編集学校の
いちばん基礎講座である
「守」の卒業式。
「守」は卒業を“卒門”というのだが
(破は突破、離は退院)
その卒門式を「感門之盟」といい、
今回テーマは『伝承』だった。
校長の松岡正剛も最期を意識していて、
ぼくもそれを意識したので受講を急いだのだが
今期から講座の内容がガラっと変わって
「伝承」の胎動をすでに感じさせる。
ではそもそも、伝承とは何なのか。
夏目漱石は手紙で
「牛になる事はどうしても必要です。
われわれはとかく馬になりたがるが、牛には
なかなかなり切れない」
と書いた。
その夏目漱石が、
最後に未完で遺したのが「明暗」である。
何が「暗」かというのが難しいのだが、
たとえば宮沢賢治は「国柱団」に参加しようとして
門前払いをされ、しかも国に帰って素封家の家も継げず、
そういったことがあったから
銀河鉄道とイーハトーブが生まれた、と。
もし彼が「明」で「馬」であれて、
「国柱団」に加盟できたなら
テロリストになって死んでいたはずだったのだ。
自ら走り抜ける馬と違って
何かを押したり引いたりする牛には
理想を追い求めるのでなく
社会と関わらざるをえなくなっていて
それでも、押したり引いたりしながら
何かに向かっていくということなのだ。
人は死ぬからには、
社会に何かを遺すことを望み、
そのことが
「牛」となったり「暗」となったりする
のだけれど、
そもそも人は儚いもので
松岡校長はそれをフラジャイルとか
宇宙的望郷とかと呼んだりするし、
僕は白い巨塔の唐沢寿明に感じたりする。
ユングは、
「人が成せなかったけれどその人に
ありえたかも知れない可能性」
のことを『シャドウ』と呼んでいるが、
馬の時期が長く、その人が輝けるほどに
シャドウは暗く
牛になったときからシャドウは薄らいで
くるのかも知れない。
そして我らの日本は、
なんとも上手く表現したものだ。
暗くなっていく刻限を
誰そ彼(たそがれ)刻と呼び、
少しずつ明るくなる夜明けを
彼は誰(かはたれ)刻と呼ぶ。
牛であり、暗だと思っていた向うに
誰かの顔が見えてくると、夜明けになる。