「自分がして欲しくないことを人にはするな。」。しかし、「自分のして欲しいことを他人にすべし」この言葉はどうだろうか?今までその問いが欠けていたように思われる。そして、「自分が欲さないことは他人にとって、果たして欲さないことなのだろうか?自分がして欲しいことを他人は、果たして欲しているのだろうか?」この問いが今まで我々には欠けていた。 また、「自分がして欲しくないことは他人もして欲しくないのだろうか?ならば、他人にそれを施して差し上げようではないか。なぜなら、私のして欲しくないことが他人も嫌なら、利用しない手は無い。私はその苦痛を身をもって知っているのだからね。」この試みをするに十分な動機と誘惑を与える効力があるし、忌まわしき悪魔の囁きでもあり得る。
「自分の欲さざることを人に施すことなかれ!」確かにこの言葉は真理ではある。しかし、この理は、万人に受け入れられるが、全ての人に受け入れられるものでは到底ないのだ!これは道徳上の問題では決してない。それ以上に高貴な多くの徳を、幾ばくの自我を殺してしまう蛇の毒であり、何世紀もかけて孕み続け、多くの顔を持って我々人類の体内に寄生しながら生きながらえてきたのだ。
時に自分がして欲しいことを人にすることは見下しにもなり、自己を他人にも同一にしてしまい、土足で人の心に踏みはいる。この行為は恩着せがましく、与えられるほどに貧しいと思われているという見下しでもあり、同情されるという高貴なものには決して耐えきれない屈辱を受けることであって、悪徳の顔もあわせ持つということを、道徳家諸君にも理解して頂けたのなら幸いである。そして、「自分の欲さざることを人に施すことなかれ!また、自分の欲することを人に施すべし!」この言葉がいつの日か、忌ましき迷信として唾を吐かれ、仕舞いにはこの世から消えることが、俗にいう道徳というものの本懐だと知り、未来の人々の知性と精神が栄えていないのであれば、月にいる私は人に失望していないことだろう! 道徳が無くなり、また悠久に紡がれてきた希望の言葉や、定言命法や戒めが消える時、禁忌を意識しないほどに我々は一層、認識と論理と意志の支配者なのであり、よもや、大昔に人々が崇め奉っていた「神」たちの存在をも遠い過去の夢物語のように憧憬して、二度と帰ろうとは思わないことだろう。しかし、これは皮肉である。そんなことにならないよう慈善家諸氏が失業しないように必死に同情し、快楽を得ようとするかもしれない。彼らは食人族の国の住人であるし、狡猾な良心を逞しくも所有するのだから。諸君、高貴な徳を持つ諸氏も彼ら道徳家、悲壮家、慈善家にご用心を!
「自分の欲さざることを人に施すことなかれ!」確かにこの言葉は真理ではある。しかし、この理は、万人に受け入れられるが、全ての人に受け入れられるものでは到底ないのだ!これは道徳上の問題では決してない。それ以上に高貴な多くの徳を、幾ばくの自我を殺してしまう蛇の毒であり、何世紀もかけて孕み続け、多くの顔を持って我々人類の体内に寄生しながら生きながらえてきたのだ。
時に自分がして欲しいことを人にすることは見下しにもなり、自己を他人にも同一にしてしまい、土足で人の心に踏みはいる。この行為は恩着せがましく、与えられるほどに貧しいと思われているという見下しでもあり、同情されるという高貴なものには決して耐えきれない屈辱を受けることであって、悪徳の顔もあわせ持つということを、道徳家諸君にも理解して頂けたのなら幸いである。そして、「自分の欲さざることを人に施すことなかれ!また、自分の欲することを人に施すべし!」この言葉がいつの日か、忌ましき迷信として唾を吐かれ、仕舞いにはこの世から消えることが、俗にいう道徳というものの本懐だと知り、未来の人々の知性と精神が栄えていないのであれば、月にいる私は人に失望していないことだろう! 道徳が無くなり、また悠久に紡がれてきた希望の言葉や、定言命法や戒めが消える時、禁忌を意識しないほどに我々は一層、認識と論理と意志の支配者なのであり、よもや、大昔に人々が崇め奉っていた「神」たちの存在をも遠い過去の夢物語のように憧憬して、二度と帰ろうとは思わないことだろう。しかし、これは皮肉である。そんなことにならないよう慈善家諸氏が失業しないように必死に同情し、快楽を得ようとするかもしれない。彼らは食人族の国の住人であるし、狡猾な良心を逞しくも所有するのだから。諸君、高貴な徳を持つ諸氏も彼ら道徳家、悲壮家、慈善家にご用心を!