因果という迷信から原因という悪辣な事象と決めつけが生まれる。『因果』『業』という概念は宗教や悪習の狡猾なやり口に過ぎない。人の心理が二重に作用した、怠惰と病理に過ぎない・・。『意志』というものは今においてもはや、何の説明の材料にはならない。はっきり言っておく。原因とは、神経麻痺や催眠が認識に及ぼすヒステリーである…
馬鹿げている結論ではある。しかし、人間は何かあると冷静に物事を分析した気になって原因を取り上げるが、それこそ低劣な誤謬なのだ 。人間は動物に比べて感覚神経が鈍感であるが、その感覚神経の圧迫感が緊張へと達し、そして無意識に累積していたものが一挙に爆発を起こす。その時に累積していた不快や不安が初めて意識として上がり、人間は何かと不快や不安の理由を求めたがる。そうではないと怖ろしく、とても落ち着いてはいられないのが人間の解らぬものへの畏怖心、それが始原、人間が恐怖へ向けてそれと契約を結び、緩和させ、服従し生き残るための知性、それを債権者こと迷信である、『伝説』、『神』、『悪魔』であったのだ。
人間自身、原因を作ってしまうのだ。それが個人的な投影であった場合もあるし、隣に音もなく横たわっていた絶望であったものから、彼らのとんだ自分勝手で結果を取り違えてしまうのだ。でっち上げられた結果はよろしくまつりあげられて、称賛されたり、排斥されたりする。犯罪者の原因の解釈がこんな心理からなされるのを私は多くみるが、むしろ阿呆どもの愚かしい恥知らずな発狂なのであり、いつも大衆心理を刺激するためのとんだ茶番である。ただでさえ理解できない怖ろしい犯罪者を、さらに解らぬ謎めいた恐怖で気持ちが悪いのだろう。
そんな未だ現代にいくつの宗教的迷信が今だ生きていることか!そのような有様で迷信やカルト宗教を反駁する現代人の滑稽さはそれこそカルト宗教の信者的で前時代なカビ臭さを充満させる姿で私の眼にはいくつか映る。
因果という概念自体が迷信や誤謬であり、結果は勝手な取り違えで排斥されるからこそ私はルサンチマンや人間が嫌いな一つである。
馬鹿げている結論ではある。しかし、人間は何かあると冷静に物事を分析した気になって原因を取り上げるが、それこそ低劣な誤謬なのだ 。人間は動物に比べて感覚神経が鈍感であるが、その感覚神経の圧迫感が緊張へと達し、そして無意識に累積していたものが一挙に爆発を起こす。その時に累積していた不快や不安が初めて意識として上がり、人間は何かと不快や不安の理由を求めたがる。そうではないと怖ろしく、とても落ち着いてはいられないのが人間の解らぬものへの畏怖心、それが始原、人間が恐怖へ向けてそれと契約を結び、緩和させ、服従し生き残るための知性、それを債権者こと迷信である、『伝説』、『神』、『悪魔』であったのだ。
人間自身、原因を作ってしまうのだ。それが個人的な投影であった場合もあるし、隣に音もなく横たわっていた絶望であったものから、彼らのとんだ自分勝手で結果を取り違えてしまうのだ。でっち上げられた結果はよろしくまつりあげられて、称賛されたり、排斥されたりする。犯罪者の原因の解釈がこんな心理からなされるのを私は多くみるが、むしろ阿呆どもの愚かしい恥知らずな発狂なのであり、いつも大衆心理を刺激するためのとんだ茶番である。ただでさえ理解できない怖ろしい犯罪者を、さらに解らぬ謎めいた恐怖で気持ちが悪いのだろう。
そんな未だ現代にいくつの宗教的迷信が今だ生きていることか!そのような有様で迷信やカルト宗教を反駁する現代人の滑稽さはそれこそカルト宗教の信者的で前時代なカビ臭さを充満させる姿で私の眼にはいくつか映る。
因果という概念自体が迷信や誤謬であり、結果は勝手な取り違えで排斥されるからこそ私はルサンチマンや人間が嫌いな一つである。