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”2025年最後の集会”



”幸いな人 不幸な人 私はどんな人? ~今年一年を振り返って~”



わたしの戒めを心にいだいて守る者は、わたしを愛する者である

holygirlですニコニコ

 

今年最後の集会は、ヨハネによる福音書14章から始まりました。

 

ヨハネ14:1〜31本

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。 今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。 わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

 

アーメンダイヤモンド

イエス様が道であり、真理であり、命です。誰でもイエス様によらないでは、神のみもと(天国)には行くことはできません。唯一真の神と、神の長子であり救い主として地上に来られたイエス様を信じる者には、イエス様ご自身が天国に場所を用意してくださり、時が来たらご自身のところに迎え入れてくださる(携挙される)と約束されています。ヨハネによる福音書14章を読むと、イエス様ご自身が天の父(神)と一体であることを証しており、さらに、助け主聖霊も、三位一体としての働きをされることが分かります。

イエス様には神がそれだけの権威を与えておられるわけですが、クリスチャンであっても、「神」「神様」とは言っても、「イエス様」というお名前をはっきり言わない人が多くいます。また、聖霊の存在を軽んじ、聖霊を信じない、聖霊の力を受けようとしない教会も多くあります。そのような人々、教会、牧師はこの14章をどう受けているのでしょうか。私たちは改めて、イエス様の御名に力があること、“イエス様の名”によって願うことは、何でも叶えて下さること、それは私たちのためではなく、天の父である神が栄光をお受けになるためであることを、再確認しました。

 

そして、「イエス様を愛している」と言いながら、日常生活の中で戒めを守れていない人、自分のやり方、自分の義、意見を捨てきれずに、貫いている人が多すぎると牧師から訓戒されました。イエス様の言葉を守らない者は、イエス様を愛さない者。イエス様の戒めを心にいだいて守る者こそ、イエス様を愛する者。イエス様を愛する者は、神に愛され、イエス様に愛され、イエス様ご自身をあらわしてくださるのだと語られました。このように、イエス様が一緒に住んでくださることが最高の富、祝福であると思えているでしょうか?体験できているでしょうか?

 

今週の集会でも兄弟姉妹たちから証を聞く時間が与えられましたが、イエス様の戒めを守り行ってきた人たちは180度変えられ、心の願いが叶えられ、次々と証という実を結んできた1年、救われてから今日までの歩みであったことがよく分りました。しかし、イエス様の愛に鈍感になり、救われたことへの感謝、ここまでの導きに対する感謝を忘れ、自分のやり方、意見を優先して行なう者は、真理の道から外れ、サタンの策略にかかり、肉に刈り取り(健康を奪われ)、喜びをなくし、不信仰になっていくこと、【持っている者はさらに与えられるが、持っていない者は持っていると思っているものまで取り上げられる】ことも、教材として与えられ、自分の歩みはどうか吟味することになりました。そうならないために、聖霊は、イエス様が話しておいたこと、集会で語られたことを、ことごとく思い起こさせて下さる方です。その声が聞こえていても無視しているのか、肉が強すぎて全く聞こえていないのか・・・毎週日曜日に集会で語られるメッセージは、月曜日から土曜日まで何が起きるか全て御存知の神・イエス様が与えてくださっている武具であることをわきまえ知り、集会で学ぶ意義・目的をしっかりと意識して着席しなければならないと語られました。

イエス様はサタンに勝利しています。イエス様に対してサタンは何の力もありません。サタンの攻撃を受ける、サタンに惑わされているなら、自分の問題であり、どこで、どんな思いから、何をきっかけにサタンに門を開いたのかを聖霊によって思い出させていただき、悔い改めてその門を閉じ、イエス様が求めておられることにしっかりと意志を向けて、サタンの仕掛けた策略、攻撃に勝利していかなければならないと語られました。

‭‭

上に書いたことの学びの教材として、先週兄弟姉妹の身に起きた2つの出来事があったので、紹介します。

 

A姉妹は、統合失調症である娘(次女)のB姉妹の癒しを求めてぶどうの木に導かれてきました。ブログ内でも何度か紹介してきたかと思います。長女家族が住むマンションの隣のマンションに空室があり、神奈川県の家を売り払って、長女家族の近くに引っ越してきました。そこからB姉妹を支配する悪霊と向き合いながら、家族皆が真実の愛・神の愛とは何かをイエス様に聞き、実践し、一人一人が変えられていきました。しかし、B姉妹にはタバコの誘惑があり、それに勝てずに吸うと、いっきに悪霊が戻ってきて、悪態をつくようになり、昼夜逆転の生活になり、タバコの吸い殻を求めて徘徊をするため、70代後半のA姉妹ではとても手に負えなくなり、体力も奪われていきました。自ら警察沙汰を起こし、精神病院に入院することもありました。精神病院での入院目的は、禁煙でした。禁煙して正常に戻ると、退院になりました。

A姉妹は50歳になるB姉妹が自立して働ける場を求めていました。そんな時、ふと置いておいたチラシに目が留まり、それが老人施設で行われる仕事でした。A姉妹は「イエス様だ!」と喜び、すぐに話を聞き、B姉妹が退院してきたタイミングで、働けるように段取りをしました。そして、B姉妹も喜び、今年から送迎付きの職場で週3勤務するようになり、社会人として自分の力で給与を得れるまでになりました。と同時に、A姉妹とB姉妹の母娘の生活では、霊の交わりが足りていないため、もっと兄弟姉妹とも交わっていけるように、また主にA姉妹の年金で生活をしていたため、経済的にも平安に暮らしていけるようにとイエス様から給与を得て、諒兄弟の食事づくりの仕事をするようになりました。二人のためにイエス様が与えてくださった仕事は、今群れの働き人として全ての時間を捧げているW姉妹が毎回送迎をすることになり、栄養士の資格をもつA姉妹の賜物が生かされました。調理に興味のあるB姉妹もA姉妹のサポートとして、共に働きました。交わりの中で、普段A姉妹が気づけていないような事も、兄弟姉妹たちがB姉妹に指摘したり、互いに思いを伝えあう訓練の場が与えられました。

 

しかし、またタバコの誘惑に陥ったB姉妹は、生活が乱れ、主治医の診察を受け、再び入院することになりました。今年中に退院できるかどうか分からない状態でしたが、速やかに回復し、今回は警察が介入しなかった事もあり、早々年内での退院が決まりました。そんな時、諒兄弟のヘルパーとして関わってきた方が経営する老人施設で、人手が足りない事が分かり、食事の準備と掃除をしてくれる人を探しているという話が聞こえてきました。諒兄弟の母親が、A姉妹に声をかけると、A姉妹は、前回も退院前にチラシを通して職場が見つかったことを思い出し、「前回と同じだ!食事の仕事をしたいと言ってたし、イエス様だ!」と喜び、B姉妹が退院後、すぐに諒兄弟の母親と3人で見学に向かいました。今までB姉妹が働いていた職場にもやめる報告をしていました。ただし、その施設は、A姉妹たちの家からは遠く、1時間に一本しかないバスに乗って浜松駅に出た後、さらに乗り換えることになり、通勤だけでも1時間以上かかる場所にありました。さらに、A姉妹には給与が出ても、障害者のB姉妹は無給、ボランティアでの勤務条件でした。それでも、A姉妹は、何とか今度こそB姉妹を自立させたい!身体を動かして夜しっかり眠り、健康的な生活を送ってほしい!という強い思いから、自分と一緒に働いて、自分が得た給与を半分あげ、いずれはB姉妹が一人で給与を得て働けることを望み、すぐに働くことを決めてしまいました。諒兄弟の母親も、距離はあるけど、W姉妹が送迎をしてくれるならば、二人にとって良い職場ではないかと思い伝えたそうですが、その際、B姉妹から、「うちの家族の事に口出ししないでください!」という発言がありました。諒兄弟の母親は、あまりにも無礼な言葉に、最初は何を言われたか思い出せずにいましたが、W姉妹と霊の交わりをする中で思い出し、明るみになりました。実際、B姉妹が、「食事づくりの仕事をしたい」とA姉妹に話していたそうですが、見学を終えた時には、「前の職場の方が良い」と言っていたそうです。

 

年明けからの勤務でしたが、A姉妹は職場見学をした日に、7ヶ月間行なってきた諒兄弟の食事づくりの仕事を「今日限りで終わりにします」と言ってやめてしまいました。牧師には事後報告となりました。一連の流れを知った牧師は、このような形でイエス様が与えてくださった働きを終わることが、神から来るだろうか?と思い、B姉妹が最後に言い放った「うちの家族のことに口出ししないでください!」という言葉はサタンが言わせた言葉だと分かりました。A姉妹もB姉妹もその発言を記憶にないと言ったことが決定的でした。新しい職場での勤務の正式契約をする前日、今まで二人に関わってきた兄弟姉妹を交えて話をする中で、諒兄弟の食事づくりという群れの交わりから離して、二人を孤立させてやぎにし、無謀な職場勤務をさせて滅ぼすサタンの策略、共に働き、A姉妹が得た給与の半分を渡すことも支配と依存の関係に逆戻りであり、これはサタンが光の天使に擬装した導きであったことが解き明かされました。そして、「前もそうだったから、今回も!」という考え方で動くのは危険であり、一つ一つ霊を試さなければならないことを語られました。そのためには、今の自分がどのような土台、導きのもとにあるのか、その感謝と恩を忘れないことです。自分にとって都合の良いことはイエス様、試練であればサタンではない事も再確認しました。

 

そこから、二人の思いを親身になって聞く中で、イエス様はB姉妹に、怠惰の霊を足の下にして、月曜日から金曜日まで毎日働くようおっしゃいました。そして、月、火、木曜日は、前の職場で(やめると伝えた時、いつでもまた戻ってきてくれたら良い、席をあけておくと言ってくれていました)、水、金曜日は、新たな職場で働くことが決まりました。無理のないよう、W姉妹が引き続き送迎をすることになりました。

主イエス様がされる時、皆に平安が与えられる配慮(通勤の心配は要らない)と、思いをはるかに超えた良いものを与えてくださいます。結果、毎日B姉妹が働くようになったことは、家族の願いでもありました。サタンに力なく、イエス様のやり方で解決され、【立て。さあ、ここから出かけて行こう。】とイエス様がおっしゃって下さったように、A姉妹とB姉妹が神の御手の中、守りの中で新たな職場に出て行けることを皆で感謝しました。

 

 

先週の集会で、「物事にはタイミングがあります。言葉にするべき事、言葉にしなければ分からない事があり、それを的確なタイミングで行うことで、聖霊も働いてくださいます。クリスチャンでありながら、タイミングを逃すなら、完全に肉の人であり、全く聖霊を拒否している罪です」と語られました。これは、私たちに対する武具であり、イエス様からの「タイミングを逃すな!」という命令でもありました。それにも関わらず、翌日の月曜日(22日)、私の夫であるK兄弟は、言葉にするべきタイミングを逃し、その罪を体に刈り取ることになりました。

 

K兄弟は今月の初めに行われた会社の忘年会で、同僚のNさんから長い期間お腹と背中に痛みを抱えており、今度大腸検査を受けるという話を聞き、自身の霊の病(病院に行っても原因不明)が、イエス様によって癒された証をしていました。そして、Nさんの癒しを祈る中、週末に検査を受けるという事を他の同僚を通して耳にしていました。検査結果を気にしていた同僚たちは、先週の月曜日(22日)にNさんが出社するとすぐに、「どうだった?」と声をかけに行っていました。K兄弟もすぐに声をかけなければという思いがありましたが、他の同僚が聞きに来ているからと遠慮し、また別の機会にしようとその場を立ち去りました。その日は、商品の試験をする予定が午前中に入っていたのですが、急遽午後に変更になり、午前中にNさんに聞く時間があったにも関わらず、そのまま聞かず、午後の試験を行い、その最中にぎっくり腰になりました。その瞬間、Nさんに検査結果を聞けていないからこうなったと悟り、情欲に流されていたことを悔い改めました。そして、すぐにNさんに検査結果を尋ねると、心配してもらえていることを喜んでいる様子で、問題はなかったが、肛門に指を入れられて押された時に痛みがあったので、ある病気を疑われ、薬を処方され、様子を見ることになったとの事でした。

就業時間中は、腰の痛みもそこまでひどくなく、K兄弟はいつも通り会社の最寄り駅まで歩いて向かったのですが、駅のホームに向かう階段を下りている途中で、腰に激痛が走って歩けなくなり、しゃがみこんでしまいました。這って降りるしかない状況の中で、声をかけてくれた人がかばんを持ってくれ、自力でホームにたどり着くことができました。しかし、電車が来て向かおうとすると、腰の痛みでカバンが重く感じて持ち上げられず、電車から降りてきた人に声をかけてもらえたことで、駅員に車椅子を用意してもらうことになりました。感謝なことに、天使がチャージされて、人から人が助けてくれたことを通して、自分が一番苦しくて痛い時に、声をかけてもらえるありがたみを思い知り、Nさんの思いも悟り、Nさんにすぐにそれができなかった自分を涙ながらに悔いました。

 

電車の中までは車椅子で入れないため、激痛の中、座席に何とか座り、そのまま約50分かけて自宅の最寄り駅にたどり着きました。駅から駅へ連絡が行っており、車椅子がホームに用意されていましたが、駅員が慣れていない様子でもたついていると、すっと手際よく自分を車椅子に乗せてくれた人が現れました。連絡を受けて介助に来てくれた義理の父親でした。義理の父親が、駅員にお礼を言い、その場が和むように話をしていると、駅員も、「私もヘルニアなので、大変なのがよく分ります」と言い、本来は駅構内までの車椅子を、妻(私)が待つ送迎レーンまで快く貸してくれました。すぐにお礼を伝え、相手の心を開く話術でその場を和ませる義理の父の姿も、K兄弟が身につけていくべきものでした。

そのまま、普段からお世話になっている接骨院に向かうと、本来勤務時間ではない院長が突然あらわれ、適切な処置をしてくれました。まさに奇跡的な事でした。

 

義理の父親の付き添いで自宅(マンション)に戻ってきたものの、自力で歩くことのできないK兄弟は、父親一人の力では到底運ぶことができず、妻である私も呼び出されました。エレベーターに乗って10階にある家まで行くには、長い距離を歩かねばならず、1歳半で11キロある息子を片手で抱っこしたまま、K兄弟がもう片側に体重をかけてきて歩くことは大変なことで、私は「イエス様、助けてください」と祈りました。すると、マンションでの配達を終えた宅配業者の若い男性があらわれ、「どうしましたか?」と声をかけてくれ、エレベーターのところまで父と共に主人を運んでくれました。御使いが仕えてくれていることに、改めて感謝しました。このようなタイミングでの報告になりますが、現在私は第2子を妊娠しており、妊娠初期でもあるため、無理はできませんでした。しかし、K兄弟の緊急事態に対応しているうちに子宮に痛みを感じ、その報告を受けた母(牧師)と妹も、流産を来たらせる死の使いを縛り上げながら、急いで駆け付けてくれました。一家の長であるK兄弟の不忠実は、サタンに門を開き、滅びと死を来たらせるところでしたが、祈りの力で食い止めることができました。木曜日には、検診にて、無事に元気に成長している10週目のお腹の子を確認することもできました。

元気に動き回る息子と、自力で動けない夫の介助は、到底つわりで体力を奪われている妊婦の私一人ではできず、月曜日の夜から、毎日私の家族と、息子のベビーシッターをしてくれているW姉妹の助けを借り、今日に至るまで過ごしてくることができました。

接骨院の院長から、今年一番ひどいぎっくり腰患者だと言われ、ずっと自力で歩行できず、トイレも寝る時も着替える時も介助が必要になったK兄弟は、このような状況下に置かれ、人の助けなしに何もできない自分である事、生活できるのは当たり前ではなく神の御手の中で生かされている自分である事を悟りました。そして、体を動かす際も誤った動きをすれば激痛が走るため、一つ一つどのように体を動かせば良いのかまで神に聞くことを教えられ、ここまでイエス様に忠実に聞きながら生活していたかを問われ、悔い改めました。

 

会社には行けず、母(牧師)が毎日来て、K兄弟と交わる中で見せられたのは、自分のやり方、自分の義、自分の意見、自分なりの善を捨てられていない姿でした。自分の力では洗面所にも行けず、トイレにも行けないのに、「歯磨きは絶対にしたい!おむつは履きたくない!」と言い、妊婦である私や家族を動かし、朝方4時にトイレに行きたいからと私を起こすこともありました。また、年末の帰省に際して、実家に海産物を送っていることを、自分が帰省したタイミングで伝えれば良いと思っていたことも明るみになり、「それでは、年末年始の食事を考えているお母さんが困るでしょ!そういう事は早く伝えなさい!」と訓戒されることもありました。K兄弟は、自分のやり方をすることで、声掛けが不十分になり、結果周りに迷惑をかけていること、それは無関心であるのと同じであることも語られ、悔い改めました。

 

人が何を求めているのか聞くこと、自分は何をしてほしいか伝えることが、“今だけ、金だけ、自分だけ”の世の中でどんどん失われています。困っている人がいても、道端に人が倒れていても、「どうしましたか?」と声をかけて人助けする事さえできない人もいます。K兄弟は、神に心を見られ、悔い改めたことにより、見ず知らずの人も含め、たくさんの人の助けを借りることができました。神が遣わしてくださいました。本当に感謝な事であり、万事が益となった今ですが、年末に腰が砕かれるほどまでになるK兄弟自身の歩みはどうであったのか。神を愛し、神に熱心に祈る姿は、妻として見てきましたが、学んできたことをどれだけ実践してきたのか、特に職場においてどうであったのか、神のタイミングで的確な発言が出来てきたのか・・・来年家族がもう一人増えようとしているこの時に、神に問われたことも愛されているがゆえであり、体の痛みをもって、自分の罪を自覚できたことで、男らしく強く、K兄弟が新しく生まれ変われたことを感謝します。

 

【立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。】(第1コリント10:12)と書かれてあるように、今年最後の集会で、「自分は大丈夫!できていると思っている人ほど、できていないですからね!倒れないように気をつけなさい!」と牧師を通して語られ、一人一人自分はどうか吟味しました。

的外れな会話をしていないか、特に親子間でまっとうに子どもを躾けられているか、叱れているか、神のタイミングを逃さずに忠実に物事を行えているか、誰かのため(病気の家族が癒されるため)の信仰ではなく、自分のための信仰を確立できているか、握りしめて手放せていないもの(人)はないか、福音宣教に日々意志を向けることができているか、自分の賜物、神が求めておられる働きをわきまえ知り、喜んで力を尽くして行なえているか、救われる前の自分に勝利し、万事を益にして歩んでいるか、180度生まれ変わったと自他ともに認められているか・・・霊の世界は一瞬で変わるからこそ、自分次第、自分の信仰次第であることを、改めて兄弟姉妹8人がしてくれた証を通して語られました。

そして、霊の交わり、牧師、兄弟姉妹との交わりがなければ、自分が今どこに立たされているのかも分からず、気が付いたら、やぎになってしまっている場合もあります。今年は群れの中で兄弟姉妹たちが1つとなって起業した年でもあり、交わりの機会が増えました。しかし、肉で交わっていても、何の益にもならず、物事は前進せず、失敗もありました。それを悔い改め、互いに霊を立たせる訓練を受けながら、最高のパートナー、仲間へとなっていきました。

 

【一人が倒れたら、一人が助け起こす】・・・どんな言葉で、どんなやり方でするのか?相手のことを御存知のイエス様に一つ一つ聞いていかなければ分かりません。それは肉の主人(妻)、家族であっても同じです。その積み重ねにより、神のタイミングで救われていきます。【ふたりは一人にまさる】で、ご主人が救われ、夫婦でイエス様を信じて歩めるようになった姉妹たちもいます。

霊の交わりを求め、自分の事を知ってもらい、相手の事を知り、互いに関心を持ちあって、一日一日祈り合い、励まし合い、時に訓戒し合って、前進していける人が、夫婦が、親子が、家族が一つの群れとなっているぶどうの木であることに感謝し、来年も、神の愛と力をこの日本に、世界に体現していけたことを感謝して祈ります。そして、来年の干支である馬のように福音宣教に駆け抜けます馬虹

 

最後に兄弟姉妹たちがいただいたみことばを紹介しますガーベラ

 

エゼキエル33:1~9本

主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、あなたの民の人々に語って言え、わたしがつるぎを一つの国に臨ませる時、その国の民が彼らのうちからひとりを選んで、これを自分たちの見守る者とする。 彼は国につるぎが臨むのを見て、ラッパを吹き、民を戒める。 しかし人がラッパの音を聞いても、みずから警戒せず、ついにつるぎが来て、その人を殺したなら、その血は彼のこうべに帰する。 彼はラッパの音を聞いて、みずから警戒しなかったのであるから、その血は彼自身に帰する。しかしその人が、みずから警戒したなら、その命は救われる。 しかし見守る者が、つるぎの臨むのを見ても、ラッパを吹かず、そのため民が、みずから警戒しないでいるうちに、つるぎが臨み、彼らの中のひとりを失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、わたしはその血の責任を、見守る者の手に求める。 それゆえ、人の子よ、わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。 わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。 しかしあなたが悪人に、その道を離れるように戒めても、その悪人がその道を離れないなら、彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる。

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第1テサロ5:16~18本

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

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ローマ15:1~6本

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

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箴言19:21本

人の心には多くの計画がある、 しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

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ヨハネ11:9~10本

イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。

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伝道の書9:9~10本

 日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。 すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。

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アーメンゆめみる宝石

今年一年間も、このブログを読んでくださりありがとうございました。来年もよろしくお願いしますピンク薔薇

”Merry Christmas ☆彡 ”



”イエスキリストが来られる”



救い主イエス様の愛と力

holygirlですニコニコ

 

今週はクリスマス集会ということで、賛美歌に入った2曲のクリスマスソングからメッセージを受けました。

 

音譜さやかに星はきらめき(O Holy Night))音譜

1.さやかに星はきらめき 御子イエス生まれたもう

長くもやみ路をたどり メシアを待てる民に

あたらしき朝はきたり さかえある日はのぼる

いざ聞け 御使いうたう

たえなる天(あま)つ御歌を

めでたし きよしこよい

 

2.輝く星をたよりに 旅せし博士のごと

信仰の光によりて われらも御前に立つ

馬ぶねに眠る御子は きみのきみ 主の主なり

われらの重荷をにない 

やすきをたまうためにと

きたれる神の子なり

 

3.「互いに愛せよ」と説き 平和の道を教え

すべてのくびきをこぼち 自由をあたえたもう

げに主こそ平和の君 たぐいなき愛の人

伝えよ その福音(おとずれ)を

ひろめよ きよきみわざを

たたえよ 声のかぎり

 

旧約時代は、神と人間の関係の中で、罪を犯す者、御言葉に逆らう者は殺され、滅ぼされてきました。神がソドムとゴモラの町を滅ぼされる時には、ロトと妻、二人の娘だけが導き出されましたが、「ソドムから逃げる途中に振り返るな」との神の言いつけに背いたロトの妻は塩の柱にされました。今聞くと、とても残酷なやり方ですが、このように神の怒りが直接下る中で人々は神を恐れて過ごしていました。まさに1番の歌詞にある通り、長くもやみ路をたどり、預言で聞いていたメシア(救い主)であるイエス様、神との間に入ってくださる仲介者が来られるのを待っていたのです。そして、馬小屋で処女マリアの胎を通って、イエス様は誕生されました。人々の罪をゆるし、重荷を担い、平安を与えるために来られたのです。

イエス様の教えは、「互いに愛し合うこと」であり、平和の道を教えてくださり、サタンの支配下であるこの世で奴隷となっていた私たちのくびきを砕き、自由を与えてくださいました。私たちはこの福音、イエス様の訪れを伝えるために生かされています。きよき御業を讃え、広めていく任務があります。

 

 

音符もろびと こぞりて音符
1.もろびとこぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし 

主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり

2.悪魔のひとやを 打ち砕きて 捕虜(とりこ)をはなつと 

主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり

 

3.この世の闇路を 照らしたもう たえなる光の

主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり

 

4.萎める心の 花を咲かせ 恵みの露置く

主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり

 

5.平和の君なる 御子を迎え 救いの主とぞ

誉め称えよ 誉め称えよ 誉め 誉め称えよ

 

イエス・キリストは、悪魔の一矢を打ち砕いて、悪魔の捕虜になっていた私たち人間を放つ(解放する)ために、この地上に来て下さいました。明日何が起こるかも分からない、いつどこに落とし穴があるかも分からないこの世の闇路を照らし、人生の道標、光となって下さいました。様々な問題を抱えて萎んでいた心に花を咲かせ、恵みを注いで下さいました。そんな神・救い主を全ての人間が待ち望んでいます。日本にはない神。日本人が出会って来なかった神。しかし、今も生きておられ、御業をもってご自分を表してくださる唯一確かな神です。この方、イエス・キリスト以外に救いはありません。イエス様はおっしゃいました、【わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない】と。(ヨハネ14:6)日本人がこの神を知り、誉め称えるクリスマスとなるよう、私たちは福音宣教していかなければならないと語られました。

 

ぶどうの木は来年20周年を迎えます。教会という建物を持たずに市の施設を借りて毎週集会を行っているため、待っていても人は導かれず、出て行って隣人に福音を伝えなければなりません。一人一人がキリストの大使として目の前の人に自分の見た事、聞いた事、学んだことを語っていく・・・そうやって人から人への着実な伝道により人数が増え、今では60名ほどが在籍しています。感謝なことに、このブログを読んで直接メッセージをくださり、導かれてきた人もおり、それが私の主人と、カン牧師家族です。

牧師が母教会を出て一人で家庭集会をしていたところに、次女が加わり、迫害していた長女(私)が加わり、2人の娘の友人、知人が救われていきました。その人たちがさらに自分の家族や友人に福音を伝え、さらに聞いた人たちが周りに福音を伝え・・・牧師を1代目とするなら、今7代目になる人たちまでが、集会に参加しています。福音を2年間拒み、「私は自分を信じる!」と言っていた美容師の姉妹が救われ、美容室が伝道所となったことで、そこで救われる人がたくさんおり、皆が導かれてきてぶどうの木の人数は倍以上になりました。要となる人が救われようとする時、それを阻止するサタンの働きも強いですが、忍耐強く福音を語り、とりなし祈ることで神のみ旨だけが堅く立ち、必ずサタンは敗北して救われることも、確信しました。

だからこそ、私たちは語ることをやめてはならず、あきらめてはならず、目の前にいる人は神が福音しなさいと与えてくださった

選びの民であると思って向き合っていかなければならないと語られました。

 

そして、牧師を通しては、救い主が生まれた後、世界的に、“今だけ、金だけ、自分だけ”の世界であった2025年間であったと語られました。お金に支配され、一部の人間の欲のために利用され奴隷になってきた人類は、【神と富とに兼ね仕えることはできない】のに、神ではなく、富に仕えることに必死になってきました。お金があれば平安、お金があれば幸せ、お金で物事は解決できると思い込まされ、自分の命の時間をお金のために費やしてきました。この世の金持ち、支配者層と言われる人たちは、お金だけでは満足できず、子供を虐待し、殺し、その肉を食べ、血を飲むといった狂気的な行動に快感を覚え、完全にサタンに聞き従う者となりました。お金に狂わされることがいかに恐ろしいことか・・・それはサタンに仕えているのであり、最終的には思いがけないやり方で命を奪われ、地獄に道連れにされていきます。今年は、そんな世界にイエス様が来られたクリスマスであるのだと語られました。

クリスチャンであっても、献金を拒んだり、きっちり十分の一をお返しせずにごまかしたり、献金=自分のお金だと誤解して、その使い道をいちいち気にしては、イエス様に聞いて使う牧師に腹を立てたり、不信感を抱いているのであれば、サタン側にいる事になります。その結果、肉に滅びを刈り取り、聖なる集会の席に着く事ができなくなった兄弟がいたことも、今週の集会で私たちは教訓として話を聞きました。それだけお金へのきよさは神に求められることです。悪魔の一矢を打ち砕いて、イエス様に従うことで、神によって経済的にも社会的にも祝福を受け、健康面においても守られていくのがクリスチャンであることも再確認しました。

 

さらに、神がおっしゃる「愛」とは、人に関心をもち声をかけること、質問すること、その人が何を求めているのかを引き出してあげることであると語られました。“今だけ、金だけ、自分だけ”の世界の中で、特に日本人は自分さえ良ければ良いという自己中と、周りの目を気にして自分のことは言いたくない、聞かれたくないという思いに囚われています。しかし、それは、家庭でさえも親身に自分の話を聞いてくれる人がおらず、話す機会がなかっただけ、あるいは、話しても真剣に受け答えしてくれる人が周りにいなかった、話しても嘲られたり馬鹿にされたり、噂されたりという体験をしてきたからでしょう。

様々な思いはあっても、口を開かない人が多いですが、本当は皆、自分の話を聞いてくれる人がほしいのです。特に老人施設にいるお年寄りは、そんな話し相手ができたら、自分のことを次々に話し始めます。幼子は、お父さん、お母さんを捕まえてでも、追いかけながらでも、話をしてきます。それが本来の姿です。今の日本人は、時間と心の余裕がないから、互いに無関心になりどんどん孤立させられています。日本から他者に関心をもったコミュニケーション(対話)が失われていっている現状の中で、私たちは自分の利益を求めず、隣人のために「愛」を注ぎ出せているか問われました。牧師に自分がしてもらったように、今度は自分が相手に寄り添い、時間をかけてでも本心を知り、聞かされた問題を解決する知恵をイエス様に求め、共に祈り、サタンと戦い、解放に導いてあげなければなりません。徹底的に聞き続けなければ出てこない思いがあります。

 

物事にはタイミングがあります。言葉にするべき事、言葉にしなければ分からない事があり、それを的確なタイミングで行うことで、聖霊も働いてくださいます。クリスチャンでありながら、タイミングを逃すなら、完全に肉の人であり、全く聖霊を拒否している罪であると語られました。まず、私たち自身が、“今だけ、金だけ、自分だけ”の歩きになっていないか吟味し、主の軍隊、兵卒であることの自覚、何事をするにも神の栄光のために行う者であることをわきまえ知らなければならないと語られました。

 

集会の後半の証の時間の中でも、言葉かけ、コミュニケーションに対する反省をした姉妹もいれば、イエス様によって出す言葉がみことばに基づいた愛あるものに変えられ、家庭教育の土台が確固たるものになったと証をしてくれた姉妹もいました。

 

A姉妹は、今年起業して、姉妹2人と糀づくりから販売をするに至りました。その集大成として冬のギフトセットを作り、販売することになったのですが、一度完成したギフトは、購入した牧師や姉妹たちが見た時に、これを販売するのはどうか?と思う点がいくつかありました。それを聞いたA姉妹は、「次は気をつけます」という対応をしましたが、後から悔い改め、まだ一般のお客様に渡すまで時間が与えられている事に感謝し、やり直すことにしました。共に作業をしてきたB姉妹も、「次に生かします」と言って素直に指摘を受けられなかった自分の対応を悔い改めました。

結果、牧師や姉妹たちから知恵と助けを得て、最高のギフトが仕上がりました。46年かけて建てた神殿を、一瞬で砕き、3日で建て直すことのできる神の力に感謝しました。A姉妹は、自分の歩みを振り返った時、糀は神の栄光をあらわすもの、神から与えられた大切な務めであると分かっているようで、分かっておらず、ギフトを購入した方々が、そのギフトを贈る相手のことまで考えが及んでいなかったこと、一つ一つに対して愛が欠けており、自己愛であったこと、他人の益を思えていなかったことに気付かされ、自分の愚かさを恥じました。御霊で始めたのに肉で仕上げてしまい、共に作業をする姉妹たちも同じ神の作品であり、神の家族・姉妹であるにも関わらず、霊で受けたこと、おかしいと思ったことを言葉にせず、肉的な会話ばかりであったことも悔い改めました。

 

B姉妹は、今年は神の家族ともっと交わりたいという思いで、第3神殿と呼ばれる神の働きのメンバーに立候補し、食に対する知恵・賜物を生かして糀の作業に加わることになりました。今年1年、B姉妹が力と愛と慎みとの霊によって福音を語り続けることで、反逆していた父親が救われ、義理の両親が救われ、夫が救われ、最後に義理の兄も救われました。「主がしてくださったことを忘れるな!」と何度も霊から語られてきたのですが、この1年間の歩みの中で、古い自分に戻されること、ある言葉・ある場面にとどまってしまい、自己愛、自己憐憫、自己卑下になっていたことが多くありました。家族・親族との関わりを通して、裁きと根に持つ内面をつきつけられ、今回の糀のギフト問題をきっかけに、指摘・訓戒を受けても素直さがなく、これぐらいはいいだろうと思ってしまう自分、不信仰、不誠実、不忠実であった自分こそ元凶であったことを示されました。そして、ハバクク書2章4節から、【魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる】と語られ、魂の正しくない者であった自分を認め、信仰によって生きる者へ変わる決心をしました。また、糀作業を通して、【互いに仕え合わなければならない】という愛の姿勢も語られたと証してくれました。

 

A姉妹とB姉妹と共に糀づくりに夏から参加するようになったC姉妹は、長年悪霊の声が聞こえる中での生活に苦しみ、仕事にも行けなくなってしまったところから救われました。イエス様に救われ、意志を向けて両親と共に集会に参加するようになり、その声が聞こえなくなったのですが、悪霊に門を開いてしまったことをきっかけに、7倍悪くなってしまいました。今年の4月から8月は特に状態が悪く、日常生活を送るのも大変になり、家に居ると悪霊の声が強くなるため、家を飛び出すことが増えました。両親はC姉妹の一挙手一投足に振り回され、途方に暮れていました。その中でも、悪霊がすっと抜ける奇跡の日が2日あり、1日は妹に糀を届けた日でした。イエス様は牧師を通して両親に、「糀の仕事に関わることで、C姉妹は立ち上がれる!狭き門を通れ!」とおっしゃいました。

再び悪霊に翻弄され、両親もC姉妹も睡眠がとれないほどになり、遠方に車を走らせてはホテルに泊まり、貯金を散財するC姉妹は、ある日自ら精神病院への入院を決め、救急車を呼びました。しかし、受け入れ先がなく、2日後なら入院できる病院があると言われました。7月に両親が洗礼を受け、【なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。】(第2コリント4:17~18)を頂いた後のことでした。

入院の前日(2回目の奇跡の日)、C姉妹から悪霊は去っており、親身になってくれていたA姉妹の母親から声をかけてもらったことで交わりをもち、自宅に泊めてもらうことになりました。その時、聖書を持っていく姿にC姉妹の母親は驚いたそうです。A姉妹の母親は、『悪魔に打ち勝つ最強の武具』というトラクトに青い鳥のシールを貼ってC姉妹に渡しました。その青い鳥が、C姉妹の家のランプにいる青い鳥と同じであったことにC姉妹は喜び、イエス様の臨在を感じました。牧師を通しては、【青い鳥】が聖霊による【知識の言葉】であったと解き明かされました。

霊が喜びに満たされ、武具のトラクトを持って入院したC姉妹は、最小限の薬で回復し、入院生活の中で悪霊の声が聞こえなくなりました。聖霊におおわれ、神の声しか聞こえない器に生まれ変わり、退院してきたのでした。そして、神の御計画通り、糀作業に加わり、同時に畑仕事をし、社会復帰もできるようになりました。

糀作業を通して、古い自分から完全に新しく生まれ変わり、給料を得る立場となったことで、改めて責任をもって働くことにも喜びを得、生き生きと生活しているC姉妹になったことは、本当に感謝であり、皆の霊も喜びました。

悪霊に打ち勝った証人として、同じところで苦しんでいる人たちの光となれたことを感謝して祈ります。

 

D姉妹は、自分の出す言葉は、神の「愛」か、愛情かを吟味した時、いつも愛情であり、子どものためと思いながらも子どものためにはなっていなかったことを悔い改め、進路に悩む娘との交換日記を始めたり、家族会議を行うようになりました。そこで聖書を学んで変えられてきた母親としての思いをしっかりと伝えていくようになりました。また、娘から出るマイナスな言葉をプラスの言葉に変えてあげることで、娘に自信が生まれ、受けるより与える方が幸いで、人のために成る仕事、福祉の仕事に就きたいという思いが生まれました。学校見学会では、質問に答えてくれた人が校長先生であったことが後から分かり、イエス様の導きに感謝したのだと証してくれました。

 

E姉妹の息子は、今年の4月からイエス様に導かれたキリスト教の園に入園しました。入園するまで、家庭の中でしっかりと聖書を土台に子育てをし、ワクチン接種もせずに健康な体(免疫力)を得た息子は、幼稚園でも学んできたことを実践して神の栄光をあらわしているのだと証してくれました。クラスの皆が感染症で欠席する中、一人元気な息子の姿を見て、他のお母さんから「どうしていつも元気なの?」と声が上がり、それが福音の機会、ワクチンの危険性を伝えるきっかけにも繋がっているそうです。

また、色んな友達がいる中で、息子からおもちゃを貸してもらえなかった友達が叩いてきた事があり、息子がやり返さなかった事を先生から聞いた時、息子に何を親として教えられるのかと思ったそうです。その時すぐに「許す事」を教えられたことは、聖書の学びをしているがゆえであり、学んでいなければ、相手の子どもと親に対して怒っていただろうと証してくれました。この世では、「やり返せ!」と教える親もいるでしょう。「許す事」は泣き寝入りするのだと同じだと言う声もあるかもしれません。しかしそうではなく、「許す事」で神がその心を見て相手を変えてくださるという信仰が私たちにはあります。相手に悪かったな・・・という思いを与えて下さるのも神です。自分の感情で問題を大きくするのではなく、神に信頼して委ねられる特権が与えられていることを忘れてはなりません。E姉妹の息子に、許す心がしっかりと育っていることに感謝でした。

 

【無条件のゆるし】については、書籍『齊藤諒の生きる力』(文芸社)で、交通事故の被害者と加害者の和解の証をもって広く皆に伝えてくることができました。このクリスマスに第3刷りが販売されることになり、今の時代に多くの人に求められ、読まれていることに感謝です。

今週の集会で改めて、許された側の加害者の父親が、当時を振り返り、許される側も、本当に許されていいのか?という苦闘葛藤があったこと、受け入れるのに時間がかかったこと、そこからイエス様の十字架の意味や、聖書の教えを聞き、【いつも喜んでいなさい】のみことばに励まされ、“許されていいのだ”、“許されたんだ”ということを素直に受け入れることができたことを証してくれました。許す側は大変なことでした。群れの中には、この諒兄弟の証を聞いて、どんな教えをしている教会なのか興味をもち、集会に導かれてきた人もいます。しかし、許される側にも覚悟が必要であったことまで、思いが及んでいたかと言われると、「許されて良かったね」と軽く受け止めていたかもしれません。両者が主に忠実に許し、許されて初めて生まれた無条件のゆるしの和解であったことに、改めて感動しました。

そして、許した諒兄弟の家族も、はじめに神に人生の全ての罪をゆるされて今があります。神に許された自分が誰を裁くことができようか・・・あなたも許されたのだから相手をゆるしなさい!という神のみことばの意味を、改めて証を聞いて深く理解することができました。

 

救いの告白をする際、「私が今日まで犯してきた全ての罪をおゆるしください」と言いますが、その言葉をなかなか言えない人、言ったあとに涙を流す人がいます。「全ての罪をおゆるしください」なんて虫が良すぎる・・・私は本当に汚い人間だからこんな事言えない・・・そのような人は、へりくだった良心をもった人だと思います。逆に、「ゆるしてもらえるんだ!やったー!」「許されてるのだから、いちいち私の罪を言ってくるな!」と言う人はどうか・・・そこに神がいるかどうか、意識を向けられているかどうか、問われます。

 

全ての罪をゆるすために救い主が地上に来てくださったクリスマス。許されたのならどう生きるのか・・・神は生きておられます。侮り、あざけって、同じ罪を犯し続けるなら、命の保障はありません。聖霊に示され罪だと分かっていることを繰り返す者は、許されることがありません。「悔い改めます」と言ってるだけではなく、翻って生きろ!!と、最後に喝を入れられたクリスマス集会となりました。

 

詩篇139:23~24本

神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。

 

ヨハネ15:16~17本

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

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イザヤ61:1~3本

主なる神の霊がわたしに臨んだ。 これは主がわたしに油を注いで、 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、 捕われ人に放免を告げ、 縛られている者に解放を告げ、 主の恵みの年と われわれの神の報復の日とを告げさせ、 また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、 灰にかえて冠を与え、 悲しみにかえて喜びの油を与え、 憂いの心にかえて、 さんびの衣を与えさせるためである。 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、 主がその栄光をあらわすために 植えられた者ととなえられる。

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ローマ1:11~17本

わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。 それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

 

アーメンゆめみる宝石

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メリークリスマス!救い主イエス様の愛と力を、一人でも多くの日本人が知れたことを感謝して祈りますハート

”主に仕える夫婦”



クリスチャンとしての心構え―神の言をどう受け、行なっていますか?―

holygirlですニコニコ

 

今年の集会も、今週を入れてあと3回となりました。来週はクリスマス集会、今年最後の集会は証の会を予定していますリボン

クリスマスは、イエス・キリストが生誕された日とされていますが、ヨハネの黙示録19章11節~13節には、【またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。】と書かれてあり、イエス様のことを【神の言】と表現しています。クリスマスは、【神の言】が地上に生まれた日ひらめき電球

今週の集会では、クリスマスを前に、クリスチャンとしてイエス様ご自身である【神の言】・聖書のみことばをどのように受け、扱っているのか、しっかりと自分の身にできているのかを問われました。

 

様々な自然災害や病気、事故、トラブルといった不幸に見舞われた時、「神はなぜこんな目に遭わせるんだ!」「神はなぜ私の祈りに応えてくれないんだ!」と言う日本人。神仏に熱心に仕え、初詣に行く人数はイスラム教徒のメッカ巡礼よりも多く、賽銭を投げて神に祈り、おみくじを引いて自分が今後どうなるのかを知ろうとし、お守りを持って身が守られるようにしている日本人。しかし、面と向かって神の話をされると、「宗教だ!」とすぐに耳を塞ぎ、特にキリスト教の福音に対しては、「自分の宗教だけが正しいと思っているのか!他の宗教も認めろ!」と反発します。

一体、日本人が信じて仕えている神は何なのか・・・動物?自然にあるもの?歴史上の人物?先祖?教祖?自分に都合の良い神をつくり上げ、あるいは選び、ただ願い事を聞いてもらえたらそれで良い存在。たとえ願い事がきかれなくても、あまり気に留めず、不幸に見舞われれば、“賽銭が少なかったからだ”、“神の罰が当たったのだ”と自分の中で納得して消化し、相変わらず自分も家族も、たくさんの問題を抱えているのに、いつの間にか“これは仕方がない”と諦めてしまっています。

救われる前の自分たちも、そんな日本人の一人でした。人生こんなものだ!周りと比べたらマシだ!私はそれなりに幸せな人生を送っている!と自己正当化して満足し、自分で決めてきた人生に後悔はない!後悔しても仕方がない!前を向いて生きていくしかない!と割り切って、自分を保ってきました。

しかし、それは“本当の神”を知らない自分でした。真の神の子・イエス様=【神の言】に出会い救われ、クリスチャンになった時、今までの人生がいかに独り善がりであったか、神の言という的から外れ、いつ何が起きてもおかしくない綱渡りの人生、すでにたくさんの不幸を身に刈り取っている人生であったことに気付かされたのでした。

そして、本来人間とは、クリスチャンとは、【神の言】によって道標を得て生きる者であり、それによって180度新しく生まれ変わらなければならない、造りかえられていかなければならないのだと教えられました。宗教、日本人の神観はどうですか?自分が変わることはなく、困った時の神頼みでしかありません。生き方、習慣はそのまま・・・肉欲のままに生きる中で、小さなほこらに収められ、人間に養われている神に、少しの賽銭を投げて、祈りを聞いてもらおうとする姿勢は、神より自分が上です。普通に考えて、あなたが神なら話を聞きますか?祈りを叶えますか?傲慢なやつだと思わないでしょうか?

 

日本人の多くは八百万の神がいると思っていますが、神はただお一人であり、その神が言によって創造した世界に私たち人間もまた創造され、生かされています。その神の言が集まっているのが聖書です。聖書は神が愛して創造した人間に対して書かれたものであり、ここまで詳細にどう生きるべきか、何が善で何が悪かを教えている書物はありません。世界中の7人に4人が読んでいる世界のベストセラーであり続けている本も他にありません。クリスチャンは、神の言(みことば)を霊に蓄え、みことばに教えられて生きる者です。人の意見ではなく、神は何とおっしゃっているかを聖書を通して知り、従って生きる者です。“本当の神”は、シンプルに人間に「私の言に従って変わりなさい!」とおっしゃっているのです。これが【真理:いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理】であり、宗教との大きな違いなのです。「宗教」と言って神の言を受け入れない人こそ、宗教をしている、今のままの自分で良いという考え=宗教の霊(悪霊)に囚われているのです。聖書では、自分偶像崇拝(礼拝)者であると教えています。

 

前置きが長くなりましたが、今週の集会で与えられたみことばは、コリント人への第一の手紙10章からでした。日本人がしてきたのは、偶像礼拝であって、神だと思わされてきたものは、悪霊が真の神を見えなくさせるためにつくったものです。残念ながら、「クリスチャン」と言う人であっても、十字架やイエス様像を拝み、自分が変わることに意志を向けられないのであれば、イエス様偶像礼拝をしているだけです。どちらも神ならぬ者に自分の心を向け、仕えているだけ・・・クリスチャンとして、まず二心者となって、神を愛していると言いながら、神を軽んじていないか問われました。

 

第1コリント10:14〜22本

それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。 賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

 

アーメン宝石ブルー

主の杯と悪霊どもの杯を同時に飲むことはできません。全ての恵みが真の神によって備えられているのに、神以外のものを愛し、神より大事なものを心の内に持ち、この世と姦淫していないでしょうか?熱いか、冷たいか、白か黒かであり、主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできないこと、この世(のモノ)と完全に聖別されはじめて、主の祝福の杯を飲むことができるのだと語られました。

続けて、次のように書かれています。

 

第1コリント10:23〜11:1本

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。 だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。

もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。 しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。 もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。

 

アーメン宝石赤

このみことばを読んで、【すべてのことは許されている】を掲げて生きるなら、救われる前と生き方は変わっていかないでしょう。【すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが人の徳を高めるのではない】が重要であり、神は、「他者にとって益になることを考えてしなさい。人の徳を高めるような交わりを求めて行いなさい」とおっしゃっているのです。救われる前の自分は、“これぐらい良いか”とやりたいように生き、他者に要求ばかりして自分の益を求めた結果、どうなったでしょうか?相手が変わる事ばかりを求め、変わらない部分に文句を言い、自分の正義をふりかざして人を裁いた結果、どんな実を結んだでしょうか?神は、私たちクリスチャンを通して、周りが変えられていくことを望んでおられます。そのためには、相手にとって居心地の良い自分でなければなりません。ただ優しい、何でも黙って話を聞く居心地の良さではなく、柔和な心で神の言、善と悪を教え、導き、相手が「この人の話を聞いていたい!この人の言うことはもっともだ!」と思う居心地の良さです。

クリスチャンでありながら、自分の意見、欲することばかり言い過ぎていないでしょうか?偏食、好き嫌いはないでしょうか?人によってへつらったり、高ぶったり、態度を変えていないでしょうか?飲むにも、食べるにも、何事をするにも!神の栄光のためだと思い、意識して生活しているでしょうか?

自分が!という生き方ではなく、他者の益を求めて生きる姿勢によって、“自分は変わる必要はない”と思っている人の手本になり、「あなたのような生き方をしたい!」「イエス・キリストに救われたい!」と思ってもらえてこそ、神の栄光=イエス様ご自身をあらわすクリスチャンであるのだと語られました。

 

聖書の学びは、「宗教」ではありません。人としての在り方、生き方を学ぶものであり、人間としてこの世に生を受けた者は皆、当たり前に身に付けるべき創造主の戒めです。先に知った者には、その戒めに従い、周りに伝えていく任務があります。責任があります。それをわきまえ知った弟子たちやパウロによって書き記された聖書は、先人クリスチャンたちによって、時に命懸けで、2000年以上に渡って守られ、全人類が読めるように広がっていきました。人のために自分を捧げて行うなら、自分自身のことは神がかえりみてくださり、必要なものは神が与えてくださることも約束されているゆえ、神の義を求めて福音のバトンは受け継がれてきたのです。そのようにして、今バトンを受け継いだ私たちは、損得勘定して、自分の利益ばかりを求める自己中心的な者から変えられているでしょうか?「クリスチャンてそんな者なの!?」と周りの人につまずきを与えるようなことをしていないでしょうか?

みことばを命よりも愛し、従う決心、決意、覚悟、決断ができていなければ、簡単にみことばを軽んじ、反する行いができてしまうことは、先週、国際ロマンス詐欺にあったA兄弟の話を通しても、十分に語られた私たちです。みことばによってつくりかえられているか、人としての在り方、生き方をみことばによってもう一度自覚し、体現する器でなければならないと改めて語られました。

 

そして、今週はA兄弟を通して、さらに深い学び、みことばの受け方についての学びができたので紹介します。

 

先週の集会で悔い改め、決意表明をしたA兄弟は、その晩同居する長女にも謝罪し、決意表明をしました。「酒をやめる」という言葉に長女は驚き、「少しは飲んでもよい」と甘い言葉をかけてきたそうですが、きっぱり断酒を決意し、本当に酒を飲まないで過ごす父親の姿に改めて驚いていたそうです。娘に「F1みたいだ」と言われてきたスピード出し過ぎの車の運転も改め、娘と日常的にしていた悪口もやめ、逆に言葉に気をつけることを教えることができました。

 

A兄弟は2年ほど前にコンプライアンス違反をしている自社を匿名で内部告発していました。その影響によって、売り上げが激減し、去年の8月に一度退職推奨を受けていました。その時の条件は、会社都合で退職金満額プラス給与3年分上乗せという事でしたが、その時は退職の意思がなく断っていました。今回詐欺にあったことで、退職金を前借りできるか聞くつもりでしたが、A兄弟は早期退職して、実家と教会がある静岡県に帰るのが御心かと思いが来て、クリスチャンであることを表明し、毎週教会に通うのが大変だから退職したいこと、去年、退職推奨の時に提示された条件であれば退職したいと伝えたそうです。この時点では、どこまでも自分の利益を求め、去年の条件というあり得ない話を持ち出したため、当然会社側からは無理だと言われました。クリスチャンとしても、「教会に通うのが大変だから」というマイナスな発言に聖霊が働くわけもなく、本当はお金が必要と言ったら、足元を見られて上乗せ金額を減額されるのではないかという思いもあったそうで、内側の汚さに神の好意も働くはずがありませんでした。急にお金が必要になったので退職金の前借りは可能であるかも聞きましたが、それもできませんでした。

 

会社に退職したい旨を伝えた翌日、A兄弟の内に、退職に踏み出せない思いがあることが明るみになりました。あと一年で住宅ローンを完済できること、退職した場合、自己都合なので失業保険は3か月後からしかもらえず、すぐに次の仕事が見つからなければ、残りのローンを支払えなくなる心配があるからという事でした。そして、今回はイエス様にお借りしてあと一年会社に在籍したいという発言に、牧師からは、「要は思い通りに会社からのお金が出なかった、引き出せなかったからですよね?会社にクリスチャン云々と口にしておきながら、やっぱり退職しませんですか?考えたらローンが残っているし・・・ですか?集会で今ぶどうの木にA兄弟に貸せるお金はないと話しましたが、さらりと今回はイエス様にお借りしてと言えてしまうこと、浅はかすぎませんか?本当に悔い改めましたか?自分都合ばかりで、呆れます」と訓戒されました。

別の姉妹からも、「群れの姉妹が多額のカードローン返済を悔い改め、立ち上がって、債務整理をしているという話も聞いてきましたよね?ぶどうの木はATMではありません。本来そこまで借金を抱えたら、自分の思いなんて言っていられません。この世の人でも自己破産してでも、なんとか生活していけるように必死に働くと思いますが。簡単にイエス様にお借りするという選択肢が出てくることが、イエス様を、教会をなんだと思っていますか?甘すぎる!【わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である】というみことばが臨んでいましたが、【へりくだって心悔い】が、まったく感じられません。へりくだって心悔い、神の言葉に恐れおののく者を、神はかえりみてくださいます。A兄弟の内にそれがないのなら、神の好意も聖霊も働いてくださらないです。神は心を見られる神です」と訓戒を受けました。実際債務整理をしている姉妹からも、自分が頂いた詩篇51篇を読んでほしいと言われました。

 

自分の肉に甘く、浅はかさを悔い改めたA兄弟は、改めて会社側に、詐欺にあってしまったから、極力早く退職金を頂きたいこと、支払い期限が12月24日であることを正直に話しました。そこでようやく聖霊が働き、本来なら1月5日付の退職金支払いを、12月23日に振り込まれるように手配すると言ってくれたのです。そして、退職届け受理日を、退職したい旨を伝えた月曜日(8日)にすることで、手続きが行えるからと言われ、水曜日にすぐに退職届を出したのでした。

 

退社後、会社が親身になって動いてくれたことに感謝しながら、車の修理で会社から10分ほどの店で修理をしてもらっていると保険屋の友人(詐欺被害を疑い弁護士に相談して、詐欺だと教えてくれた友人)から「再生法というのがあるから、退職は待って!うまくいけば、負債は半分くらいになる。ただ、それは退職するとできないから、出したなら、今すぐ会社に戻って退職届けを返してもらって!」と電話がきました。車が修理中であると伝えると、「タクシーでもなんでも使って行ってくれ!」とせかされました。その時は、そのまま会社に向かう気持ちにはなれず、行きませんでしたが、A兄弟は、このタイミングでの友人からの電話は聖霊か?と思い、もうお金は握らず、このまま全額支払って終わりにするという決心が揺らぎました。これはサタンからなのか、イエス様からなのか分からず、牧師に2回電話しましたが繋がらず、先に姉に聞くことになりました。姉は「分からない。みことばをもらってみて!」と言い、後に牧師を通しても、「信仰が試されていますね!みことばをもらうように!」と言われました。姉は電話後、イエス様、聖霊なら、退職届を出す前に友人からの電話があるはずだ・・・と思ったそうです。

 

A兄弟が頂いたみことばは、歴代志下1章11節~13節でした。

 

歴代志下1:11〜13本

神はソロモンに言われた、「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、 知恵と知識とはあなたに与えられている。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう」。 それからソロモンはギベオンの高き所を去り、会見の幕屋の前を去って、エルサレムに帰り、イスラエルを治めた。

 

牧師から「何が語られましたか?」と問われたA兄弟は、「【知恵と知識とはあなたに与えられている】という箇所から、お金を得る知恵と知識と受け、このまま退職するのか、それとも取り下げ再生法に託すのか、どちらなのか分からない」と答え、「このまま退職するのがお金を握らないことになるのかと思っています」と言いました。

牧師は、「その箇所ではないでしょう?答えは最初に書いてあると思います。分からないならば、新約聖書からもらったらどうですか?」と伝えました。

 

そして、新約聖書ローマ人への手紙14章7節~8節を頂き、A兄弟は、友人の声を聞いてエジプトに引き戻されるのは違う、断ち切らなければ変われないと思い、「退職します!」ときっぱり宣言したのでした。

 

ローマ14:7〜8本

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

 

アーメン宝石緑

集会中、牧師を通して、この時のA兄弟のみことばのもらい方(歴代志下)は、お金を握っている人のみことばのもらい方であると解説がありました。自分の欲が先に来る人、誉や富を求める人は、【知恵と知識】が、お金を得る知恵と知識としか受けられず、ここ(聖書箇所)をもらっても理解できないのです。自分の握ったものでみことばが入ってこない、みことばをもらっても分からないという事がないか、皆も吟味しました。

イエス様はシンプルに、お金は捨てて、富、宝、誉、憎む者の命、長命を求めずに、私に従ってきなさい!とおっしゃいました。A兄弟の場合、長命とは、会社に留まることであり、それも求めるなと神は答えてくださっています。そうすれば、クリスチャンとして人の徳を高めるための知恵と知識が与えられるのです。今さら、会社に対して「やっぱり退職するのをやめます」と言うことはどれだけ恥ずかしく、恩知らずで、自己中であり、会社をふりまわす人間か。お金を握っていたら、それさえも分からない、考えられなくなるのです。負債が半額になったところで、残り半分はどのように返していくのか、来年退職金を同じ条件でもらえる保障がどこにあるのか・・・負債額の半額、約300万円でここまで会社を動かし導いてくださった神の恵みを無駄にし、会社からの信用を失い、自分の命をサタンに売り渡すところであったA兄弟でした。

 

牧師は、改めて7節から読んでみるようおっしゃいました。

 

歴代志下1:7〜13本

その夜、神はソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。 ソロモンは神に言った、「あなたはわたしの父ダビデに大いなるいつくしみを示し、またわたしを彼に代って王とされました。 主なる神よ、どうぞわが父ダビデに約束された事を果してください。あなたは地のちりのような多くの民の上にわたしを立てて王とされたからです。 この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。だれがこのような大いなるあなたの民をさばくことができましょうか」。 神はソロモンに言われた、「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、 知恵と知識とはあなたに与えられている。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう」。 それからソロモンはギベオンの高き所を去り、会見の幕屋の前を去って、エルサレムに帰り、イスラエルを治めた。

 

アーメン宝石緑

民の前に出入りすることができるように与えられる知恵と知識!他者への益を求め、人の徳を高める交わり、福音宣教の知恵と知識が心にあり、そのほかのものを求めないのであれば、他の者がまだ得たことのないほどの富と宝と誉れとを与えると神が約束してくださっているのです。神は、先週の集会でA兄弟が行なった悔い改めを喜ばれ、受け入れてくださったからこそ、このみことばを下さったのです。ここに神の御性質があります。悪を行う者には裁き主ですが、愛の神であり、私たちの心をいつも見て、罪人をゆるし、祝福を与えようとされるお方です。

A兄弟が、みことばに留まり、友人の提案を断って退職すると改めて決心すると、12月23日に退職金を支払うと言っていた会社が、親会社が外国のため、万が一に備えて22日に振り込まれるように手配したと言ってきました。22日に振り込まれたら、23日には借金を返済できます。24日、クリスマス(イブ)の前に清算させてくださる神の愛と恵みに気付ける人は幸いであり、この学びを続けていくことで、良い実を成らしていけるでしょう。再生法を調べて、少しでも得するからと半額の負債を残し、来年に持ち越して、果たして返済できる保障があるか・・・友人はA兄弟のためを思って言ってきてくれたでしょうが、退職を決めたことで、友人の会社で契約していた保険を解約し、A兄弟は61万円の解約金を手にしました。解約金を惜しむ心が友人にあったか、なかったかは分かりませんが、この世の人は自分の利益も考えて動く者だからこそ、鼻から息の出る人に頼るのではなく、神に信頼して物事を決めていかなければなりません。肉欲で破滅しての今なのに、また肉欲で動いていく者であるかどうか、とことん神に試されたA兄弟が教材となり、私たちはきよさを求める心が大事であると語られました。

 

ローマ6:16〜23本

あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となった。 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

 

アーメン宝石紫

 

そして、A兄弟が頂いた歴代志下を、神の言であるイエス様が地上に来られた新約時代のみことばで裏付けるなら、ローマ人への手紙14章7節~8節。【生きるにしても死ぬにしても、主のもの】、イエス様のために生きろ!とここでもA兄弟は語られたのです。旧約のみことばを、イエス様はシンプルに語ってくださいます。だからこそ、私たちは旧約のみことばをもらって分からないのであれば、新約からもらうよう教えられてきました。このように、みことばをもらい、神との関係を築けることは、何より幸せなことです。決して宗教にはありません。過去、現在、明日、未来のこともすべてご存知の神が直接自分に語ってくださる特権を、怠惰になって、肉欲に負けて、放棄してはならないと語られました。

 

日本人は忖度し、自分のことを隠し、人にどう思われるかばかり考える性質があります。しかし、クリスチャンは神がどう思うかを一番に考えます。これを言ったら神がどう思うか、これを言わなかったら神はどう思うか・・・そのようにして24時間365日自分自身を捧げて生きます。みことばに従うことで、いかにみことばに従ってこなかった自分であるかを知り、悟り、恥ずかしさ、愚かさも身に染みた上で、恥を捨てて自分のことをさらけ出して語ることもできます。さらに言うなら、自分はサタンの支配下で翻弄されていたのであり、霊の世界を知り、悪霊との戦いであることを学ぶため、いつまでも過去の自分をグサグサ責める必要もないのです。

また、A兄弟の証を通しても分かるように、霊が生き返って神の子とされていても、善をしようとしていても、悪に走らせようとする力が働きます。肉の思いは死、霊の思いは命と平安だと分かってはいても、サタンは私たちの弱点を知って働きかけてきます。だからこそ、自分は何者であるか、神が信じる者に与えて下さった特権をしっかりと行使して生活しなければならないと語られました。

 

‭‭ローマ7:15〜25本

わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

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(しかし、8章に入ると、罪に定められない!解放!と語られます。新しく生まれ変わることは、時間がかかることではなく、自分次第です。)

ローマ8:1〜39本

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、 死に定められており、 ほふられる羊のように見られている」 と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

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アーメン宝石赤

 

今週は、人としての在り方、クリスチャンとしての心構えを学び、最後に、牧師を通して、「神の言を伝えられる日本に必要なキリスト者であれ!中途半端な学びをし、二心者が100人いるより、主に忠実に聖活し働く僕が3人いる方が力がある!」と語られました。

クリスチャンの礼拝とは、毎週日曜日に聖書を学び、献金をして、賛美歌を歌うことであると世の中の人は思っているでしょう。クリスチャン自身もそう思っているかもしれません。しかし、本来は、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ知り、生きた聖なる供え物として自分自身を捧げて生きるのが礼拝です。日曜日だけではなく、礼拝は月曜日から日曜日まで常に行われており、神は日常をどう過ごしているのかを見ておられるのです。

 

ローマ11:32〜12:21本

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 「だれが、主の心を知っていたか。 だれが、主の計画にあずかったか。 また、だれが、まず主に与えて、 その報いを受けるであろうか」。 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 

アーメン宝石ブルー

みことばからみことばを霊魂体に連動させながら日常生活を送っているクリスチャンは、「私の細胞の全てがみことばです!」と言えます。それが180度変わっているという事です。みことばによってつくり変えられていくことが苦しい修行のように感じるなら、神頼みの宗教の領域でしょう。救われる前の自分は捨て去り、神との気持ちの一致で言動するなら、喜びの内に変わっていくことができます。聖霊につき動かされて、無理難題と思えることも乗り越えて勝利を得ていくことができます。自分の周りにいる人は自分を通して、キリスト者・クリスチャンがどういう者であるのかを知ります。イエス様、聖書が何を教えているのかを知ります。サタンの支配下であるこの世の囚われ人を解放するために、あきらめてはならない!黙せず、休まず、語り続け、みことばを行い続けていくなら、必ず囚われ人は解放され、変えられていくのだという姉妹からの喜びの証(8年越しの和解の証)も聞き、まずは来たるクリスマスに向けてますます自分自身を通して神の栄光をあらわしていかなければならないと語られました。

 

詩篇138:8本

主はわたしのために、みこころをなしとげられる。

 

マルコ10:27本

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。

 

ヨハネ16:22~23本

このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。

 

アーメン宝石赤

たくさんのみことばから、一人一人に今必要なことが語られたことを感謝しますまじかるクラウン

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”『聖書的結婚』結婚・男女のきよさとは”



”あなたの信仰は? ~ザレパテの女やもめの信仰~”



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