この本は、取っておき。

とはこのように扱うべきもの
だったんだ、と、そう思わせる。


ギーゲリッヒ氏は夢を非常に大切にする
ユング派のなかでも独特のアプローチで
尊敬を集めている。

ユング心理学を日本に紹介した泰斗は
河合隼雄氏だが、
この著書は彼の息子、河合俊雄氏の訳。


河合俊雄氏は序文でこのように述べる。

“夢の中に入るために必要なのは、
「外から見ない」
「外から見るのを否定する」

ということである。

たとえば、過去の出来事や、
その人の人格特長から
夢を解釈しようとすると、
夢をその外のものから見ていて、
中に入っていないことになる。

夢を象徴として見ていくのは、
一見すると内在的な見方で、
夢の中に入っているようであっても、
象徴に当てはめたりするのも、
実は象徴体系という外から見ることに
なってしまっていることがある。”


夢の判断というと、
例えば自分が死ぬ夢はこういう意味で、
飛んでいる夢はこう、そこから落ちると
こうこう、という説明をよく聞く。

まずそれは、その人の内に入って
いないということだと思う。
確かに、と頷く。

しかし、では夢はその人の記憶の欠片
だろうと捉えるとどうなるのか。
そうすると、その人が今その夢を見ている
ことの意味が失われかねない。

“夢を内面の表現やパーソナリティの
現れとして捉えることの問題点を指摘
しておくと、
それは夢をすでにわかっているものから
捉えることになってしまいがちな
ことである。

つまり夢見手がどのような問題を
持っていて、どのようなパーソナリティ
であるということから、夢を説明し、
そこに還元することで終わってしまいがち
なのである。

夢は、せっかく未知の、
驚くべきことを
治療にもたらそうと
しているかもしれないのに、
既知の過去のこと、
パーソナリティから生じていることに
なって、何も新しいことを心理療法に
もたらさないのである。”


このことは、悩みとカウンセリングの
関係にも少し似ている。

悩みをその人の弱い部分と捉えると
何も始められない。
その人がそれに悩んでいるということ、
そのことがその人の内でどんな力として
働いているかということを含めて、
その人の悩みなのである。


本書の内容としては、
ギーゲリッヒがクライエントの状況の
簡単な説明を聞いて、夢の例をいくつか
聞き、それに対して解釈をしていく。
その解釈が、とても良いのだ。

例えば、治療の開始時に
「私は自分がなにかにしがみついている
ような感じがする」

と述べた女性の夢をいくつか見ていく。

その夢で、
「私はカタログで結婚式に着る
ウェディングドレスを選んで、
その番号を電車の外にいる女の子に
伝えなくちゃいけない」
というシーンを語る。

ギーゲリッヒは、こう返す。

“しなくてはいけない。
カタログを眺めてどのドレスが
一番いいだろうということを
想像しているとき、
花嫁はとても幸せなものではないかと
思うのですが、
彼女は「しなくてはいけない」と言う。

「ねえ、このカタログを見てよ!
素敵でしょう!?」
というのではありません。

義務のような感じがしますね。
「私はその友達に番号を伝えた」という
表現もありえたのに。”


ギーゲリッヒは、クライエントの
「何かにしがみついているような感じ」
に関してこの夢から掘り進んでいきます。

“私の想像では、
彼女がしがみついているのは
「1であること(one-ness)」
だと思います。

おとぎ話によく出てくる
処女性のイメージに「塔」があります。
若い女性がその内側に閉じ込められている。
コミュニケーションが存在しない。
一つしか中心がありません。

もし他者との関係に入っていけば、
特にそれが結婚というような
親密な関係であれば、
そこには二つの中心が存在します。

それは矛盾であって、
中心があらゆるものに対して
中間を持つことになるのです。

…もし二人の人間がいながら
一つしか中心がないならば、
それは一方が
他方の奴隷になっているか、
あるいは他の何らかの方法で
一方の中心のもとに
包括されてしまっている
ということを意味しています。

「2であること」というのは、
とても重要な心理学的問題で、
神経症にも非常によく見られます。
それは子どもの世界から
大人の世界への移行の証です。

つまり、子どもは「1」の世界に
住んでいるのですが、
「二重性」に開かれるというのは
大人のしるしなのです。”


さて。
夢のモチーフを見るということは
どういうことか、分かるだろうか。

この女性の夢として、電車
出てくるものがあるのだが、
おとぎ話の「塔」が果たすのと
似たような役割を果たしている。

閉じ込める、分ける、一つの行く先。
現代に塔を夢に見る人は少ないと
思うのだが、
今の人が違うモチーフを夢に見ながら
人生の岐路を悩んだように、
昔話のような塔を夢に見ながら
人生の岐路を迎えたのだろう。


民話や、神話や宗教の物語は、
実はこのように解釈するのが正しい。
(正しいというのは、
ジョーゼフ・キャンベルに借りた
僕の主張なので、悪しからず)

宝を守るドラゴン、山と海、日と月
季節と黄泉の国。

それは、本当にあった事ではなくて
象徴として今に通ずる意味を持つ。
それが直接意味を持つのではなく、
そのような意味を持って語られたこと
そのことにどのような意味があるかと
いうこと。


ギーゲリッヒ
夢のモチーフとしての
ウェデングドレスが何を示すのか
について語る。

“それは制服を着るように、
ある役目や職業を受け入れること。

ウェディングドレスは
とても日常的なものだけれども、
夢のモチーフとして重要なのは、
それを普段の日常的な生活の中の
ものとしては捉えないこと、
つまり、魂の現実性の実現として
捉えること”

と述べている。


神話や宗教もそうなのだ。
神が7日間で世界を創ったと、
信じている人がいると言ったら
大概の日本人は驚くだろう。

でも、極楽も地獄も彼岸もお盆も、
本当には信じていない割には、
それが人にとってどういう意味で
語られて来たのか、
知らないじゃないか。

世界が7日で作られたというのは、
今はあるべくしてあるのだという
ことだし、
死者がお盆に帰って来るというのは、
その人の肉体が消えても、
生活の記憶の中にその人が存在する
ことを示している。


さて、少し熱くなりましたが。

僕は20~30代の頃、
今思えば塔に似た夢を見ていたような
気がする。

どこかに向かうために電車を乗り継ぐ、
誰もいないプラットフォーム、
何かを探して高層へのエレベーターに
乗って上がるデパート。
(必ず窓がついていて、下が見えて怖い)
誰も走っていない未来のような高速道
を一人で車で運転している。

そんな夢。

きっと僕も、one-nessからどこかへ
向かおうとしていたのだろう。

そういえば、最近はあまり見ない。
誰かと出会えたのだろうか。どこかで。