ネコとイヌとときどきオトン -2ページ目

ネコとイヌとときどきオトン

飼いネコ(みかんと小次郎)と好きな犬、そして、つれづれなる日々をそこはかとなく書き綴っています。

バンコクへは3回目。仕事でしか来ていないけれど、暑さと辛い食べ物の記憶しかない(笑)あと、マッサージヾ(@⌒ー⌒@)ノ

今回、まさか、弾丸ツアーのような様相になるとは、思っていませんでした。

ペット用品やペットフードを輸入販売だけでなく商品開発している会社のバイヤーさんを2人連れて行き、タイのペット関連企業に日本市場についてセミナーと商品開発のアドバイスをするのが目的。

水曜日夕方にバンコクの空港に着いて、ホテルへ向かうとき、タクシーでなくチャーターカーを申し込み移動することにしました。行き先は市内の大きなホテルだから分からないはずはないと。が、それが大きな間違えでした。

ひどい渋滞に巻き込まれていること以上に、運転手が行き先が知らず、僕等が地図とiPhoneのGoogleマップで説明するも、彼は英語が分からず、言うことを聞かないし、仲間へ電話するも混乱するばかり。あと数分で着くのに途中で、誤って右手の道へ入っていく。え?違うでしょ?

どんどん細い路地へ入って行き。立ち往生。おい、おまえ、どこに向かっていくつもりなんだよ!と怒鳴りたくなった(≧∇≦)Googleマップは、先2本目の通りを左に曲がれば幹線道路に出て、ホテルへいけると示す。が、ドライバーに説明しても行こうとしない。じゃ、運転代われ、こっちが運転する、とも言いたくなるストレス。  

なんとかホテルに着いたのは空港から2時間後。予定では1時間で着く予定だった。それで通訳との打合せは15分間となってしまった。

やれやれ、初日から珍道中ではないか(≧∇≦)

その後、ホテルから幹線道路の地下を通り、向かいのショッピングモールにあるタイレストランで貿易促進団体の担当者と夕食。タイ料理はこんなにも美味しかったのかと思う(笑)日本食レストランが多いことにも驚く。フロアーの3分の1は日本食のお店という勢い。

東京の会社事務所近くに2店、タイ料理屋がありたまにランチしてますが、美味しさのレベルが全く違う。この違いは何なんだろう?(笑)

一旦、部屋に戻る。夜9時過ぎ。タイに住んでいる元同僚からオススメのマッサージ店情報が届いていた。せっかくだからと、バイヤーさんを誘って行ってみるヾ(@⌒ー⌒@)ノ

そのお店は、日本人が経営しており、サービスも良いらしく、深夜2時まで営業している。

「100%ピュアブレンドオイルボティマッサージ」90分1200バーツ。1バーツが4円だから4800円だが、日本に比べたらかなり安い。施設もサービスも最高で、気持ち良くて心地良くて、爆睡してしまった(笑)オススメですよん。

http://www.asiaherbassociation.com/shop/index.html

会社に戻って同僚に話したらそれは高過ぎると言われた(笑)いや、お店のクオリティーを考えれば十分。現地の人が通う一般的なマッサージに比べれば倍以上はするかもしれないけれど、タイ語は話せないけど、日本語が通じて高級志向なところが良かった(笑)

お腹もマッサージしてくれたせいか、翌朝、お腹の調子が良く、胃もたれや気だるさがない。ホテルの朝食は普通に美味しく食べられた。タイは基本的に何でも美味しいのではと思う。

さて、いよいよ、本番、午前中のセミナーには100名を超える参加者があり、成功裏に終えられた。4年前は60人ほどだったので、大盛況ぶりが分かりますよね。僕の説明のパートも問題なく無事終えましたヾ(@⌒ー⌒@)ノ

その後は、20社との商談会。僕はここから傍観者だけれど、日本市場に見合う製品なのか、欠けていることは何か、バイヤーさんが的確にタイの製造メーカーに説明、指導していく。日本で見られないようなユニークな製品もあり、なかなか楽しい時間だった。

そうこうするうちに時間は過ぎて、夕食の場へ向かう時間となった。

タイ支社副社長Pさんのクルマに乗り込んで移動。両親も本人もホンダ車を乗り継いでいるという。タイの親日ぶりはここにも現れる。データによるとタイの日本車シェアはま90%。

ディナーは小泉さんが首相時代に来訪したタイ料理店、Somboon Seafoodというお店。4年前にも来たけれど、僕は水に当たって嘔吐を繰り返し食べられなかった(≧∇≦)

今回は、タイ支社スタッフ総勢10名で夕食を共にすることとなりました。いやあ、やっぱり、タイ料理は美味しいねヾ(@⌒ー⌒@)ノ今更ながら、そう確信したのでした(笑)遅すぎる?(笑)



ホテルに戻ったのは9時過ぎ。このまま寝るのはもったいない、と、またマッサージ屋さんへ行く選択肢もありましたが、バイヤーさんの体調が悪かったので、部屋で大人しく過ごすこととなりました。

横になっていたら、いつの間にか寝てしまい、深夜2時に目が覚める(≧∇≦)仕方なく、そこから仕事をすることにしました。メール処理、資料の読み込みなど。

翌日、午前は残りのメーカー5社と商談会兼指導。その間、僕はPさんとタイからの出展者獲得の戦略を練る打合せをしているうちに、時間があっという間に過ぎてしまった。

ランチはタイ支社社長と、4年前に一緒に仕事をしたJさんと。社長は確か58歳、息子の写真を見せてくれた。が、スマホには生後6ヶ月の赤ちゃんが写っている。え?まさか、はい、再婚した若妻との間に生まれた息子だと(笑)

社長はウィスキー好きなのだが、この時は、再会を祝して赤ワインを飲んだのですが、それがタイ風アレンジのイタリアンにピッタリ。至福の緩やかな時間が流れた。

しばらく産休などで仕事を休んでいたJさんは数ヶ月前に仕事に復帰。そのバイタリティーに敬服しました。

34歳、子供が二人いる。いかに成果を生むか、その営業力や行動力が素晴らしい。男以上に仕事ができると思う(笑)

それは先に出てきたPさんも同じ。42歳独身。2年間で7回も来日して旅行しているほどの親日派。仕事もキッチリ詰めてくる。

二人とも会うなり挨拶もそこそこに、有無を言わさず、FacebookとLINEの友達にさせられる。

「これで、緊急事態でも連絡できる。タイからいつでも連絡するからね。」

と宣戦布告された(笑)

む、日本でも追われながら、海外からも追われるか(≧∇≦)

その後、お洒落なペットのお店へ視察へ。ドッグランの他にドッグカフェ、ペットショップなど。

と、ここからホテルに戻って最後の打合せをしてフリータイムとなる予定でした。が、移動に3時間以上はかかり、ホテルに着いたのは6時。1時間打合せしたら、出発時間となってしまった(≧∇≦)

時間が余ったら元同僚と会って、彼女の赤ちゃんと遊ぼうと思っていましたが会えず残念。

打合せ後、すぐに出発。空港で飛行機に慌ただしく飛び乗った感じ(≧∇≦)

今回、そういうことで、まさに弾丸ツアーとなりました。む、1日はフリー時間を作って、遊んでも良かったな、と反省。タイに来ることはまたあるとは思うけれど、仕事バカ的に過ごすのはやめようと思っている今日このごろです(笑)

それにしても、タイのスタッフの彼女達に宿るハングリー精神やチャンレンジスピリッツ、貪欲な姿勢は日本人に欠けていると思う。男にも女にも。もちろん、そんなことないよ、という人もいよう。が、圧倒的な違いがあるような気がしてならない。まるで、ゲームを楽しむように、彼女達の考えに卑屈感や切迫感はなく、むしろ、物事を遂行することを喜んでいる。

一つ学んで帰ってきましたヾ(@⌒ー⌒@)ノ


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Trust the power within.

Duracell: Trust Your Power - NFL's Derrick Coleman, Seattle Seahawks
http://youtu.be/u2HD57z4F8E

今年2月2日に書いたものですが、今年一番感動した記事でした。

「何も心配することはない。あなたの成功を望む人と接しなさい。」
と言った両親が偉い。

越えられない壁はない。

彼は、努力を重ねてついに頂点に立つ戦いのステージに立つ。自分の力を信じて。

試合は生中継で、明日、朝8時からBS1で観られます。が、4時間半も中継(≧∇≦)自宅を8時40分には出なくてはならず、多分、試合はまだ始まらない。録画しておいて、帰宅してからみるかなヾ(@⌒ー⌒@)ノ


(以下、朝日新聞2月1日夕刊より抜粋)

米ナショナル•フットボールリーグ(NFL)の年間王者を決める2日(日本時間3日)のスーパーボウルに、聴覚障害のある選手が挑む。シアトル•シーフォークスのRBデリック•コールマン(23)だ。

決勝前の1月28日の記者会見で、コールマンは夢の舞台にたどり着いた信念の源について、「間違いなく両親」と感謝した。

3歳の時、先天的要因で聴覚障害になった。幼い時は家から出ようとしなかったが、

「何も心配することはない。あなたの成功を望む人と接しなさい。」

と親に諭されたという。

外に出れば、障害がもとでいじめられたこともあった。スポーツは得意だったが、チームスポーツをすることについては「無理だ」と言われ続けた。

音声を聞き取れのは、「補聴器なしだと一般の人の2、3割。補聴器を着けた場合は6~8割」。聞こえない場合はプレー中に周囲の口の動きを読み、状況を理解するようになった。「そのことで試合に集中できている」

力強い走りで名門カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)のスターに。練習生を経てシーフォークスの登録選手枠を勝ち取り、今季デビューした。

困難を克服した人生について、

「自分らしくあろうとしただけ」

と語る。

障害については、「僕にとっては耳の問題だったが、自分のチームや(対戦相手の)デンバー•ブロンコスの選手たちも、大きな困難を乗り越えてきた」と言う。

周囲からは「謙虚でタフ」と評される。シーホークスの司令塔QBラッセル•ウィルソン(25)も「人間として感銘を受けている」と言い、プレー直前には後ろを振り返る。コールマンが理解しやすいように、マウスピースを取ってサインを伝える為だ。

「内なる力を信じろ」

コールマンは、電池メーカーのテレビCMでそう伝え、米国で話題になった。スーパーボウル進出が決まった後、CMを見た視聴者で聴覚障害のある9歳の双子姉妹から、ツイッターを通じて激励を受けた。「あなたのことがよく分かります。ベストを尽くしてください。行け、シーホークス!」

そこでコールマンは、自筆の手紙でこう返事した。「補聴器をつけていても、僕らは夢を成し遂げることができる。」

(有田憲一)
試合の時、勝負のときに向かう選手に対して、どんな言葉をかけるか、そこが勝敗の分かれ道にもなる。

どんなスポーツにおいても、コーチや監督、キャプテン、リーダーなど、いわゆる、指導者が発する言葉が選手のポテンシャルを最大値まで引き出すと思う。

MFマリオ・ゲッツェは 0対0の88分にミロスラフ・クローゼと選手交代で投入され、延長後半に入った113分、同じく途中出場のMFアンドレ・シュルレのクロスからボール胸トラップし、左足のボレーでを先制ゴールを決め、この1点を守り切ったドイツが、通算4度目の世界制覇を成し遂げた。

試合後、決勝点を入れたゲッツェはペンチから出るときヨアヒム・レーヴ監督からかけられた言葉を語った。

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『いいか。お前は(アルゼンチン代表FWリオネル・)メッシよりも優れているということを世界に示し、W杯の勝者を決めるんだ。お前にはそれができる力がある』

選手交代するとき、自身4度目のW杯出場で、歴代最多となる通算16得点を記録したクローゼは、こう彼に伝えている。

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「お前ならやれる」

メッシよりお前は優れている、お前ならやれる、と言われて嫌な事を言われたなと感じる人はいないだろう。最高の褒め言葉だ。俺がやってやる、そういう気持ちで試合に臨んで実力を発揮した。
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言葉で人は変われるとも思いますが、それ以上に、選手と監督、選手同士の信頼関係がしっかりしているとも思いました。そんな関係の仕事のパートナーを持ちたいし、上司部下ともそんな関係でありたい、と思いました。

彼は、1992年6月3日生まれ、22歳。(176cm、64kg)次回のW杯でも活躍が期待されます。

ドイツの選手層の厚さや戦術からして、まだまだ黄金期は続くと思う。強いだけでなく試合に勝つためのずるがしこさも持っている。勝つためならルールぎりぎりのところまではやる。

運動会での棒倒しは運動会の花形種目で、小6のとき僕が棒を倒す役で活躍していた。人垣に乗れば必ず勝てる。そう信じていた。

が、しかし、その当日、どうしても勝ちたいと思う相手チームの先生の戦略にやられた。僕を人垣に登らせないために小5の生徒が2人付いて、僕は棒に触ることさえできなかった。もちろん、負けた。

ソフトボールや相撲大会、卓球大会、柔道の試合など、いろんなスポーツを楽しんでいた少年が初めて勝負ごとの真髄を思い知らされた出来事だった。

もしも僕が監督だったら、その2人を封じ込める生徒を割り当てただろう。だが、小学校の余興の勝敗にこだわる先生は普通いない。

幼いながら、その時に初めて、勝負の怖さや非情さ、勝つことへの執念の大切さや戦略の重要性を学んだのだった。

その記憶はいまだに鮮明に残っているし、その悔しさはどこかで仕事で勝負するときの根幹に僕に残っているような気がします。




■スペイン式ポゼッションのさらに先へ。 “未来のサッカー”でドイツがW杯制す。
(Number Web - 07月14日 16:59)

2002年は準優勝、自国開催の2006年は3位、2010年も3位。トップクラスの実力を持ちながらあと一歩届かなかった栄冠を、南米の地で欧州勢として初めて手にしたドイツ。この勢いはしばらく止まりそうにない。

 最後に笑ったのはドイツだった

 ワールドカップ制覇は1990年イタリア大会以来、実に24年ぶり。通算4度目のタイトルになる。南米開催の大会における欧州勢の優勝はこれが初めてのことだ。

 準決勝ではホスト国のブラジルを7-1という空前絶後のスコアで破るなど、ワールドカップの歴史を大きく書き換えている。さらに大会を通じて、近未来のロールモデルとなり得るフットボールを展開したことからも、今回の優勝は非常に意義深いものかもしれない。

 攻めるドイツ、守るアルゼンチン

 ファイナルの図式は実に対照的だった。ドイツが決勝までの6試合で大会最多の17ゴールを記録する攻撃力が売り物であるのに対し、アルゼンチンは6試合のうち実に4試合が無失点という守備力が持ち味だ。

 さらにドイツがポゼッションプレーを軸に据え、アルゼンチンはダイレクトプレーから勝機を探る。ドイツのパスワークとアルゼンチンのドリブルワーク、組織力を前面に押し出すドイツと個の力に依存するアルゼンチン――。あらゆる点でカラーの異なる2チームが相争った。

シュールレとゲッツェ、途中出場の2人が結果を残した

 90分を終えてスコアは0-0。決勝は互いに持ち味を出し合った末に3大会連続の延長へともつれ込んだ。スコアが動いたのは113分。左サイドで球を得たシュールレがドリブルで縦を突き、その折り返しをニアで拾ったゲッツェが巧みなトラップからフィニッシュに持ち込んでゴールネットを揺らした。この日のスタメンから外れた2人の男が、途中出場によって結果を残したわけだ。

 とっておきのジョーカーを2枚もそろえるドイツの選手層の厚さが際立った。逆にアルゼンチンは途中出場のアグエロ、パラシオの両アタッカーが精彩を欠いている。準々決勝で負傷したディマリアの不在も大きく響いていた。以心伝心の相棒を失って以降、偉才メッシの調子が下降線をたどっている。負傷明けのアグエロとのホットラインも「不通」のまま。それでも何度か見せ場をつくるあたりがいかにもメッシらしいが、最後まで決定的な仕事ができずに終わった。

様々なトラブルに対応しきったレーブのベンチワーク

 ドイツを率いるレーブ監督の冷静なベンチワークも勝因の一つと言っていい。試合直前にスタメンを予定していたMFケディラがふくらはぎを傷めて欠場を余儀なくされる。メンバーの再編を強いられたレーブは経験の浅いMFクラマーの名前を先発リストに書き込むが、そのクラマーも17分にガライと交錯した際に頭部を打ち、31分にベンチへ退く。この緊急事態にもレーブは少しも動じることなく、切り札シュールレを投入。左翼のエジルを中央に回し、攻撃スタッフの数を増やす強気の采配で、自陣に後退して人数をかけるアルゼンチンの堅陣を切り崩しにかかった。

 さらにレーブは延長目前の88分、1トップを担う大ベテランのクローゼに代えてゲッツェを投入。右翼のミュラーを1トップに回し、勝負に出た。あの手この手でゴールに迫るドイツの猛攻をしのいできたアルゼンチンの守備陣も、延長に入って動きが鈍くなっていく。

 瞬間的にマークを外せるゲッツェの機動力が生きる状況が整いつつあった。決勝ゴールの伏線である。シュールレが縦に持ち出した瞬間、ニアへ潜り込んだゲッツェの動きに反応するアルゼンチンの守備陣は1人もいなかった。

パスだけでも、ドリブルだけでもないドイツの攻撃

 大胆に仕掛けたシュールレのジャッジも素晴らしい。人数をかけて守る相手に対して、パスワークだけではなかなか崩せない。そこでドリブルワークに切り替え、数的優位をつくり、マークのズレを誘っている。準決勝までアルゼンチンの右サイドにフタをしてきた熟練サイドバックのサバレタも、シュールレの仕掛けを防ぐ余力は残っていなかった。パスワーク一本槍でも、ドリブルワーク一辺倒でもない。双方を巧みに両立させる人材とアイデアによって、難攻不落の要塞を攻略してみせた。

4バックの背後には、手も使えるリベロがいた

 今大会におけるドイツの戦いぶりは、前回大会で王者スペインが指し示したポゼッションプレーのさらに先を行くものだったかもしれない。

 システムは「5-3-3」、いや「1-4-3-3」と言うべきか。大胆に最終ラインを押し上げる4バックの背後に、手も使えるリベロがいた。「走る守護神」ノイアーだ。2人のセンターバックが敵陣に入って積極的にパスワークに参加し、相手を深々と押し込む破格のポゼッションを最後方から支えていた。11人で攻めて守る未来像へ、さらに一歩近づいた。

幅と深さを同時に追求したダイナミックなポゼッション

 パスワークも、よりダイナミズムにあふれていた。天才クロースの放つロケットのようなサイドチェンジに象徴されるように、より速く、より遠くへボールを動かすパスワークを操ることで相手のコンパクトな包囲網を破る方向性を示した。ここにドイツ伝統の走力が絡み、足元だけではなくスペースへ球を送り込むことで、攻撃の選択肢が広がっている。ポゼッションとカウンターを自在にスイッチできる一因だろう。攻撃の幅と深さを同時に追求したダイナミックなポゼッションが、新しい時代を切り開いていくことになるのではないか。

 チームの平均年齢は25.7歳だ。メンバーの多くがさらに経験値を高め、4年後のロシア大会に臨むことができる。不運なケガで今大会を棒に振った鬼才ロイスを含め、将来性豊かなタレントが国内にひしめいている。今大会の優勝は集大成というよりも、ドイツ新時代の始まりと言っていい。今回のチームの母体となった名門バイエルンの行く末を含め、ドイツのフットボールはさらなる進化、発展を遂げることになるのではないか。

北條聡=文

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「始まりがあるものには全て終わりがある」

25回目を迎えるイベントが金曜日に無事、閉幕しました。
 

去年1月から営業サポートとして協力し、8月から営業責任者として動いてきました。 

会期が7月から4月へ、会場が東京から横浜へ。そして、関連のイベントと初めての同時期開催。さらに、全体が3年ほど前から縮小傾向のイベントだから、開催そのものが出来るのか、そんなリスクがある中での開催でした。 

自分としては70点ぐらいかな。来場者は増えましたが課題も多い。 

今回、少し残念だったのはテレビ取材が入ったのに最終的に報道されなかったこと。 

フジテレビ「めざましテレビ」の取材が火曜日に入り水曜日に2、3分、イベント情報として放映予定だったのですが、オバマ来日のNEWSでお流れになりました。 

その後、再取材が木曜日にあり再編集されて4、5分のコーナーとして金曜日に放映予定だったのですが、甘利さんのTPPに関するコメントの生中継が急遽、入ってしまい、お蔵入りとなりました(≧∇≦) 

実は、僕もイベント責任者として20秒ほど流れる予定でもあったのですがね(笑) 

「終わりがあるものには全て始まりがある」 

終わったという安堵感にひたれません。むしろ、これからどうするのか、という答えを出さないといけない。
開催報告書作成など、やるべきことが多い(笑) 

とりあえず、土日は何も考えずに、ゆっくり過ごして、月曜日から次へ向かう仕事を始めます。
モネは眼にすぎない、しかし、何と素晴らしい眼なのか。

と、詩人、レミ•グールモンはモネを賞賛している。

彼が描く風景は、彼独特の色彩、光やイメージが織りなす世界観だから、同じ原風景を見たとしても同じ絵を描くことは不可能だ。

彼の晩年の絵画などは色が溶けてしまったかのような霧の中にいる世界のようでもある。

いろんな芸術家の絵画や彫刻、陶器などを見て回るのが好きですが、それは自分の好みの世界を探す旅のようなものでもある。あるいは、自分探しのようなもの。

好みの芸術作品に出会えると、まるで作者と自分が共感しているかのように思う。少なくとも同じ感覚であり、同じモノを美しいとか好きだと思うのではないか、と。

好きな映画が人により異なるように、気に入った芸術品も人により評価はまちまち。

僕が特に感動したのは以下の2作品。

妻と息子を描いた絵。そして、妻を失ったどん底から救うように見える日没の太陽。

光、その光を失ってもなお、光を求めるモネの気持ちが見えるような気がする。

日曜日に一人で西洋美術感動で観てきました。

「散歩、日傘をさす人」
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(以下、印象派愛好家のサイトより抜粋)

日傘をさす女性は、当時の妻であるカミーユ・ドンシュー(カミーユは1879年に死去し、モネはその後1892年に再婚する)を、傍らに添う幼児は長男ジャン(当時5歳)をモデルに制作されている。観る者がこの二人(妻カミーユと息子ジャン)を見上げるような視点で描かれる本作で最も印象的なのは、逆光と風の中のカミーユのおぼろげな表情にある。日傘を手に観る者と視線を交わすカミーユの顔は、自然風の中でなびくヴェールによって遮蔽されている。この面紗(ヴェールの意)の自然的な運動による瞬間的な印象性を描き出すことによって、草原に立つ女性を観る者は面影として捉えるため、強く心象に残り、かつ神秘的にすら感じるのである。また画面の大部分を構成する青色、白色、緑色、黄色などの色彩は、自然と触れ合うことによって感じる爽やかで心地よい感覚を観る者に与えるのである。なお本作は人物の描写に重点を置いている。

「セーヌ河の日没、冬」
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(以下、ポーラ美術館の説明文より抜粋)

モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。