宗教でもスピリチュアルでも、
本人が信じて幸せならそれで
いいじゃない?と言う人がいる。
僕にはそれが問題であると
思える理由が二つある。
そのことを説明する前に、
ストレス対処の専門用語を
一つご紹介したい。
ストレス対処のことを
「ストレスコーピング」と呼ぶのだが、
大まかに分けて、二種類ある。
①情動焦点型ストレスコーピング
②問題焦点型ストレスコーピング
だ。
①は主に、考え方、捉え方を変えてみよう
というもので、
②は主に対応方法や行動を変えてみよう
というものになる。
それで、この二つは中々バランスが肝心で、
①だけだと努力して改善しようという行動が
発生しにくいし、
②だけだと自分の力で何とか出来ない問題に
対処しにくくなる。
救われることを信じているということは、
僕の立場からすると①なので、
何か辛い状態に対処する行動を取れなく
なることを意味する。
一つの事を信じるということは、
他の事を排除することでもあるので、
色々な手を打つことが出来なくなる。
信心で病気が治ると信じて
病院に行かない、薬を飲まない、のは
この類だ。
ただ、信じている本人からすれば
信じることは②に近かったりもする。
それこそ昨日の方であれば70カ所の聖地を
巡ったりするわけで、行動的エネルギーにも
繋がっている。
僕からすると、宗教は判断をいつか間違える。
何故なら僕が考えるように神のような存在が
いないのであれば、
結局判断は人間が行っているからだ。
仏教もキリスト教もあれだけ宗派が分かれるのは、
同じ教えに関して、解釈が異なってくるから。
その時に、自分で判断するということを
していないと、信者は一体どうしたら良いのか
ということになる訳だ。
なによりも。
昨日お会いした方の雰囲気を
僕はまだ覚えていて、
とても謙虚で控えめで、
でも確信を持って体験を語るのだけれど。
何故あんなに自信が無いように見えるのか。
ちょっと驚いたくらいだった。
体験の説明に確信を込めるのに、自信が無い。
怯えているようにすら見える。
どうしてなのだろう。
「信じて救われていれば幸せ」と言う人は、
信じている人が本当に幸せなのかどうか、
知らないで語っている。
で、そちらに本当に足を踏み出すとき、
何かから逃げてそこに行くのだ。
そして逃げたことを認められないと、
自分が本当に信じたのだと
思い込むように、なる。
「信じる者は救われる」と
何故あんなに必死で語らねば
ならないのかということを、
ちゃんと考えた方がいいのだ。
本人が信じて幸せならそれで
いいじゃない?と言う人がいる。
僕にはそれが問題であると
思える理由が二つある。
そのことを説明する前に、
ストレス対処の専門用語を
一つご紹介したい。
ストレス対処のことを
「ストレスコーピング」と呼ぶのだが、
大まかに分けて、二種類ある。
①情動焦点型ストレスコーピング
②問題焦点型ストレスコーピング
だ。
①は主に、考え方、捉え方を変えてみよう
というもので、
②は主に対応方法や行動を変えてみよう
というものになる。
それで、この二つは中々バランスが肝心で、
①だけだと努力して改善しようという行動が
発生しにくいし、
②だけだと自分の力で何とか出来ない問題に
対処しにくくなる。
救われることを信じているということは、
僕の立場からすると①なので、
何か辛い状態に対処する行動を取れなく
なることを意味する。
一つの事を信じるということは、
他の事を排除することでもあるので、
色々な手を打つことが出来なくなる。
信心で病気が治ると信じて
病院に行かない、薬を飲まない、のは
この類だ。
ただ、信じている本人からすれば
信じることは②に近かったりもする。
それこそ昨日の方であれば70カ所の聖地を
巡ったりするわけで、行動的エネルギーにも
繋がっている。
僕からすると、宗教は判断をいつか間違える。
何故なら僕が考えるように神のような存在が
いないのであれば、
結局判断は人間が行っているからだ。
仏教もキリスト教もあれだけ宗派が分かれるのは、
同じ教えに関して、解釈が異なってくるから。
その時に、自分で判断するということを
していないと、信者は一体どうしたら良いのか
ということになる訳だ。
なによりも。
昨日お会いした方の雰囲気を
僕はまだ覚えていて、
とても謙虚で控えめで、
でも確信を持って体験を語るのだけれど。
何故あんなに自信が無いように見えるのか。
ちょっと驚いたくらいだった。
体験の説明に確信を込めるのに、自信が無い。
怯えているようにすら見える。
どうしてなのだろう。
「信じて救われていれば幸せ」と言う人は、
信じている人が本当に幸せなのかどうか、
知らないで語っている。
で、そちらに本当に足を踏み出すとき、
何かから逃げてそこに行くのだ。
そして逃げたことを認められないと、
自分が本当に信じたのだと
思い込むように、なる。
「信じる者は救われる」と
何故あんなに必死で語らねば
ならないのかということを、
ちゃんと考えた方がいいのだ。