ブロイアーは
ほとんど叫ぶように言った。
 
「私は今まで生きてこなかった。
自由を味わってこなかったのです。
それを考えると、
そのような人生を『永遠に生きる』
などという考えは恐怖そのものだ」

 

「それでは」ニーチェは熱心にすすめた。
「『永遠に生きる』ことが
好ましいと思えるように生きなさい」
 
・・
 
ブロイアーは言った。
「同じことかもしれないが…
確信は持てないのだが…
私たちは自由であるかのように
生きなくてはならないということだ。
 
たとえ運命からのがれられなくても、
運命に向かって顔を上げて
進んでいかなくてはならない。

―ニーチェが泣くとき(ヤーロム著)
 
 
西研先生の100分de名著
「ツァラトゥストラ」を読んだ。
 
永遠回帰をヤーロムが書いたように、
それでも悔いがないように生きよと
解するのはジンメルの見方だそうだ。
(ジンメル著作集をちょっと前に買ったw
貨幣論が読みたかっただけなんだけどな)
 
もう一つの見方は、
たとえ一瞬でも素晴らしいことがあったなら
生きることを肯定できる、という見方だそう。
 
両方理解できるし、
その二つは繋がっている。
 
100分de名著の後書きで、
東日本大震災でも永遠回帰は救いになるのかと
西先生が悩んだことが書かれている。
 
なんというか、
永遠回帰はただの事実の捉え方だ。
それは、神を殺した後の土台なのであって
別にそれが万人の救いになる思想ではない。
 
問題はその先である。
 
「消えたい」を書いた精神科医の高橋和巳は
被虐待児の精神世界をそのように捉えて、
それを「宇宙期」と呼んだ。
 
フランソワーズ・ドルトが、親に捨てられた
子供が「親を自分で選んで生まれてきた」のだと
言ったのもそのことだ。
 
フランクルが、人生の意義を問い直せと
言ったのもそのことだ。
 
誰かの、何かのせいにしていては、
どこにも行けない。
 
ただ、それだけのことを
不幸も苦しみもある生を生き、
いずれ死ぬ身である私ながら、
信じていられるかどうかという
だけのことなのだ。
 
 
「一本の松明が消えたとしても、
それが輝いたということには意味がある。」

―ヴィクトール・E・フランクル