1970年代、死刑廃止運動が
盛んだったアメリカで
「死刑にされる権利」
を主張して有名になった
殺人犯のゲイリー・ギルモア
という人がいる。
その人の伝記を
弟のマイケル・ギルモアが執筆した
「心臓を貫かれて」という本を
村上春樹が日本語に翻訳している。
ゲイリー・ギルモアは些細な理由で
人を殺し、
自分が生きていたくないための自殺に
人を巻き込み、
親身に説得してくれた人を裏切って、
殺人をくり返した。
キリスト教圏で死刑制度に反対する
声が大きいのは、
(だから懲役400年とかになったりする)
神様ではない人間が人を裁き、
しかも死を与えることは信心に背くから、
でもある。
基本、自殺も許されない。
それはさておき、
ある心理カウンセラーが
ゲイリー・ギルモアにインタビューをして、
あなたを形作っているコアは何か?
と尋ねたことがある。
僕はちょっとそれに衝撃を受けた。
著者も言う。
彼は、生い立ちが悲惨で、
母親は新興宗教を信じていて、
義理の父親がいたのだが、
とてもひどい暴力を毎日振るわれるような
環境で育った。
(自伝を執筆した弟は、別の家庭で育てられた)
だから、そのような体験が彼を形作った
ものだろうと皆思っていた。
でも、ゲイリー・ギルモアが語ったのは、
こういう事だった。
確かに、ひどく鞭で叩かれたりしたし、
それは日常、毎日のことだった。
ただ、僕を形作っていることを
一つ上げるとすると、
今でも覚えていることがある。
小学校の中学年くらいの時、
ちょっと帰りに回り道をして山の中を
歩いて帰ったことがある。
その時に、藪にはまって抜け出せなく
なってしまった。
一晩僕はそこから抜けられなくて、
独りぼっちだった。
どうやって帰ってきたかは覚えていない。
でも、その時に、
ああ、自分は世界でたった独りきりなんだ、
と思ったのは覚えている、と。
僕がここで衝撃を受けたのは、
そのメンタリティーが、全く理解できない
という理由では無い。
(すごくよく分かる、という人にも
後に出会って、それはそれでワオ、と
思ったけれど)
どちらかというと、その出来事の
小ささに衝撃を受けたのだ。
幼い頃の冒険と失敗、
誰にだってあることじゃないか。
だけど、その小さな一つが、こんなに
大きな異なる考え方を作り出す。
その本を読んだ頃は、今ほど心理学を
知らなかった。
認知行動も、人生脚本も、ブリーフに
マインドブロックに禁止令も、知らない。
だけど、ああ、人のことを分かったと
思ったとしても、本当は全然違う、
似ていると思っても、本当は
とっても異なっているんだ、と
思ったのだった。
ではそうすると、
人と人とはわかり合う事が出来ないのか。
それはそれで淋しいようにも思う。
その時に、僕がとても好きな神話学者の
ジョーゼフ・キャンベルの本で
インドのヒンズーの神話から引用された
とても美しいイメージを読んだのです。
ヒンズーにはインドラという
古くてとても強い神がいる。
インドラの持っている宝物に、
インドラの網というものがあって、
大きな網の縫い目一つひとつに宝玉が
縫い付けられている。
その宝玉同士は決して交わることはない。
だけど、神殿のロウソクの火を反射して
キラキラと輝く。
その輝きを宝玉と宝玉が反射しあって、
無数の輝きを生むのだと言う。
神話や物語というのは、
今宗教が一般的にそうであるように
語られることを事実と捉えるべき
なのではない。
そうではなくて、その比喩が、
メタファーが表現するものを、
今の自分として感じるために
あるのである。
宝玉一つひとつは、
一つの宇宙であり
一つの神であり、
一人の人間の、
メタファーなのである。
であれば。
地球は一つの西瓜のように
一体であるという必要もないし、
葡萄みたいにバラバラで
それぞれがただ
鈍く光を反射しているのでも
良いのである。
そもそも光を反射するべきなのか、
闇を共有する価値は無いのか、
どちらがプラスでどちらかがマイナスだと
誰が決めて、誰が思うのか。
確かに一人ひとりは孤独かも知れない。
一人で死んでいくのだし、
本当にわかり合えることなんて、
無いのかも知れない。
でも、もしかしたら、
それだからこそ、豊穣なのかも知れない。
まばゆく輝くインドラの網のように、
無限の空間にある宇宙の無限の星々が、
真空を無限の量の光で埋めることが無い故に、
星が輝く夜があるのと同じように。
※※
「もし宇宙が無限に広く一様に星が
分布しているとしたら、
宇宙は無限に明るいはずであるが、
何故夜は暗いのか」
という謎をオルバースのパラドックスと
いいます。
十分に広い平坦な森の向こうを見ると、
木と木の隙間はいずれ別の木で遮られて
その向こうが見えなくなる、という現象と
同じです。
盛んだったアメリカで
「死刑にされる権利」
を主張して有名になった
殺人犯のゲイリー・ギルモア
という人がいる。
その人の伝記を
弟のマイケル・ギルモアが執筆した
「心臓を貫かれて」という本を
村上春樹が日本語に翻訳している。
ゲイリー・ギルモアは些細な理由で
人を殺し、
自分が生きていたくないための自殺に
人を巻き込み、
親身に説得してくれた人を裏切って、
殺人をくり返した。
キリスト教圏で死刑制度に反対する
声が大きいのは、
(だから懲役400年とかになったりする)
神様ではない人間が人を裁き、
しかも死を与えることは信心に背くから、
でもある。
基本、自殺も許されない。
それはさておき、
ある心理カウンセラーが
ゲイリー・ギルモアにインタビューをして、
あなたを形作っているコアは何か?
と尋ねたことがある。
僕はちょっとそれに衝撃を受けた。
著者も言う。
彼は、生い立ちが悲惨で、
母親は新興宗教を信じていて、
義理の父親がいたのだが、
とてもひどい暴力を毎日振るわれるような
環境で育った。
(自伝を執筆した弟は、別の家庭で育てられた)
だから、そのような体験が彼を形作った
ものだろうと皆思っていた。
でも、ゲイリー・ギルモアが語ったのは、
こういう事だった。
確かに、ひどく鞭で叩かれたりしたし、
それは日常、毎日のことだった。
ただ、僕を形作っていることを
一つ上げるとすると、
今でも覚えていることがある。
小学校の中学年くらいの時、
ちょっと帰りに回り道をして山の中を
歩いて帰ったことがある。
その時に、藪にはまって抜け出せなく
なってしまった。
一晩僕はそこから抜けられなくて、
独りぼっちだった。
どうやって帰ってきたかは覚えていない。
でも、その時に、
ああ、自分は世界でたった独りきりなんだ、
と思ったのは覚えている、と。
僕がここで衝撃を受けたのは、
そのメンタリティーが、全く理解できない
という理由では無い。
(すごくよく分かる、という人にも
後に出会って、それはそれでワオ、と
思ったけれど)
どちらかというと、その出来事の
小ささに衝撃を受けたのだ。
幼い頃の冒険と失敗、
誰にだってあることじゃないか。
だけど、その小さな一つが、こんなに
大きな異なる考え方を作り出す。
その本を読んだ頃は、今ほど心理学を
知らなかった。
認知行動も、人生脚本も、ブリーフに
マインドブロックに禁止令も、知らない。
だけど、ああ、人のことを分かったと
思ったとしても、本当は全然違う、
似ていると思っても、本当は
とっても異なっているんだ、と
思ったのだった。
ではそうすると、
人と人とはわかり合う事が出来ないのか。
それはそれで淋しいようにも思う。
その時に、僕がとても好きな神話学者の
ジョーゼフ・キャンベルの本で
インドのヒンズーの神話から引用された
とても美しいイメージを読んだのです。
ヒンズーにはインドラという
古くてとても強い神がいる。
インドラの持っている宝物に、
インドラの網というものがあって、
大きな網の縫い目一つひとつに宝玉が
縫い付けられている。
その宝玉同士は決して交わることはない。
だけど、神殿のロウソクの火を反射して
キラキラと輝く。
その輝きを宝玉と宝玉が反射しあって、
無数の輝きを生むのだと言う。
神話や物語というのは、
今宗教が一般的にそうであるように
語られることを事実と捉えるべき
なのではない。
そうではなくて、その比喩が、
メタファーが表現するものを、
今の自分として感じるために
あるのである。
宝玉一つひとつは、
一つの宇宙であり
一つの神であり、
一人の人間の、
メタファーなのである。
であれば。
地球は一つの西瓜のように
一体であるという必要もないし、
葡萄みたいにバラバラで
それぞれがただ
鈍く光を反射しているのでも
良いのである。
そもそも光を反射するべきなのか、
闇を共有する価値は無いのか、
どちらがプラスでどちらかがマイナスだと
誰が決めて、誰が思うのか。
確かに一人ひとりは孤独かも知れない。
一人で死んでいくのだし、
本当にわかり合えることなんて、
無いのかも知れない。
でも、もしかしたら、
それだからこそ、豊穣なのかも知れない。
まばゆく輝くインドラの網のように、
無限の空間にある宇宙の無限の星々が、
真空を無限の量の光で埋めることが無い故に、
星が輝く夜があるのと同じように。
※※
「もし宇宙が無限に広く一様に星が
分布しているとしたら、
宇宙は無限に明るいはずであるが、
何故夜は暗いのか」
という謎をオルバースのパラドックスと
いいます。
十分に広い平坦な森の向こうを見ると、
木と木の隙間はいずれ別の木で遮られて
その向こうが見えなくなる、という現象と
同じです。