去る7/5(日)、行って来ました「FUSION
FESTIVAL in Tokyo Vol.2」。会場は数ヶ月後には取り壊されてしまう名門、五反田ゆうぽうとホール。
前回のVol.1は渡辺香津美、野呂一生、そしてリー・リトナーのトリプルギターバトルだったらしいけど、今回はNANIWA EXPRESSとCASIOPEA 3rdという、往年の名バンドを中心に、いろんなアーティストたちがこぞって出演。その意味では、前回のVol.1の流れを組んで、というよりも、かつてあったコンサート「CROSSOVER
JAPAN」に近い内容と言えるか。客層は男女ほぼ半々で、年齢層も20代からミドル~シニア層まで満遍なくバラけている感じ。アコースティックジャズ系のコンサートだと来場者は男性偏重、平均年齢も大概高めになるのに対し、このコンサートでは絶妙なくらいバランスが取れていて、それが印象に残った。
日本の音楽ファンって、意外に層が厚いのかも。
果たしてこのコンサート、やっぱりNANIWAとCASIOPEAでの盛り上がり方が半端ではなく、彼らが登場すると場内は大盛況。特にCASIOPEAのステージでは、前座を務めた押尾コータローの“仕掛け”で観客が既に演奏開始前から立ち上がっていたためか、序盤から大騒ぎ。レパートリーは基本的に彼らの最新アルバムからが中心だったようだけど、1stアルバムからの曲が演奏されると客が尋常でないくらいヒートアップして、“お約束”のパートでは客が2拍目と4拍目で「ハイ! ハイ!」と叫びながら右手の拳を天に向かって突き上げる。傍で見ているこちら側が逆に引いてしまうくらいの、異常なまでのノリの良さだった。
そんな中、個人的に一番グッと来たのは、はっぴぃえんどの鈴木茂(el-g,vo)をフィーチャーしたスペシャルユニット。何せ、村上“ポンタ”秀一(ds)、後藤次利(el-b)、佐藤準(key)という布陣に、J-フュージョン界のアイドル小林香織(as,fl)が華を添えるという豪華ラインナップだ。このユニットは、当初予定されていた松原正樹(el-g)が病気療養のため出演を辞退したことから、急遽鈴木に白羽の矢が立ったという急ごしらえバンドだったらしいけど、
聴き応えは十分すぎるくらい。
いわゆる“キメ”の連続が多くて音圧がすさまじい他のバンドとは違う感じの、メロディーやリズム、グルーヴ重視型の演奏で、聴いていて思わず引き込まれた。鈴木の味のあるギターと歌も素晴らしかったし、「後藤次利ってこんなにベース上手かったんだ…」っていう驚きの発見(失礼!)もあった。マーシャルアンプの圧倒的なボリュームに立ち向かう香織チャンも健気だったけど、何よりもポンタの上手さ! 久々にナマで聴いたけど、どんだけバカスカ叩いても全然うるさくなくって、演奏がグルグルと転がっていく。やっぱりこの人がいたからこそ、バンドがここまでグルーヴしたんではないかしら。
それともう一つ賞賛したいのが、コンサートを運営した裏方の皆々様。何とこのコンサート、これだけのメンツが集まったにもかかわらず、
3時間以上の長丁場をノンストップで
通してみせたのだ。普通、大物が顔を揃えるタイプのガラコンサートだと、1つのバンドが演奏を終えるたびに「セットチェンジのため、20分の休憩を頂きます」的な進行になって、その都度興奮が冷めてしまうことになりがちだけど、今回は全出演者の必要機材をコンサート冒頭からすべてステージ上にセッティングすることで、そうした途中のブレイクを一切せず、オープニングからアンコールまでほとんど継ぎ目なしに全体を進行し切った。こんなステージ、初めて観た。
その驚異の進行に一役買ったのは、やはり押尾コータローじゃないかしら。ポップスも含めた
日本の音楽シーンの中でも屈指の芸達者
である彼は、ご存知の通り彼一人だけ・ギター一本だけで十分観客を魅了できる人だけど、当日はさまざまな出演者と絡んでバンドとバンドの間をつないだり、自身がセンターを務めるユニットでもソロに伴奏にMCにと、八面六臂の大活躍。上手い人は何やらせても上手いのね。
というわけで、いろいろ収穫の多かった「FUSION FESTIVAL in Tokyo Vol.2」。公演の内容的にも集客力的にも、さまざまな可能性を内包しているように思った。終演後にお会いした主催者の方も「もっと内容を充実させて、また来年もやりたい」という趣旨のことをおっしゃってらしたので、今後の展開がとても楽しみだ。
なお、今回のステージを観ながら
「フュージョンって何だろう?」
的な疑問が頭をもたげた。それについてまとめるのにはいろいろ時間がかかりそうなので、ある程度まとまった段階で、後日、順々に私見を述べていきたい。
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ヘンな映画を観た。
タイトルは「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」。昨年暮れ辺りから識者の間で「面白い!」という評判が立っていたが、こないだのアカデミー賞で4冠(作品賞・監督賞・撮影賞・脚本賞)を獲得したことで、日本でも俄然注目を浴びることになった作品だ。
監督はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。収録当時は無名だった菊地凛子の体当たり演技で彼女の出世作となった「バベル」を撮った人だが、その「バベル」といい、その前の作品「21グラム」といい、前評判が高いわりに、全然自分の中にストンと落ちてこないというか、肩透かしを食らわされたというか、「何が言いたいんだかわからん」というか、そんな印象ばかりが残っているので、「あぁ、またこいつか…」的な気持ちが先に立ってしまい、世間の熱狂ぶりとは裏腹に、自分としては正直、あまり期待はしていなかった。
で、結局どうだったのか。
鑑賞後の第一印象は、
「相変わらず、何が言いたいのかよぉわからん」
「でもわりかし面白ぇ」
…という感じ。内容としては、かつてスーパーヒーロー物のブロックバスタームービー「バードマン」シリーズで一世を風靡したものの、その後泣かず飛ばずで世間から忘れかけられている老優が、自身の俳優人生をかけて挑んだブロードウェイの舞台における数日間のドタバタを描いたコメディーだ。主人公やサブキャラがいろいろやらかしてくれるおかげで、観ているこちら側はゲラゲラ笑ったりハラハラしたり、登場人物のイタいシーンに目を覆いたくなったりと、最後まで退屈を感じずに物語を楽しめる。
冒頭で「ヘン」と言ったのには2つの理由がある。1つは編集。何とこの映画、約2時間の上映時間中、
ほとんど最後まで一度もカットが入らない
というノンカット撮影、超絶長回しで撮られている。長回しと言えば、最近では水谷豊主演の大ヒットドラマ「相棒」がそんな撮影法を多用することで有名だが、もちろん、2時間もの物語でそんなことをリアルタイムで行えるはずはない。実際は、数分間くらいの長尺シークエンスをCGでつないで実現した、とのこと。ということは、出演者のメイク、ヘアスタイル、衣装やその乱れ、立ち位置や姿勢、身振り手振り、さらには照明やカメラアングル、露出など、レンズを通して見えてくるあらゆるものに細心の注意が払われたはずで、この映像を実現させたスタッフの苦労には脱帽させられる。実際、そのノンカット撮影のため、主人公は人々でごったがえしている夜のタイムズスクエアを、ブリーフ一枚だけという小っ恥ずかしい格好で何度も行き来させられたのだとか。
その主人公役を務めたのは、今日に至るスーパーヒーロー物の先鞭をつけた「バットマン」と続編「バットマンリターンズ」で主演を務めたマイケル・キートン。先述した「スーパーヒーロー物で一世を風靡したものの、その後世間から忘れかけられている老優」という設定が彼自身の経歴にほとんどピタリと当てはまり、映画ファンなら思わずニヤリとさせられる。また、主人公の娘役が「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのヒロインであるエマ・ストーン。さらには、物語を引っかき回す舞台俳優役が、主演作「インクレディブル・ハルク」が大コケしたエドワード・ノートンと、ヒーロー物にひっかけた役者が多々起用されている。ここは監督に
「このキャスティング、ゼッテーわざとだろ?!」
とツッコミたくなるところ。
なおこれら一連の撮影を行ったのはエマニュエル・ルベツキ。「ゼロ・グラビティ」で同様のノンカット撮影と、“無重力”という異空間で起こる驚異の光景をフィルムに収めてみせた人だ。本編中に何度も登場する楽屋のシーンで、明らかに鏡に正対しているのに鏡に撮影者の姿が映らないというデジタル技術にも舌を巻く。
え? 今どきそんなの当たり前? あ、いや、失礼しました…。
2つ目は音楽。この映画のことをここで書こうと思った最大の理由がここにあるのだが、本編中は、いわゆる「ドレミファ」を伴った音階や、まして「ドミソ」のようなハーモニーを持った音楽はほとんど登場しない。たまにマーラーやチャイコフスキー、エリック・サティなどが差し挟まれるものの、主人公が何かをやったり感じたり、あるいは場面が動く度に流れるのはシンプルなドラムソロだ。このドラムを手がけているのが
アントニオ・サンチェス。
現代ジャズギター界のカリスマ、パット・メセニーお気に入りのドラマーだ。実際は彼が叩いた60以上ものドラムパターンをあらかじめ収録し、その中からシーンに合うものを監督があてがっていったということらしいが、主人公の心中のイライラやモヤモヤを実に的確に表現していて、
このドラムだけでも、この映画は観る価値がある
と思ってしまった。菊地成孔が本作を絶賛するのも頷けるし、このドラム演奏がアカデミー賞にノミネートされなかったことに坂本龍一が苦言を呈したことにも「その通り!」と言いたい。
なお、本編中にドラムを演奏している黒人が2度登場するのだが、あれはジャズドラムの名手ブライアン・ブレイドじゃないかしら? エンドクレジットの中にも彼の名前が登場するんで…。
本編がどういう顛末になるのか。それは観てのお楽しみということで、ここではネタバレはしない。前述したように何が言いたいのかよくわからない映画なので強力にプッシュはできないが、驚異の映像とドラムの力を体験してみたい方にはぜひオススメしたい。ただ、その珍妙な内容のせいか、アカデミー賞受賞作にしては上映館数は極端に少なく、映画館で観たいという方は、上映館に辿り着くだけで相当苦労するんではないかしら。むしろ、DVD/BDレンタルを利用して、「ン?」と引っかかったシーンを何度も繰り返して観るのがいいかも。ちなみに、タイトルにある「無知がもたらす予期せぬ奇跡」が何のことかは最後の最後でキチンと説明されるのでご安心を。
話題の映画「セッション」、やっと観て来た。川崎のレイトショー、¥1,300.-也。こないだの映画の日(5/1)は昼過ぎに銀座の劇場に行ったのに、夜の部まで全上映館・全席完売で、飛び込みじゃ入れなかったのよね。それだけ話題作だっていうことなんかしら…。
で、鑑賞後の第一感想をいきなり言わせてもらうと、
これは音楽映画でもジャズ映画でもない。
暴論かも知れないけど、ここはハッキリさせておかないと。少なくとも筆者にはこれが音楽映画やジャズ映画とは思えなかった。
何故か。それは、この物語の“肝”が音楽でもジャズでもないから。この物語の背景がたまたま音楽学校でのビッグバンドジャズ教室だった、というだけで、物語自体が描こうとしているものは音楽じゃない。試しにこの映画の舞台をビッグバンドジャズでなく、クラシックやロック、民謡などの別ジャンルの音楽、ひいてはダンスや演劇といった他の芸術、さらにはスポーツや料理などに置き換えても、そこに師弟関係が存在する限り、この物語は十分成立し得る。それにこの映画は、本編の中で音楽やジャズの“真髄”とか“本質”といったものを何一つ語っていないのだ。
第一、「ジャズ」とか「ジャズ教育」の描き方とか、「1、2、3、バシッ!」と4/4拍子の4拍目で生徒の横っ面を連続で張り倒しながらリズムトレーニングする性格異常の暴力教師とか、
状況設定にはツッコミどころが満載。
この脚本は、監督でもあるデイミアン・チャゼル氏が高校時代にバンドでジャズドラマーをやっていた時の実体験が基になっているというけど、でも監督は「これが本場の音楽学校の実態だ」的なドキュメンタリーのような撮り方はしていないし、実際の教育現場がこんな感じなわけがない。そういう風に受け取る観客もまずいないだろう。
なので、日米のジャズ関係者の一部から、この映画の中のジャズの描き方・取り扱い方についてさまざまな苦言が出ているらしいが、これを観たジャズ初心者の人たちが“ジャズってこんなに怖い音楽なの?”なんて感じることは十中八九ないだろうし、「ジャズの描き方がおかしい!!」とか、「テクニカルタームがデタラメだ」とか、主人公が「早く手を動かせば偉いと思っている、バカ以下のガキ」にしか見えない、といったことはこの映画の枝葉に過ぎず、さほど目くじら立てることでもないように思う。まぁ気になる人には気になるんだろうけど。
筆者が思うに、この映画の“肝”は
「狂気の暴走」と「他者への異常な依存」
の2点にあると思う。「狂気の暴走」とは、一つの物事に執着するあまり、社会性や情愛、思いやりといった、人間として大事な何かを次第に失っていくこと。これについては、物語の進行に伴い変化していく主人公の言動や表情がすべてを物語る。物語の当初、アゴの形にコンプレックスを持っている恋人をそっとねぎらうほどの優しい性格と気心の持ち主だった主人公が、中盤には「今、俺の頭の中にはジャズと音符とドラムしかない」などとワケのわからん理由で彼女を一方的に捨ててしまう。親族との夕食の席では、自身のアメフトチームの戦績を自慢する兄弟に「所詮、三流リーグでの話だろ」と吐き捨てる。これらのセリフを語る時の、主人公の半分イッてる目線が痛々しくも印象的だ。
その原因はもちろん件の鬼教師。彼にしても、頭の中にあるのは自分の理想の音楽を自分が操るミュージシャン(=生徒たち)で演奏し、全米No.1のポジションを獲得すること。そのために邪魔な存在と判断すれば、例え自分の教え子であろうと罵声とともに容赦なく切り捨てる。「自分の生徒を一流のミュージシャンに…」などとは毛ほども考えていない。この時点で既に彼は教師失格であり、それどころか人間としてもいろいろと破綻している。
この2人、形こそ違うが、音楽への渇望がもたらす狂気を抱えているという点では共通しているのだ。
もう一方の「他者への異常な依存」は、特に主人公の行動や表情に顕著だ。彼は鬼教師によって肉体と精神の両面から徐々に追い詰められていく。しかし彼はシゴキにひたすら耐えるだけでなく、プライベートの時間も休むことなく、指から血を流しながらドラムの練習に没頭、ようやく♩=400という超高速テンポをものにし、ライバルたちを押しのけてレギュラードラマーの座を勝ち取る。この時の、鬼教師から「お前が主席だ」と告げられた際に主人公が見せる
カタルシスの表情こそがこの映画の本質を表している
と思う。主人公にとってこの鬼教師は、本来殺しても殺し足りないほどの憎ったらしい存在な筈なのに、次第に主人公は彼に認められることで満足感を得るようになり、そのことを生活や人生の目標に据えるようになる。「その存在なしでは自分の立ち位置を確認できない、憎悪の対象」という歪んだ人間関係は、観ていてヒリヒリした。その人間関係の交錯は、ラストシーンの「Caravan」の演奏中、二人が交わす無音の会話や表情、視線でピークを迎える。お互いを認めたんだか信頼するようになったんだか、それとも軽蔑し合っているんだか。
この微妙な距離感をセリフなしで表現し切ってしまう2人の演技力
が、この映画を見応えのあるものにしていると思う。性格破綻を来している主役級の2人には決して感情移入はできなかったが、極限状況の中で2人が見せる感情の変遷と交錯には大いに揺さぶられるものがあった。
なお、このラストの「Caravan」の白熱の演奏をもってこの映画を大絶賛する声が多い。さんざんコケにされ続けてきた鬼教師から土壇場で主導権を奪って披露する、これまで溜めに溜めてきたいろんなものを一気にぶちまけるかのようなドラム演奏は確かに圧巻だ。あそこまでバディ・リッチをコピーした主演のマイルス・テラーの努力には頭が下がる。でも筆者にはそれ以上の感動はなかった。それは、演奏後の2人の様子も観客の反応も一切描かれず、音楽が終わった途端にエンドロールが流れて「おしまい!」というような、
投げっ放しジャーマンのような終わらせ方
のせいだろうか。「ロッキー」第1作目を見終わった後のような清々しさもジーンと来る何かも、この映画からは感じられなかった。あるいは筆者も、普通の人が本来持っている“何か”が欠落してるのかも知れない。


