借金300万からの帰還 -10ページ目

千代の富士貢

以下、Wikipediaより抜粋

千代の富士貢は、大相撲の力士で、第58代横綱。北海道松前郡福島町出身。

身長183cm、体重127kg。
現在は年寄・九重。
現役時代の異名・愛称はウルフ、大将。血液型はA型。

史上最多の通算勝星・1045勝、史上2位の通算31回の幕内最高優勝、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目までの53連勝(史上5位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。
小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。
右四つ、左前廻しの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。
四股の美しさも特筆すべきもので、高々と頭の高さほどまで上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。


<少年時代~入門まで>

漁師の息子として生まれた。
漁業の手伝いで足腰が鍛えられ、少年時代からスポーツ万能。
特に陸上競技では走高跳、三段跳で地方大会に優勝し、オリンピックにもいける、といわれた逸材だったという。
中学時代虫垂炎の手術をした際、彼の腹の筋肉が厚くこれにてこずっているうちに、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終わる前に麻酔が切れた。
それでもなお耐え続ける貢少年を見た執刀医は、感心して知り合いにこの話をしたという。
その知り合いというのが、かつて千代の山(後の九重)をスカウトした若狭龍太郎で、その後貢少年が運動神経を買われて町の相撲大会に引っ張り出され、勝ちを収めたと聞いた若狭はスカウトに乗り出す。
話を聞いた九重も若狭と共に乗り出し、直々に説得。貢少年本人は相撲に殆ど興味がなく、両親も反対したため一旦は断わっていた。

しかしそれでも諦めない九重は、貢少年に対して「取り敢えず東京に行こう。入門するなら飛行機(YS-11だったとされ、当時は夢の乗り物であった)に乗っけてあげるよ」また「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたら」などと持ちかけると、結局貢少年はその飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切ってまで九重部屋に入門を決めた、というある意味子供らしい逸話がある。
この相撲界入門時のエピソードは、現役引退後に自らトーク番組などでよく語っている。


<初土俵~幕内定着>

(中略)
千代の富士の四股名の由来は、師匠の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱「北の富士」。
異名の「ウルフ」については、魚を捌いていたところを見た師匠が「狼みたいだな」と言ったことからついた。
当初は狼と呼ばれていたのがいつしか変化したそうで、これを聞いた当時の春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる、儂はマムシだった、狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。
漫画『キン肉マン』でも、彼をモデルとしたキャラクターには「ウルフマン」と名付けられた。

小兵ながら(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、史上初の5文字四股名の関取になり、1975年(昭和50年)9月場所で新入幕。
しかし相撲の粗さもあってその後幕下まで陥落するが這い上がって1978年(昭和53年)1月場所には再入幕する。
ところが、今度はそれまでも課題ではあった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状からくる肩(特に左)の脱臼癖が顕在化する。
取り口も力任せの強引な投げ技を得意とするものだったため更に肩に負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。
1979年(昭和54年)3月場所播竜山との取り組みで右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いを強いられることとなる。
この時、肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、毎日500回の腕立て伏せやウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。

翌5月場所は十両に陥落したものの怪我が取組中であったため、公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずであった。
しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前に発覚。
3日目から強行出場することとなったが、9勝を挙げて翌7月場所に幕内に復帰。
以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。


<三役から横綱へ~ウルフフィーバー>

肩の脱臼癖もあってそれまでの強引な投げから、前廻しを取ってからの一気の寄りという形を作りあげ、1980年(昭和55年)3月場所から幕内上位に定着し、人気者となる。
同年9月場所に小結で幕内初の二桁勝利となる10勝を挙げた(ちなみにこの場所以降引退するまで、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を挙げた)。

同年11月場所に新関脇。この場所は11勝を挙げ、大関を目前として1981年(昭和56年)を迎えた。
1981年(昭和56年)1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、初日から14連勝した。そして千秋楽、1敗で追いかけた横綱北の湖との直接対決を迎えた。
本割では吊り出しで敗れ全勝優勝こそ逃すものの、優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で初優勝を果たした。
場所後に大関昇進。千秋楽が行なわれた1月25日の大相撲中継視聴率は、52.2%、瞬間最高で65.3%に及び、これは今に至るまで大相撲中継の最高記録である(ビデオリサーチ調べ)。
3月場所(11勝)、5月場所(13勝)と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所に2度目の優勝(14勝1敗)を果たして横綱に推挙される。
横綱土俵入りは師匠と同じ雲龍型を選んだ。
このとき2代目千代の山の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分の今の四股名のほうが強そうだから」と断っている。

新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和に入って武藏山、吉葉山に次いで3人目)。
新横綱誕生の期待が失望に変わり、「11月場所は進退が懸かる」などと報じたマスコミもあった。
しかし、11月場所では朝汐との優勝決定戦を制し、横綱として初優勝を飾ることで見事な復活を見せた。
隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。
この1981年には、同一年中に関脇、大関、横綱の3つの地位で優勝するというかつてない記録を達成した。
関脇から横綱へと駆け上がるとともに、新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。
こうした事情から、関脇千代の富士(不詳)、大関千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は数が多くない。

この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から、若い女性や幼い子供にまで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。
とりわけ一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。
千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を一周してまだ余るような状態だった。


<相撲界唯一の国民栄誉賞受賞>

1982年(昭和57年)には3連覇を達成した。
横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが、やや頼りない部分も見受けられ、特に1984年(昭和59年)は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。
翌5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖に一方的に寄り切られて11勝止まり。
7月場所は左肩の脱臼で全休。
9月場所は入幕2場所目の新鋭小錦の突き押しにあっけなく土俵を割り、場所後横綱としての責任を問われる羽目になってしまった。
11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。

しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからであった。
両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝で最高のスタートを切り、5月場所から廻しの色が「青」から「黒」に変わり、この年史上3人目となる年間80勝を達成した。
さらに、1986年(昭和61年)5月場所~翌年1月場所まで5連覇を達成した。
1987年(昭和62年)前半は僅かに崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声もあり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。
しかしその声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝。
他を寄せ付けない圧倒的な強さで、昭和50年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」の中でも、昭和最後の4年間は驚異的な成績を残した。
ちなみに、53連勝でストップした大乃国との一番が奇しくも昭和最後の一番となる。

元号が平成に変わった1989年(平成元年)1月場所も優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れ緊張感が無くなった為なのか、雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降優勝争いから脱落し、結局11勝4敗に終わる。
4年4か月振りに西正横綱として登場した翌3月場所は初日から他を寄せ付けない圧倒的な強さで14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を脱臼。
翌日の千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手にテーピングを巻いて登場。
片方の右手のみで賜杯を手にしていた。

しかし1989年6月に、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われる。
千代の富士の家族をはじめ、千代の富士自身も精神的なショックが大きく、もう相撲が取れないのではないかと思われた程だった。
しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、成績は12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で弟弟子の北勝海を下して、神がかり的な優勝を果たした。
涙ながらに「供養になった」という言葉は、相撲ファンに大きな感動を与えた。
翌9月場所に通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲の世界で初めての国民栄誉賞受賞が決定した。
この日は先代九重の千代の山の13回忌が行なわれた日でもあり、この時千代の富士は「苦労をかけた師匠にいい報告ができます」と言ったそうである。
これにより協会は一代年寄千代の富士貢を満場一致で承認するが、本人は九重(北の富士)とも相談のうえでこれを断わっている。

1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。
翌3月場所の7日目には花ノ国戦の勝利で、当時前人未踏だった「通算1,000勝」の大記録を達成した。
しかし5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、千代の富士は2場所連続準優勝に終わり、旭富士の横綱昇進の引き立て役になってしまった。
更に夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。
35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱がいる中14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。

翌1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は魁皇に抜かれて史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。
翌場所も全休した。
そして1991年5月場所初日に当時18歳の新鋭貴花田、三日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。
引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

弟弟子の北勝海との稽古は壮絶な物であったと言う。
が、その甲斐もあって、北勝海は1987年(昭和62年)7月場所に横綱に昇進している。
さらに、1989年(平成元年)7月場所では千代の富士は、その北勝海と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦し、優勝している。
北勝海本人も「大将(千代の富士)がいたおかげで、自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力ならびに影響が如何に大きかったかを物語っている。
事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は関取は千代の富士だけだったが、その後は北勝海を筆頭に、孝乃富士や巴富士らが関取に昇進している。
当の千代の富士本人も、「北勝海との猛稽古がなかったら自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。

横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りで、かなり上手い部類に入る。重い横綱を付けた状態で、上げた足が頭より高い位置に達する(参考画像)のは、千代の富士のほかにはほとんど例がない。
また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて、廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど、礼儀作法を重んじている。


そんな千代の富士貢さんが本日6月1日、56歳の誕生日を迎えられました。
ちなみに、やるおも本日で37歳になりました。

ではでは。

侵食中

ども。
アパート退却を決めたところで、早速諸々の手続きを開始してます。

まずは不動産屋。
月末に家賃を振り込んでいたので、6月いっぱいは居住可能とのこと。
ちゃんと綺麗にして、少しでも敷金を返してもらわないと。

続いて、電気、ガス、水道。
そして、郵便の転送届、ケーブルテレビの解約。

とりあえず、こんなもん。
あとは北陸に引っ越ししたときにちゃんと手続きする予定です。

本番の引っ越し先でも必要になるであろうものはやるこ邸へ。
まず洋服ハンガーを担いで、自転車で運びました。
(自転車で5分の場所なんで・・・)
徐々にやるおの所持品が加齢臭とともにやるこ邸に侵食していきます。
あと1ヶ月ぐらいあれば片付けはなんとかなるかな。

世帯主:やるこ
居候:やるお

叩き出されないように気を付けます。
ではでは。

埋蔵金

ども。
今日の東京は天気がいいけど、わりと涼しいです。

僕の仕事場は新宿なんですけど、先月から週に1~2回、日本橋にも行かなきゃならなくなりました。
毎日同じ場所の往復してるよりは、いい気分転換になるとプラスに考えるようにしています。
前職は神田だったので、地図がなくてもだいたい分かりますしね。

なんて考えてると、ふと記憶が蘇りました。
東京三菱UFJ銀行の口座を持ってたんでした。
支店は神田。
前の会社で交通費の支給に利用していて、引き出し専用でしたが。
というか、借金地獄のときに入金なんて、サラ金のATMにしかしてなかったわけですが…。

こりゃ日本橋に行くついでに窓口で解約できるじゃん!てことで、コンビニで残高を確認したところ…

『705円』

お金に困ってたときに、1000円以上残すわけないですよね…。
でもまあ、放っておいても勿体ないので、近いうちに解約してきます。
ついでにイーバンクも解約したいんですけど、小銭は戻ってくるんでしょうか?

ではでは。

帰宅中

「忙しい、忙しい」と言ってもどうにかなるもんじゃないと分かっているので、言わないようにしていてもつい言ってしまいます。
あ~忙しい。

どーも、やるおです。
苛立っているので愚痴こぼします。

電車のマナーが悪い人っていますよね。
例えば足を放り出して座っている人。
そんな人には地味に攻撃します。
わざと足を踏むんです。
すかさず「すみません」と謝りますけど、それで足を引っ込めないと何度でも足を踏みます。

あと、大股広げて座ってる人。
隣に座ったときに、自分のエリア分まで足を広げて、膝をぶつけます。
あとは上と同じ。

さらに列に並ばず、横から電車に割り込もうとする人。
通れないように肘でブロックします。
例えお年寄りでも。
あっ、基本的にお年寄りには席を譲りますからね。
割り込みする根性が気に入らないわけで・・・。

電車内ではありませんが、エスカレーターでも物申します。
関東では左側が立ってる人、右側が歩く人ですが、右側をゆ~っくり歩く人がいます。
後ろからもっと早く歩いてる人がいるのに気づいてません。
「後ろから来てるんだから、空いてるときはさっさと左側に寄れ!」と思いつつ、そんな人に限って気づくことはないので、左側から追い抜きます。
高速道路と一緒ですね。

とまあ、吐き出したらちょっとスッキリしました。
明日からもこのポリシーは曲げません得意げ

ではでは。

イーモバ解約

ども、連投です。
外回りのついでにショップに寄って、イーモバイルを解約してきました。

PCを購入したときに同時契約すると、PCが5000円になるということで飛びついたんです。
でも会社からデータ端末を支給されてるので、滅多に使うことはありませんでした。
実質7万円のPCを2年ローンで買ったようなもんです。

縛りがあと5ヶ月残ってて、解約するのと放置しておくのがほぼ一緒。
忘れないうちに解約して、違約金を払うことにしました。
これも繰り上げ返済のひとつと考えられますよね。

またひとつスッキリしました。
ではでは。