さて、「Willow’s 過去を生きる、現代のシェイクスピアの足跡」と銘打たれた企画も今回が最終回となる。これまではWillow’sの過去公演について執筆してきたが、最終回では次回公演「夏の夜の夢」の稽古場を取り上げる。これまでの記事とあわせて、「夏の夜の夢」が楽しみになるひとつのきっかけになればうれしい。

 まずは公演の予習も兼ねて、「夏の夜の夢」のあらすじを紹介しよう。主な舞台となるのは、アテネ近郊の森の中。祭りの夜の空気の中で物語は展開していく。恋人同士のハーミアとライサンダーは、家のしがらみで関係を許されず、駆け落ちのために森で落ち合うことになっていた。それを知ったハーミアの婚約者・ディミートリアスと、ハーミアの友人でありディミートリアスを想うヘレナがハーミアたちを追って森へやってくる。同じころ、アテネ公シーシアスの結婚式で芝居を披露しようと考える6人の職人たちも、稽古のために森へやってきていた。その森では、妖精王オーベロンと妖精の女王ティターニアが喧嘩の真っ最中。妖精・パックはオーベロンから惚れ薬を用いたしっぺ返しを命じられるのだが、パックは森を訪れていた人間たちにもこの惚れ薬を使用してしまう。その結果、四人の恋心、想いの矢印の方向はめちゃくちゃになり、職人たち、妖精たちと一緒に夢のようなおかしな体験に巻き込まれていく。個人的にはラブ・コメディだと思っている。言わずもがなかもしれないが、シェイクスピア作品の中では喜劇として知られる作品だ。

 今回この作品を演出するにあたって、木川はステージナタリーの記事にて「群像劇がおり重なるコメディ『夏の夜の夢』。私が重ねたイメージは、眼前に広がる人間社会です。」とコメントしている。もし記事を未読の方がいればぜひこちらも読んでみてほしい。(https://natalie.mu/stage/news/523204) 私は今回の公演の企画書についても確認しているのだが、木川はただ「夏の夜の夢」を愉快なラブコメとして描こうとしているのではない。これまでの公演に関する記事を読んでもらえていたら伝わるはずだ(前回の記事内で、芝原れいち氏が過去記事を読んでいない人を振り出しに戻していたので(笑)伝わる方が多いだろうと信じている)。シェイクスピア作品は演出家やカンパニーが表現したいものによって大きく色を変えるのが常だが、Willow’sでは今回も、現代の私たちにとって身近で、自分事と思わされるようなテーマを設定してこの作品を上演するのだろう。

 前置きが長くなってしまったが、本題に入っていこう。前段で述べた通り、木川のなかにはこの「夏の夜の夢」を通じて何を描き出そうか、というのは既に見えていると思う。今回の記事を執筆するために稽古場見学にも行ったのだが、すでにWillow’sらしい演出の数々が生まれていた。私は木川が演出家としてすぐれている点のひとつに、いわゆる「絵作り」の巧みさがあると思う。絵作り、といっても視覚情報のコントロールだけではなく、聴覚や空間意識などすべて踏まえたものである。観客が何をどう観るのか、それに対して何をどう見せるのか、という点に対する意識が鋭敏だと感じている。そのためか、ミザンスについては木川から比較的積極的に、テーマを面白く描き出すための指示が出ているように感じた。

 ただ、ここからがWillow’sの稽古場ならではの面白さだ。ミザンスについては木川の優れた感覚をもとに検討される部分が多いと思われるが、彼の演出家としてのスタンスに「演出家はなにも生み出さない」というものがある。企画そのものは木川の号令で動き出し、絵作りの部分などは彼が主導する部分が強くはあっても、Willow’sの稽古場での創作は、全員で行われている。演出家の考えが俳優たちを導いている、というよりも、俳優たちのきらめくようなエネルギー・個性が存分に発揮されることで前に進んでいくような印象を受けるのが、Willow’sの稽古場なのだ。演出家がこうしたいから俳優はその通りに、なんて意識は双方にまったくない。時には、ひとつのシーンに対して数時間かけて丁寧に丁寧に向き合う場面もあったという。演出家の木川は俳優たちの考えや希望から個性を引き出し、作品の中でどう活かすのか、という考え方をしているように思われた。俳優たちにもそれが伝わっているのだろう。かつ、元来自由で、豊かさを持つメンバーが集まっているのかもしれない。些細な場面でも自由な考えや希望を述べ、楽しそうに思索や考察、そこから演技を深めていくような姿勢を感じられた。過去公演に関する記事の中でも繰り返し述べた「シェイクスピアを通じて私たちの身近な社会を考えさせる」ような作品は、そのテーマに対して座組一丸となって向き合い、かつ現代を生きる彼らの個性や感性を輝かせて創られたものだったのだということが改めて理解できた。作品構造だけではなく、私たちの目の前にいる彼らの強い魅力があるから、私たちはWillow’sの作品をただのシェイクスピア作品の上演、とは感じないのだろう。

 また、今回、実際の座組メンバーにも稽古場に関して尋ねてみた。演出家、俳優の身近にありながら、ある程度俯瞰した目線を持っていそうだと思われる演出助手の古賀氏に今回は話を聞いてみている。私からの質問はWillow’sの稽古場がほかとちがうと思うところ、Willow’sの稽古場のいいところ・難しいところの3点だった。古賀氏は「いずれの質問にも共通して言えることがある」と答える。そしてそれは「どの時間に新しいアイディアが生まれるかわからないところ」だという。以下、詳細に彼の言葉を引用する。「自分たちの稽古の時間はもちろん、他チームのシーンの稽古、フィードバック、休憩中の雑談、スタッフさんの話など、どんな場面からでもアイデアが生まれることがある。それは初期段階から俳優陣だけじゃなくて座組全体で創作に向きあい、全員が積極的に参加してくれてる(稽古場見学等)からこそ成せるものだと思う。それによって自分にはない発想がたくさん生まれて、この稽古場ならではのお芝居ができる」。なるほど、私が感じていた「全員での創作」という点は俳優だけではなくスタッフにも言えることのようだ(たしかに、私が稽古場に行ったときにも演出助手の3名と広報担当の座組員がいた)。一方で、古賀氏は難しさについても語ってくれている。「大量の発想が生まれるからこそ、それをどうやって取捨選択するか、という動作が必要になる。シェイクスピア作品という多くの人が知る作品を扱うからこそ、どう一本の筋を通すか。ここに面白さと難しさが両立している」。

 あらゆる場面でアイデアが生まれるというWillow’sの創作。演出家は俳優や座組メンバーからユニークで無二のものを引き出し、全員が誰かのそれに耳を傾ける。エネルギーと豊かで自由なアイデアに満ちたその環境は、まさに「入り組んだ人間社会」や「賑々しくも数多の思惑や想いが交錯する祝祭の夜」にも似ているのかもしれない。前段にも引用したステージナタリーの記事の中で、木川は「夏の夜の夢の中で、観客と俳優の垣根を越え、シェイクスピアが描き出した祝祭の世界をあるがままに描きます。」とも述べている。そう、私たちはWillow’sの創作に関与する最後のピース、「観客」なのである。きっと上演中は、目の前で展開される物語をただ無関心に享受する、なんて状態ではいられないだろう。彼らは自分たちのきらめきを最大限に発揮して創作を行い、その集大成をぶつけてくるのだから。なにもせずとも巻き込まれていくのではないかと思うが、私は自身の想いや感性を最大限自由に開放し、それを受け止め、同じ世界に立てたらと思う。

 本番は5/11~5/14。今回6つの記事を通じ、読んでくださった方のわくわくどきどきが少しでも高まっていたらうれしく思う。レポ企画が終わり、私もただわくわくどきどきする一観客に戻る。ここまで、どうもありがとうございました。完。