に乗せわけもわからない歌を歌うのに、だその歌詞を淡々と呟くだけで決して歌わないという演技を選択している。しかし、それによりより気が触れた気迫を感じさせ、オフィーリアの虚しさを強調し、思わず身につまされてしまった。また同様に父を殺され、妹を狂気に陥れられたことにたいするレアティーズの悲しみや憎しみを発散させずに内側に落とし込んで表現しきった家入の演技には脱帽し思わず息を呑んだ。

 そんな俳優達の素晴らしい演技も相まり、Willow’s第3回「ハムレット」では壮大な物語をごく小さな世界で小宇宙的に閉じ込めるという離れ技を見事に成し遂げた。そしてシェイクスピアの壮大な世界を現代の自分達が感じられるものにアダプトしていき再構築するという試みはその後のWillow’s公演の方向性の第一歩となっているのではないかと思う。

▶︎出演
ハムレット/高橋拓己(Willow's)
ホレイシオ/木川流(Willow's)
オフィーリア/小日向春平
レアティーズ/家入健都
クローディアス/村角知信
ガートルード/和中みらい
ポローニアス/阿部夏月
ローゼンクランツ、ギルデンスターン/浦野朋也
亡霊/太田佳佑

(文章・芝原れいち)