聖書は実は大きく分けて
新約聖書と旧約聖書に分かれている。

そもそも聖書をBibleと言うが、
biblio=本という言葉が語源で
66冊の書物を総称して聖書という。

そのうち、39冊が旧約聖書で
27冊が新約聖書。

ざっくりに言うと、
ユダヤ教の部分が旧約で
キリスト教の部分が新約です。

この旧約、新約というのは
旧訳、新訳ではなくって、
「約」ですね。
これは、「契約」または「約束」の
約を指します。

何の契約かというと、
神様の契約のことです。
つまり、この教えを守れば
保護してあげる、という契約が
信仰の基になっています。


それで、「旧約」の時には
神様とユダヤ人は沢山の律法を
契約として交わしました。
十戒が有名ですけれど、安息日や
お祭り、触れてはならないものなど、
多様なルールが決められていました。

「新約」の解釈で言うと、
人間は不完全なので神様の課すルールを
100%自力で守ることはできなかった。
だから、キリストの救いを信じるという
新しいルートが作られて、それが「新約」
なのです。


さて。
ユダヤ人は神様との契約を守らなければ
ならなかったのですが、
昨日も書いたようにダビデは必ずしも
その契約を守ったとは言えません。

3つほど神の不興を買ったという記述が
あって、その一つが部下の妻と不倫して、
その部下を激戦地に送る事で戦死させ
その奥さんを自分の妻に迎えたことです。

ダビデは王様なので、
ダビデが悪いことをすると、ユダヤ国民が
酷い目に遭うというよく分からない
システムになっているのですが(笑

その時に、罰を選ばせるというお話しが
あります。

三年間の飢饉か、
三カ月間敵に負け続けることか、
三日間の疫病か、
から選ぶ。


通常人間同士の契約で、損害賠償というと
相手に何かを払いますね。
でも、人と神様の関係だと、人は神様に
支払いをすることが難しくなります。
それで、罰を受けるという形式になる。
(自然界の厳しさで、罰のような出来事は
起こり得ますし)

この時ダビデは、
誰かの手に掛かるくらいなら
憐み深い神様の手に掛かりたいと、
疫病を選びます。
そして人々の苦しみを見て、一日で神様は
後悔され、疫病を終息させました。
(よく分からないかも知れないですが、
聖書の中に書かれているエピソードです)


当時は、神様は人間と近い所にいました。
人は神様を身近なものとして感じていたと
言えると思います。

僕は、キリストが人を救うために
死なねばならないことが理解できない。
(十字架を首にかけるのは、
時代が時代なら電気椅子を首にかける
ようなものだ、と言う人もいる)

旧約の頃から、
人は神様とやり取りをするのに契約を
必要としていた。
だけど旧約の頃は、けっこうファジーな
エピソードがあって、神は人の身近にいた。

旧約の頃から、人を神様に捧げるという
エピソードはあるけれど、
アブラハムは息子のイサクを殺さずに済んだ。

キリストは死なねばならなかったが、
それはつまり現実にそのような厳しさが
降りかかったということで、
それを救いとして解釈する物語が必要と
されたということなのだ。

つまりそれだけ、神様との距離が遠くなって
いるとも言えるのかも知れません。